1話 愛情と性欲の違いって何だろね

 心の底から大切に思ってる人がいた。


 私はあの人を愛していると確信していたし、あの人も私を愛していると確信していた。何度も言葉を交わしあい、身体を重ね合い、私はあの人の身体だけでなく心の一片までも全てを理解した――


 口に出して「嫌いだ」と宣言されたわけではないけれど、あの人の表情や仕草だとかで分かってしまった。あの人の心は私から離れているのだと。なぜ、どうして、と問いただしてもあの人から答えは返ってこない。ただ、私とあの人の心が離れてしまったという覆せない結果だけがそこにはあった。


 いや、そもそもきっと初めから、あの人は私を愛してなんていなかったのかも。ただ自分の寂しさを埋めるために、私の身体を求めていただけ。私は愛情ではなく、性欲を向けられていただけだった。生きたラブドールと同じ扱いだ。


 ……じゃあ、自分はどうなのだろう。自分は胸を張って、あの人を本当に愛していると言えるのか。私が抱いてるものも、愛情ではなく性欲なんじゃないのか?


 月日が経ち――その人は私以外の誰かと愛し合って子を作った。

 おめでとう、と自分が言えたかは覚えてない。

 多分、言ってないのだろう。

 その日から、ずっと考え続けてることがある。






 週の始まり月曜日の朝八時。リビングには柔らかな朝陽が差し込み、外からは鳥のさえずりが聞こえる。蜂矢はちや穂積ほづみは高校の制服を身に着け、一人で食卓に着いていた。焼きたてのトーストにたっぷりとバターを塗りたくる。穂積は高校二年生。身長は150センチ、髪はウェーブのかかった栗色で、のほほんとした雰囲気を纏っている。


 気候はほどよい暖かさで、起きてから一時間は経つのに眠気を誘ってくる。でもお腹はとても減っていて、食欲と睡眠欲を抱えながら秋穂はトーストに噛り付く。三大欲求のうち、いま抱いていないのは性欲だけ。

 

 そう――性欲。それが穂積の頭にずっと引っかかっている。


「ねぇ、お姉ちゃん。愛情と性欲の違いって何だろね?」

「……またその話?」


 玄関前にいた姉の春霞しゅんかが、顔を顰める。春霞は医学部に通っており、現在は3年生。髪は穂積と同じ栗色だがストレート。のほほんとした穂積とは対照的に凛としており、少しつっけんどんな印象の女だった。


「いや、単に何だろうって思ってさ。愛情と性欲って違うのかな? 医学生なんだからそこらへん分かるんじゃないの?」

「医学生を何だと思ってるの。食事中に止めなさいよ」

「べっつに汚いこと話してるわけじゃないじゃん? ただ純粋な疑問なんだよね。四六時中、喉に小骨が引っかかってる感じなんだよ。ね、ハナちゃんはどう思う?」


 穂積は、春霞に服装を直されている妹のハナに問いかけた。ハナの年齢は四歳で幼稚園生、穂積とは十以上も歳が離れている。ハナは穂積のほうをちらりと見て、無言のまま首を傾げた。


「園児にそんなこと聞かないで。ハナちゃん、気にしないでいいから」

「うん」と春霞の言葉にハナが頷く。

「いやいやお姉ちゃん、子供だからってバカにしちゃだめだよ。今の園児って結構ませてるからさ。ハナちゃんも人並みに愛だとかを理解してると思うんだよね。もしかしたら彼氏だっているかもしれないじゃん?」

「馬鹿なこと言ってないで早く食べなさい。あなた、また遅刻するわよ」

「しない、しないって。今日は遅刻しなーい」


 穂積は手をひらひらと振って返事をする。確かに穂積は遅刻の常習犯だが、まだ家を出る時間まで二十分はある。朝食も食べ終える直前だし、ここから間に合わないとすればよ予期せぬハプニングが起こるか、よほど杜撰な人間だけだろう。


 蜂矢家は三姉妹で、穂積はその真ん中だ。父は大学教授で、毎朝七時には家を出るほど忙しい。そのため春霞と穂積が、妹を幼稚園まで送り迎えしていた。朝は姉が車で送り届け、帰りは穂積が拾ってくるという役割分担になっていた。


「じゃあ、行ってくるわね」春霞が妹の手を引いて言う。

「はーい、行ってらっさい」


 玄関扉を開けたところで、姉は動きを止めた。


「ねえ、穂積。今日ってお父さん、懇親会だっけ」

「うん。十一時頃になるって言ってたかな」

「……そう」


 その姉の言葉の端から、秋穂はどこか不穏なものを感じ取る。


「なにお姉ちゃん。門限破る気なの?」

「……私はもう二十二。門限なんてあるほうがおかしいのよ」

「お姉ちゃんのせいでしょ? それに割を食うのは私たちなんだからさぁ」

「分かってるわよ。聞いてみただけ。じゃあ、行ってきます」

「行ってきます」とハナも続く。


 その二人の背中に、穂積は問う。


「ねえ、お姉ちゃんとハナちゃん――愛情と性欲の違いって何だろね?」

「さ、ハナちゃん。行きましょ」ワイドショーでは昨日の森首相の発言がやり玉に挙げられ、ゲストたちが厳しく非難している。政治のことは難しいな、と思う。耳から入るも頭の中を素通りしていく。


 姉は秋穂の言葉を無視して、ハナと一緒に玄関から出て行った。


 露骨に無視された穂積だが、別に腹を立てたりはしない。いつものことだ。


「今日も分からずじまいかなあ」


 ワイドショーでは昨日の森首相の発言がやり玉に挙げられ、ゲストたちが厳しく非難している。政治のことは難しいな、と思う。耳から入るも頭の中を素通りしていく。穂積はテレビのスイッチを消そうとしたが、ちょうど話題が変わった。映っているのはすぐ近くの祭季まつりぎ山だった。地元民くらいしか知らないであろう小さな山が、どうして全国放送で取り上げられているのか。その理由はすぐに分かった。


 視聴者提供の画質が荒い映像が流れる。田んぼの上を、羽を持った人型の生物が数匹飛んでいる。コビト目の動物、ヨウセイだ。発見されることは極めて稀で、見つけた人には幸せが訪れるなどと噂されている。どうやらそれが近くで目撃され、映像に収められたというニュースのようだ。


「ヨウセイねえ……」


 愛情と性欲の違いは何か――その疑問へと穂積の思考は帰結する。


 動物にだって性欲はある。じゃあ動物に愛情があるかと言われたら――どうなのだろう。ヨウセイは知能が発達しており、一部の種は狩猟道具を作ったり、祭儀を行ったりするらしい。それに親子と子供のセットで行動することも多いと聞く。家族という群れの形態。人間と似ている。そこには愛情が生まれたりするのだろうか。


「うーん、分からないなぁ」


 テレビは既に話題が移り変わり、ストーカー規制法だとかについて取り上げている。さて、そろそろ出かけなきゃなと思って穂積はテレビを消した。時計に目をやると――時刻は八時四十分。最寄り駅の電車は、八時三十五分発だ。


「……あれ? これまた遅刻する感じ?」

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