青い薔薇

ゆずりは わかば

第1話

川嶋薫、というアイドルをご存知だろうか。華奢な体つきからは想像もつかない力強い歌声が特徴で、近年では珍しく、グループではなく個人のアイドルとして売り出されている。

あどけない顔つき、スレンダーな体型、陶器のように白い肌。16歳でありながら、どこか妖しげな雰囲気を漂わせる彼女は、デビュー以来凄まじい人気を集めている。ドラマに歌番組、バラエティ、旅番組りテレビで彼女を見ない日は無い。

俺は、そんな彼女についてのある秘密を入手してしまった。コレを記事にすれば確実にデカいアタリになる。でもそんな事をしたら俺は、いやこの雑誌はどうなるか。そもそもこの情報を握っている俺もどうなることか。でも、これだけは書き残しておく。


彼女は悪魔の傀儡だ。欲望に支配された泥の人形だ。


***


川嶋薫を誰よりも知っているのは、きっとこの私だ。「アイドル」という偶像としての彼女を作ったのは、この私なのだから。

私は女以外を産むつもりはなかった。自分の腹を痛めて産み出すなら、女以外ありえない。そう思っていたから、腹の中の子を何度もエコーで確認した。股間に汚らわしいものが付いていない事を、何度も確かめた。しかし、私の腹から出てきたのは男だった。

信じられなかった。自分の腹から出たものに全く愛情を感じられないなんて。この生き物を、これから育てていかないといけないと思うと、気が狂いそうだった。でも、それが生まれて三年経つ頃に気づいた。これを、女にしてしまえばいいと。男として、人間としての確固たる自我が芽生える前に、女に作り変えてしまえばいいと。そう気づいた私は、すぐさま手術に向けてあらゆる偽装工作をした。そして、行動を始めてから半年も経たないうちに、それに手術を受けさせた。

私の娘が再び生まれる記念日のために、生まれてから三年と半年経って、やっと会える我が子のために、私はお祝いの準備をした。可愛い服をたくさん買って、美しいケーキを注文した。ごちそうも、目一杯用意した。そして、あのおぞましい生物が医学によって人間に作り変えられたその日、私はようやく我が子に出会えたのだった。

私は三年分の愛情を一気に娘にぶつけた。いくら吐き出してもとめどなく溢れるこの気持ちは、私をどこまでも幸せにした。

娘が五歳になったとき、私はこの子をより完璧な存在にしようと思った。この程度で終わってはならない。この素晴らしい子に、付加価値をつけなければ。そして、この子を愛する権利を他人にも分けてやろう。そう思った。


***


川嶋薫は、一切の欠けもない、完璧な人間だ。だから誰も川嶋薫を非難しない。無視しない。傷つけない。そして、誰も川嶋薫のことを知らない。

川嶋薫の一番古い記憶は、三歳の時のものだ。生まれて初めて母という存在を知った時のこと。執着され、依存されることの心地よさを知った。誰かに注目されることは、こんなにも気分が良いのだと、知った。

川嶋薫は、母から愛され続けるために何でもした。与えられたものは全て完璧にこなし、母が求める理想の子であるために「自分」を捨てた。母が自分を世に売り出すと言いだした時、「川嶋薫」が誕生した。母だけではない、人間という生物全てから愛される存在は、あの時に生まれたのだ。

川嶋薫が川嶋薫になる前の、生まれてから2年。幼さと自分を捨てて、滲む血すら隠して、愛されるために必死にやってきた。そんなモノが、人間程度を魅了できないはずがなかった。糸を引くほどネバついた人間の中身を、生まれた時からずっと浴びてきた。この世に生まれ落ちて何度も吐きかけられたそれを、川嶋薫は知っている。それをどう飲み込めば人間が喜ぶか、川嶋薫は、よく知っている。

人形のように整った顔が貼り付けられた頭蓋の中身が何なのか。それは誰にもわからない。川嶋薫自身にも、きっとわからないだろう。


川嶋薫の、次のステージが始まる。「かおるスマイル」を貼り付けて、また人間の欲に沈みにゆこう。赤黒い、底なしの欲に。


***


「つまり彼女は、幼い頃に性転換手術を受けていると、そういうことですか?」


ツムラが顔をしかめる。


「その通りだ」


コーヒーの缶に吸い殻を入れながら、次に火をつける。ツムラは、そうする俺を見て、嫌な顔をする。


「例の番組、ほら芸能人のご先祖とかルーツとかたどる……」


「家族歴史図鑑ですか?」


「そう、それで彼女について調べてたらな、彼女が、戸籍上は男だってことがわかったんだよ。

どうやら生まれて少しして性転換手術を受けさせられてたみたいなんだよ。執刀した医師は、残念ながら彼女がデビューする半年前に亡くなっていたんだが、彼女が手術を受ける必要があると診断を出した医者はまだ生きててな。これが、その医者から内密に受け取ったものだ」


「はぁ」


ツムラは、俺が出した書類を見て、俺が嘘を言っていないことを信じたようだった。

ツムラが、紙面のあることに気づく。


「ちょっと待ってください。この診断用紙には、手術の必要無しと書いてありますが」


「母親が書類を改ざんして執刀医に提出したそうだ」


「えっ」


「どうしてそんなことを? そう思っているだろう。そんなことは知らん。ただ、亡くなった執刀医の遺品から、川嶋薫の母の筆跡で書き換えられた診断書を見つけた。おっと、出どころは聞くなよ」


ツムラは、青い顔をして吸い殻の入ったコーヒーの缶を手にとって、元の位置に戻した。


「なぜそんなことをしたのか彼女の母に聞こうにも、もう亡くなっていますし、真相は闇の中ってことですか」


「ああ。それでこの情報をどうするかって話になる。週刊誌に流せばそれは良い値段になるだろう。なにせ、あの川嶋薫のはじめてのスキャンダルだ」


2本目のタバコをコーヒーの缶に入れて、次のタバコに火をつけた。


「とりあえず、信頼できる雑誌の編集長に、この情報を渡した。もう少し詳しくこのことについて調べてもらおうと思ってな」


ツムラは、吸い殻の入った缶をじっと見つめている。


「ん? どうしたツムラ」


「かおるちゃんに会うにはどうしたらいいか考えたんですよ、僕。テレビ局に入って番組作りに関わっていれば、いつか会えるかなって思ってここに就職したんです。かおるちゃんのために、出来ることが何か毎日考えていたんです」


「何を言っているんだ、どうしたんだ急に」


「これが、僕に出来ることかなって」


そう呟いた途端、ツムラはテーブルの上にある書類を頬張り始めた。


「おいバカ! やめろ!」


俺が止めようとした時には、川嶋薫に関わる書類は全て、ツムラの腹に収まってしまっていた。


「編集長って、週刊サーズデイのヤマシタさんですよね。僕ちょっと説得してきます」


急に異様な雰囲気になったツムラに気圧されて、俺は椅子から立ち上がれなかった。

ツムラが立ち去る際に倒したコーヒーの缶からは、吸い殻が混じった黒い汁が流れている。


***


まるで夢のようだった。まさか僕が、あの国民的アイドルの、川嶋薫と結婚することになるなんて。


男の夢、浪漫の具現とも言える彼女に、求婚した身の程知らずは、沢山いた。名のある資産家、有名モデル、政治家など、彼女に求婚した男の中でも、ひときわ身の程知らずだったのが僕だった。


「そうね、一面、青い薔薇が咲いているところを見たいわ。今から三日後に見に行くから、用意しておいてね。それが結婚の条件よ」


彼女が、求婚者に結婚の条件として、ほぼ実現不能なお題を出すことは、界隈では有名だった。重さ10キロのダイヤモンドを持ってこいだとか、火にくべても燃えないドレスを持ってこいとか、結婚を遠回しに断っているのだ。と、いうことは誰もが薄々は感づいていた。そんな中で、比較的実現可能な条件を出されたのだ。これは脈アリだ! と、僕は舞い上がった。実家が花屋である僕にとって、花畑を作ることなど造作もない。収録のためにラジオ局に来るたびに、ちゃんと挨拶をしておいたのが良かったのだな。おばあちゃんの言っていた「挨拶はきちんとすること。きっと福を呼ぶ」という言葉は本当だったのだ。そう思った。


三日後、彼女は僕に言った。


「本当にごめんなさい。私、今日の収録が終わったら、海外ロケだったの。来月まで戻ってこれないから……そうね、それまでお花畑を守っていてくださる? 」


後光が差さんばかりに神々しい笑みを浮かべて、彼女はそう言った。

マメな彼女が、三日後の予定を忘れるはずがない。彼女が与える試練は、やはり甘いものではなかった。

まぁ、結果から言えば僕はそれを成し遂げた。無理難題の防波堤で厄介者を寄せ付けない彼女の作戦を、真正面から打ち破ったのだ。

彼女と約束した通り、一ヶ月花畑を守り抜いた証拠をメールで送り、花畑に彼女を呼び出した。父が遺してくれた、わずかな資産と、僕が社会に出てから、ほとんど遊びもせずに、貯めたお金を合わせ、それなりに立派な指輪も用意した。

あとは約束の場所へ、プロポーズをしに行くだけである。手を伸ばしたものの、誰も届かなかった場所に、指がかかっている。


* * *


僕が作り、守り抜いた花畑に行くと、薔薇の枝が手折られ、獣道のようなものができていた。


いったい誰が。


獣道を辿って行った先には、彼女が、川嶋薫がいた。

白く細い指に、棘が食い込むのも構わず、枝を握り、無慈悲に折る。瑞々しい薔薇の枝の抵抗も虚しく、ねじ切るように、引きちぎるように、折られる。

絨毯のように、足元に散った青。指先から滴る赤。幻のように佇む彼女は、夢のように美しい。

僕が彼女の道を辿ってきたことなど、とうに気づいていたかのように、ゆっくりと振り返った彼女の顔は、今までに見た何よりも美しく、悪魔のように鮮明だった。

川嶋薫が、指先で唇をなぞると、そこは、ルージュのように赤く染まった。言葉を失って、立ち尽くす僕に、彼女の声がとても遠くから聞こえてくる。


「ねえ、青い薔薇の花言葉って知ってる? 『不可能』よ。でも、それを乗り越えてくる人には、もう1つの花言葉が当てはまるの、『奇跡』よ。まあ、それも私に壊されてしまったわけだけど」


愛でるように踏みつけられた青は、泥に混じって黒ずんでいる。


「私は、概念だから。若さが続いているうちしか、存在を許されない概念だから。生物とは違う存在になってしまった私は、あなた達の気持ちを受け取れない。あと三年経って、私が人間になったら、ここまで私を迎えに来てね」


* * *


それから彼女とどうやって別れたのか。どうやって僕は家に帰ったのか。よく覚えていない。

そもそも、この一ヶ月の出来事は本当にあったことなのか。彼女のあの言葉は、果たして本気で言っていたことなのか。彼女があの場で見せた顔は、空虚な表情は、なんだったのか。

いつのまにかパタリと表に出てこなくなった彼女のことを、今もよく思い出す。

酒に酔ってふらりと立ち寄った花畑の跡地に、白い帽子の女がいた。街灯がスポットライトのようにその女を照らし、闇から切り離す。


ふわりと、百合の花が揺れるように、白い帽子の女が振り返る。

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