11話 幸福

 誰からも必要とされてないという事実が、幼少時から雪花を苦しめていた。だからあの日、釧路に「お前が必要だ」と言われたときはたまらなく嬉しかった。


 雪花はこの状況がたまらなく悔しい。自分が傷を負ったせいで釧路に迷惑をかけている。いっそ見捨ててしまってくれればいい。そうすれば釧路だけは助かることができる。釧路の役に立つことができる。そんなことは釧路自身も分かっているだろう。だが彼女は決してそうせず、それどころか雪花を庇っているのだ。


「逃がさない。お前らは僕の剥製だ! ここで仕留めてやる!」


 木槌の叫び声。直後、闇の中に大きな銃声が響く。雪花を庇うように立っていた釧路の頭が、左に大きく揺れた。雪花の顔に暖かい液体が飛び散る。


「……先輩?」

「……」


 釧路は何も答えない。釧路は小柄な雪花を守るように抱きしめ、覆いかぶさってきた。こちらを見つめる釧路の瞳は、ぼんやりとしている。彼女の右こめかみ側頭部からどろりと血が溢れて金髪を染める。血が雪花の顔へと滴ってきた。


 彼女は雪花の耳元で、聞き取れないほど小さな声で何か呟いた。その言葉を最後にして、彼女の身体から力が抜け、動かなくなる。


「せ、先輩。重いです。は、早く逃げましょう。先輩……。ねぇ、先輩ってば!」


 いくら呼びかけても、釧路はうんともすんとも答えない。


「せ、先輩。先輩……!」

「はははははははははははははははは!」


 木槌の狂ったような笑い声が聞こえてきた。


「やった! 当たった、当たったぞ! はは、飾ってやる、これでようやく持ち帰って剥製を作って、飾ってやることができるぞぅ……あぎゃあ! や、止めろ! 止めろ止めろ! あ、相手が、相手が違うだろぉ。僕じゃない。僕は君たちの仲間だ。僕はヨウセイを、人間は、あっ、目、目ぇ、あううううっ、あぁああああああああ!」


 森の奥へと、木槌の悲鳴が遠ざかっていく。後を追うようにヨウセイの声も遠ざかる。しばらくして木槌の一際大きな悲鳴が聞こえてきた。


「く、釧路先輩。あいつとヨウセイが、離れました。私たちも逃げましょう……」


 脇腹の痛みに耐え、雪花は叫んだ。しかし何度呼びかけても釧路は微動だにしない。雪花は歯を食いしばって、なんとか釧路を自分の上からどかそうとする。


 と、雪花は頭上に広がる光景を見て息を呑む。

 

 森の中には光がない。樹々の合間からは濃紺の空と満面の星空が見えた。柔い月明りが差し込んでいる。そして樹上には無数の輝く眼。何百という眼が爛々と輝き、雪花たちを見つめていた。木槌を追っていたのはほんの一部だけだったらしい。


 ギ、と一匹のヨウセイが鳴く。それに続いて周囲のヨウセイたちが一斉に唱和し始めた。森閑とした森が大音声に包まれる。


「ギ」「ギイ」「ギギギ」「ギ」「ギ」「ギッ」「ギ」「ギ」「ギ」「ギ」「ギ」「ギ」「ギ」「ギッギツ」「ギ」「ギィ」「ギ」「グギ」「ギ」「ギ」「ギ」「ギ」「ギ」「ギッ」「ギ」「ギ」「ギ」「ギ」「ギ」「ギギギ」「ギ」「ギ」「ギ」


 ヨウセイたちの手には、様々な狩猟道具が握られている。一本の矢が飛んできて、顔のすぐ傍に突き刺さる。


 釧路の背中に、成熟したヨウセイが降りてきた。手には石でできた小さな斧のような道具。ヨウセイは太い腕で斧を振りかぶり、背中に振り下ろす。ぐち、という音がして斧が突き刺さる。


「……や、止めて! 先輩に、触らないでぇっ!」


 切り込み隊長だったのか、その一匹を皮切りにしてヨウセイたちが次々と降りてくる。周囲を取り囲み、「ギ」と声を合わせて鳴く。


「ねえ、先輩……。起きて、起きてくださいよ……」


 釧路は何も答えない。眠ってしまったかのように沈黙している。このままでは、釧路が死んでしまう。早く抜け出して下山しなければ。


(……どうして? どうしてこうなったの?)


 ついさっきまで、釧路と一緒に笑いあっていたはずなのに。ヨウセイは幸福の象徴だなんて言われており、見つけた人には幸せが訪れるらしい。それを捕まえて売り飛ばすだなんて真似をしていたから、バチがあたったのか。


(そんなはずがない。そんなはずがないよ……。釧路先輩は私を助けてくれた。生きる意味をくれら。そんな先輩にバチなんてものが当たるはずないもん……)


 ヨウセイが雪花の間近に迫る。

 顔に小さな斧を振りかざそうとしたところで――。


 雪花の近くに何かが投げ込まれた。太い缶のようなものだ。一個だけでなく、二個三個と次々に投げ込まれていく。そこから急に煙が噴き出し始めた。すごい勢いで周囲は煙に包まれていく。視界はすぐに見えなくなった。


(な、なにこれ?)


 雪花のすぐ傍にいたヨウセイが、けほけほと咳き込む。手から狩猟道具を落とし、地面に倒れた。びくびくと痙攣したように震えている。「ギイ」「ギイ」「ギイイ」とヨウセイたちが一斉に鳴きわめき、空へと飛びあがる。

 

 雪花の方にも白煙がやって来て、げほげほと咳き込んでしまう。


(く、苦しい……。な、何これ、燻煙剤?)


 ざっ、と白煙の中から足音がした。顔を向けると、いつの間にかそこに少女が立っていた。少女は雪花の上に覆いかぶさっていた釧路を持ち上げ、地面に横たえる。少女は屈むと、雪花の腹部を触ってくる。


「よかった。怪我は浅いようね。これなら大丈夫」

「だ、誰……?」

「喋らないほうがいいわ」


 樹上からヨウセイが一匹飛び降りてきた。ヨウセイの手には木製の槍が握られている。興奮状態にあるのか低い唸り声を出し、今にも襲い掛かってきそうだ。


「あら、ゲツガコウよりも警戒心が薄いのね」


 ヨウセイが飛び、槍を突き出してきた。


 だが少女焦ることもなく、冷静にズボンのポケットから何かを取り出した。ヨウセイ目がけて構え、スイッチを押す。森の中に、閃光が走った。懐中電灯などとは比べ物にならないほどの光量。正面からまともに光を浴びたヨウセイがけたたましく叫んで地面に落ちる。防犯用のフラッシュライトだ。


「ギ、イイイイイイイイイイイィ……! イィッ!」


 樹上に避難していたヨウセイたちが大きく叫んだ。一斉に羽音がして――満面の星空へと飛び立っていく。雪花を支える少女はそれを見て、ぽつりと呟く。


「この量、妖精の道がフェアリーロード形成されかけているわね。よかったわ、予想以上に効いてくれて。最悪、この山を燃やさなければならないと思ってたもの」


 彼女は雪花の肩を取り、支えるように歩く。歩くたびに脇腹に激痛が走った。


「ま、待って……。ちょっと、待って……」

「何かしら」

「先輩も、先輩も連れてって。早く、私なんかより先輩を病院に……」


 雪花は後ろを振り向く。白煙の中に、横たわった釧路の姿が見える。雪花よりも釧路のほうが重傷だ。一刻も早く病院に連れて行かなければ――。


「無駄よ」少女が淡々と言う。

「なんで! 早く……」

「もう死んでる」

「……?」


 死んでる? 誰が? どうして? なんで?


 この子は何を言っているのだろう、と雪花は思った。思考がぼんやりとする。頭が回らない。瞼が重くなってくる。足元がおぼつかない。ひどく現実感が伴わない。なんだかまるで悪夢を見ているような気分だ。











「雪花、おい雪花!」


 頭頂部に軽い衝撃を覚え、雪花は瞼を開いた。わけがわからず、周囲を見回す。目の前には、清涼な渓流が広がっていた。頭上を見上げると、そこには陽光が差し込む緑の木々。風が吹き、さわさわと緑葉が揺れている。


「……え? あれ?」

「おい、雪花」


 後ろを振り向くと、そこにはうんざりとした表情の釧路がいた。


「え? せ、先輩? え? えええ? あ、あれ? 木槌は?」

「キヅチ? 誰だそれ。ってかなにボケっとしてんだ。とっととそれをしまえ」


 雪花は釧路の目線の先、自分の手元に目をやる。手の中にゲツガコウヨウセイが握られていた。ぐったりとしており気絶しているようだ。


「少しでも身体に傷がつきゃぁ価値が下がるだろーが。早くザックにしまえ」

「あ、は……はい!」


 ぼーっとしていた雪花だが、ようやく事態を把握してきた。そうだ、自分は釧路と一緒にヨウセイを捕獲しに来ていたのだ。あまりにもいい気候で、岩の上でうとうとしてしまったらしい。雪花は円筒の容器にアルコールで湿らせた脱脂綿を入れ、そこにヨウセイを横たえた。


「ふ、ふふふ」


 急に笑いがこみあげてきた。止めようと思ったけれど、ストッパーが外れてしまったのか一向に止まらない。しまいには涙も出てきた。なんだか安心してしまったらしい。とても怖い夢を見ていた気がする。


「あ? なんだ急に笑いだして。気色わりーな」釧路が顔を顰める。

「いえ、なんか楽しくなっちゃって……。私、なんか今すっごい幸せです。やっぱり、ヨウセイって幸福を運んできてくれるんですね!」

「逆だろ」釧路は息を吐く。「ヨウセイが幸せを運ぶなら、私たちは不幸になるぜ」

「え? ど、どうしてですか?」

「考えてみろよ。私らはその幸福を運んでくれるヨウセイを金で売り飛ばしてるんだぜ。福の神を自分らの家から追い出してんだよ。だったら幸福どころか、むしろ不幸になるのは道理じゃねえか」

「……ううん、私はそうはならないと思いますけど」


 雪花はくすくすと笑いながら答える


「……そりゃまた言い切ったな。どうしてだ?」

「秘密です」

「はぁ?」

「秘密、秘密です。私だけの秘密秘密秘密~!」


 釧路が雪花を引き寄せた。頭を両側から拳で挟み、万力のように締め付けてくる。


「ぎゃー! 痛い痛い痛い! 先輩、痛いですぅー!」

「正直お前の考えはどうでもいいが態度が気に入らねぇ。とっとと吐けバカ」


 静かな森の中、釧路と雪花のぎゃーぎゃーとした声が響く。


 どうしてヨウセイを売り飛ばしても不幸にならないのか。そんなの答えるまでもないことだと、雪花は思っていた。なぜなら雪花にとって、幸せとはこの状況そのものだからだ。自分を救ってくれた釧路。彼女と一緒にいられることが雪花の幸福だ。どれだけヨウセイを売り飛ばしても、釧路が傍にいてくれる限り雪花は幸せだ。


 ああ、こんな夢みたいな日がずっと続けばいいのに。

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