2話 私はそれが最善の手段だと思うんだよね

「のあー、遅刻ちっこくぅ」


 がたんごとんと電車が揺れる。蜂矢はちや穂積ほづみは吊革につかまり、車窓の風景を眺めながらあくびをした。通勤時間で座席は埋まっているが、すし詰め状態ではない。電車の本数は少ないが満員にならないのが田舎のいいところだ。まあ都会に比べたら田舎、というだけで県内では発展しているほうなのだが。


 穂積はイヤホンで音楽を聴いていた。少し前に流行ったラブソングだ。愛についての曲は多いけれど性欲について直接的に歌っている曲は少ない――ような気がする。もっとも愛情=性欲だとすれば、全てのラブソングは性欲についての歌ということになるのかもしれないが。


「……わっかんないなぁ」


 相変わらず頭の中には愛情と性欲のことがぐるぐる渦巻いている。もう何年も考え続けていることだが、最近は特にその頻度が高い。ご飯のときもトイレのときも寝るときも四六時中、頭の中はそれにまみれている。


(思春期真っ盛りじゃん、私。やだやだ)






 1限目は数Ⅲで、担当しているのは眼鏡をかけた還暦近い男性教師だ。穂積の席は一番後ろだし、まだ遅刻がばれていないのでは――なんて希望を抱く。後ろのドア窓から教室を覗き込むと、教師は黒板に数式を書いていた。穂積はドアをゆっくりと開け、腰を低くして教室へと侵入する。クラスメイトたちは穂積に注目すらせず、真面目に授業を聞いている。穂積のクラスは理系の特進。成績のよい生徒たちが集まっており、志望大学の難易度は高い。遅刻常習犯の穂積はクラスメイトからあまり良い印象を抱かれていなかった。穂積はこそこそと忍びこみ、何食わぬ顔で椅子に座る。


(よしよし、セーフ!)

(どこから見てもアウトよ)


 はぁ、と隣から小さなため息。顔を向けると、乙部おとべ水喜みずきがこちらを横目で見つめていた。水喜は三つ編みで、眼鏡をかけている委員長然とした容姿の女子だ。穂積にとってはクラスで唯一の話し相手でもある。


(黙ってて、黙ってて、水喜)


 そのとき、板書していた教師が急に振り向いた。


「さて、たったいま入ってきた蜂矢君――課題のレポートはどうしましたか?」

「うっ」

(馬鹿ね。バレてるに決まってるでしょ)と水喜が囁く。

「あはははは」穂積はごまかすように笑って、立ち上がる。「気づかれてましたね~。えっと課題ですね。課題、課題課題……そんなの出されてましたっけ?」

「……週末やってくるようたっぷり出しましが」教師が穂積を睨みつける。

「あれ~」


 バッグの中にはなく、プリントでごちゃごちゃの机の中を漁るとそれは出てきた。数学の問題が書かれたレポートの束だ。


「あ、これですね。うんうん、やってありましたぁ」


 穂積は机の間を通り、教卓へレポートを置く。

 戻ろうとした穂積の襟元を、教師が後ろから掴んできた。


「待ちなさい。白紙を出されても困ります。名前しか書いてないじゃないですか」


 教師がレポートを突き返す。確かにそのレポートは名前しか書かれておらず、大問の一つ目から真っ白だ。が、穂積は臆することもなく胸を張る。


「いやいや、ちゃんとやってありますけど」

「いくら私が近眼で老眼だからといってそんなごまかしが――」

「やってありますよぉ。大問10」


 穂積は最終ページを教師へ突き出す。最後は極限についての問題だった。大問1から9は白紙だが、最後の大問10だけはきっちりと解かれていた。


「最後ってたいてい一番難しい問題じゃないですか。だからこれさえ解ければ他のもまあ解けるだろうってことで、最後のだけは解いといたんですよね!」


 金曜日、このレポートが配られたときにその場で解いてしまったのだ。自分が課題を家に持ち帰ってもやらないタイプだということくらい自覚していた。


「……」


 教師が黙り、背後でクラスメイト達が息を呑む。


「あり? なにこの雰囲気?」

「……蜂矢君、レポートに不備有で平常点減点だ」

「なして~?」


 遅刻してきた穂積は知らなかった。授業の前にクラスメイトたちが、大問10が難しくて全く解けないと議論していたことを。難関大学志望の特進クラスだが、この問題を解けたのは穂積と水喜の二人だけだった。






「まーたあなたはそういう横着をするんだから」


 昼休み、穂積と水喜の二人は机を向かい合わせにして弁当を食べていた。穂積は食堂で買ってきて菓子パン。水喜は健康に良さそうな、バランスの取れた弁当だ。穂積はストローでイチゴミルクを吸った。


「だってあんな問題にいちいち答えるの面倒じゃん?」

「そんなだからあなたは平常点がマイナスになって10位圏内にも入らないの」

「でも実際の所、水喜もその手があったか!って思ったんじゃない? ないないないないないな~い?」

「思ってないわよ」ぴしゃりと水喜。「まったく、そんな横着な思考だから天使村と悪魔村事件とか起こすのよ。今でも思い出すわ、あの凍った空気」

「あれは仕方ないって~」

「仕方なくない」


 悪魔村と天使村という有名なクイズがある。天使村と悪魔村がある。天使村の住人は正直者で本当のことしか言わない。一方、悪魔村の住人はひねくれもので嘘のことしか言わない。今、あなたは旅人で分かれ道の前に立っている。片方は天使村へ、もう片方は悪魔村へと続く道だ。分かれ道には一人の案内役が立っているが、彼が天使村と悪魔村どちらの住人かは分からない。さて、あなたは天使村に行きたいのだが案内役になんと尋ねればよいか。ただし質問は一度だけ――というクイズだ。


 一年前――まだ穂積たちが高校に入学したての頃、クラスで論理クイズが流行ったことがあった。穂積はそのクイズをクラスメイトから出され、こう即答した。


「案内役の人を拷問しながら質問すればいいんじゃない? 天使村の人だったら痛いって、悪魔村の人なら痛くないって叫ぶでしょ? それで住人の判別はつくし、あとは道を尋ねればほら余裕だよ! 大解決!」


 入学したてで穂積の人柄が知られていなかったこと、また穂積の外見がゆるかったこともあり、その回答はクラスに大きなショックを与えた――というか普通にドン引きさせてしまった。


 ちなみに、穂積としては今でもその回答は間違いではないと思っている。もし間違いにしたいのなら問題文に住人は超強い、などと説明を入れておくべきだろう。

 

 はあ、と水喜は溜息を吐く。


「レポートにしろクイズにしろ、そういうところあるわよね。横着ものというか、自分の導き出した回答が周囲からどう見られるか気にしないというか……」

「でも、私はそれが最善の手段だと思うんだよね。だったらなんか、自分が折れたり曲げたりするのは嫌だなーって」


 穂積はメープルパンはもぐもぐと食べる。


「水喜、話は変わるけどさぁ」

「なによ?」

「水喜ってさぁ、好きになった人とセックスしたいって思う?」

「ぶふぉっ!」


 水喜が口に含んでいたお茶を噴き出した。


「わぁ汚いなぁ! 話は変わるけどって前置きしたじゃん!」

「脈絡がなさすぎるわよ! 昼飯時にする話じゃないでしょ!」

「夜ならええんか~? 今日の夜電話するぞ~」

「少なくともここで話すよりはマシね……」


 水喜は小声で言うと、穂積の後ろにいる男子グループに目をやった。


「ふむふむ確かに人目がね。で実際、水喜はどう? セックスしたいって思う?」

「強行しやがったわね、あんた……」水喜はティッシュで口元を拭いている。「というか、わ、わかんないわよそんなの。まだ早いでしょ、私たちにはっ!」

「女子高生ならセックスの一つや二つしたことあるや――むぐぅ!」

「声大きい! うるさいうるさいうるさい!」


 水喜は無理やり穂積の口を抑えてきた。げほげほっと、穂積は咳こむ。逆にクラスメイト達の注目を集めてしまった気がするが。


「……というか穂積。人に聞く前にあなたが答えなさいよ。あなた自身はどう思ってるわけ? というか何を思ってそんな質問したのよ」

「げほっ、私? 私自身はね、ん~っ。わかんない」

「何よそれ、人に聞いといて……」

「わかんないから質問したんじゃん。どうなんだろうね? 性欲があるから人を好きになるのか。好きになったから性欲を抱くのか。卵が先か鶏が先かじゃないけどさ」

「……議論のしようがないわね」

「なして~?」

「好きの定義が曖昧だからよ。性欲を抱くというのはその、セ……セッ……」

「セックス」

「言わんでいいから! その、セ……え、えっちしたいって気持ちになることだからわかるけど、じゃあ好きってなに? 何を持って好きと判断するの? そこをまず決めてほしいわね」

「なるほど……。好き、好きっていうのは……そうだなぁ」


 穂積は自分のことを考えてみた。自分がを好きだと思ったのは――。


「例えば、四六時中その人のことを考えちゃうとか、つい目で追っちゃうとか……そんな感じかな。好きって」


 穂積が答えると水喜はしばしぽかんとした後――くすっと笑った。


「なに? なんで笑ったぁ?」

「い、意外と乙女チックね……」

「こちとら華の女子高生だもん」


 そう――ついその人のことばっかり考えたり、目で追ったりしてしまう。

 多分、それが好きということなのだ。






 5限目は化学だった。このクラスの担当は三十代半ばの男性教師だ。


「おーい、日直。黒板消しとけー」


 髪はスポーツ刈りで、顎髭を生やしている。空手部の顧問をしており、腕や足はたくましい。最近は、次女が産まれたことをことあるごとに嬉しそうに話す。


 穂積はつい彼の姿を目で追ってしまう。


 男の名は、荒巻あらまきたけしという。愛妻家として有名な彼が、裏で生徒に手を出していることを知っている者は少ない。

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