東京はいつも涙味 vol.3「睡蓮」

Capricorn_2plus5

第1話




 一つの家庭として様々な事象を経験し、積み上げていくために。


 もうひとつは、大黒柱である夫のプライドを守っていくために。


 私たち家族は都内にマンションを借り、三人で生活をしている。


 その事に異論はないし、というよりそれは私自身の意向でもあるのだけれど、


 家族三人のあり方とは別に、息子の学校帰りが遅い日に時々、私は一人で実家へ足を運ぶ。


 同一区内ではないが、幹線道路を車で二十分も進めば到着する距離だ。


 経済的な事情を最優先にするなら、二世帯で暮らした方が何かと好都合ではあろう。






 実家で私は、居間の隅にある兄の籐椅子に腰掛け、


 ベランダに映る庭の景色をゆっくりと眺める。


 する事と言えばそれだけだが、自分にとっては必要な時間だと思う。


 ふと立ち止まり束の間、妹でいることに浸るのだ。




 両親もそれを分かってくれていて、


 何をするでもなく、ただ座っているだけの娘に干渉してこない。


 家族で実家を訪れる時とは、異なる過ごし方を許してくれる。


 そんな両親の優しさに感じ入る時間でもある。


 もっとも今日のように、父も母も色々な予定で不在にしていることも多いのだが。






 庭の池には清楚な薄紫の睡蓮。私はこの時期が大好きだ。


 梅雨明けの間際、まさに色の濃い季節がそこまで来ていて、雲が一段と高い。


 降雨による熟成を終え、全体の密度が凝縮された感じ。


 この時期と、この時期に咲く睡蓮は兄を象徴していると、私は思う。






 兄は私と一歳違いで、小さい頃から足繁くテニススクールへ通っていたが、


 それ以外の時間はいつも家にいて、一人で本を読んでいるような子供だった。


 居間の窓辺に置かれた籐椅子は、兄の読書の指定席だ。


 かたや私は、友達と遊びたいが為テニスは週二回に留め、


 小学五年から塾へ行くようになると、


 友達といる時間が足りないからといって、コートへ行くのをやめてしまった。





 兄とは色々なことが違っていた。


 私はその頃、家だろうが何処だろうが読書を習慣にしていない。


 見かねた兄の忠告。


「本を読めば新しいことをどんどん覚えるんだ。有紀ももう少し本を読んだら?」


 それに対し私は、意を決して答えた。


「二丁目のファミマの並びにあったラーメン屋さんが潰れたの、知ってる?」


「え? うちの近くのファミマじゃなくて?」


 兄の当時の行動範囲から、二丁目にはあまり縁がなかった。


「違うよ、あそこは一丁目」


「あ、テニスに行く時の駅の近くだ」


「違うって、二丁目って言ってるじゃん」


 私は二丁目の友達を自転車で何度も訪ねている。


「……いや、知らない」


「じゃあ、ラーメン屋さんが潰れたあと何ができたかも知らない?」


「うん」


「ミニストップだよ」


 即答する小学五年の私。


 いつしか誰かから学んだ、会話の主導権を握る術だ。


「そうなんだ」


「わたしはお兄ちゃんが知らないことも知ってるよ」


「そっか……」




 私は兄の忠告に対し、自分の持つ経験値でもって対抗できた。


 だが、ちっとも満たされた気分にはならなかった。


 そのことをよく覚えている。


 何故そんなことを覚えているのかと言うと、


 兄が庭を指差しながら言葉を続けたからだ。






「なあ有紀、睡蓮の花が咲いたよ」






 促されるまま私は振り向いた。


 そして、池の水面を可憐に彩る花々を見つけ、その姿を眺めているうちに、


 労わるような優しさに心が溢れて、目尻からこぼれ落ちそうになった。





 一つ違いとはいえ兄に意見し、そのことで費したエネルギー。


 だが、失ったエネルギーの代償は、よもや想像もしていなかった苦々しい感情で、


 それを睡蓮が癒し、そっと許してくれているようだった。






 私は兄に涙を気付かれないよう、顔を伏せて自室へ向かった。


 そのことをよく覚えている。


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