透明人間

城北 蒼

透明人間

「天国には水色の花畑が広がってるんだぞ。賢坊。そこの写真みたいにな」おじいさんはそう言いながら無機的な額に入っている写真を指差した。時間を紡ぐ、歳相応の皺の入った、それでいて繊細な雰囲気の指で。

「きれいだね。じいちゃん」夢中の僕はあどけない。それはそうだ。これは追憶なのだから。確かにあった出来事を再生している状態だ。

「綺麗だろ。賢坊。天国ってな、こういうところなんだよ。そうだ、小学校に上がったらここへ連れてってやろう。誰かと行く方が楽しいしな。俺も昔はかみさんと」


 じりりり、じりりり、じ。けたたましく叫ぶ目覚まし時計を止める。朝の7時半だ。この時間に目を覚ますのは半ば習慣づけられている。

 ほぼ10年間、休まず同じ時刻に鳴り響くこの時計は、よく遊んでくれた時計屋のおじいさんがくれた時計だ。天使のレリーフが施されていて、少し大きく重い。小学校に上がる僕のために、わざわざ起きやすく、時間も設定しやすい逸品を一から作ってくれた。おじいさんはそんな風にいつでも僕を気にかけてくれたのだ。

 そんなおじいさんが亡くなったのはその直後だった。おじいさんの娘さん曰くガンだったそうで、僕の時計をこしらえていた時にはもう見つかっていたらしい。だが出会ってから亡くなるまでの数年間だけでもおじいさんは僕のことを孫のように思っていたそうだ。

しかし、そんなことも過去の出来事を夢で見なければ思い出せなかった記憶だ。仄かに自己を嫌悪する。

 階段を下りて、階下の台所へ向かう。食パンを包みから引き出してトースターへ。弟も両親もすでに出掛けているから一人分焼けばいい。弟は県外の中高一貫校へ、両親は仕事だ。またひとり、残されたのだ。

 夢の余韻のせいかぼんやりしてしまい、珍しくパンを焦がしてしまった。そんな焦げ茶の食パンをかじりながらテレビをつける。ちょうど行楽地のニュースをやっているところだ。花畑が自慢の公園のようだ。映像に映る観光客はお年寄りくらいのものだが,どうやら家族連れも楽しめるような場所らしい。確かに遊園地も付いていて、なかなか楽しそうだ。

ぼんやりと眺めるうちに画面が切り替わり、その公園の初夏の風景を映した。液晶一面に水色の花畑が広がった。ネモフィラという花の花畑らしい。まるで空との境目が透明になってしまったかのような風景だ。アナウンサーはこの風景を天国に例えた。夢の中のおじいさんもそう言っていた。

 しかし、思えばこういうところに連れて行ってもらった経験がない。親はどちらも弟とばかり出かけ、僕は頻繁に家に一人で残されていた。部屋のベッドに横たわってゲームをしていた覚えがある。ゲームのジャンルは特に問わなかったが、当時からストーリー性のあるものはやっていなかった。あまり仲間などといったものに興味が湧かなかったからだ。

 今でも、仲間なんかと友情や愛情を育む作品には近寄りすらしていない。

 パンを胃の中に落としきり、僕はブレザータイプの制服に着替えて家を出る。たいした距離ではないから自転車は使わないで歩いて学校まで行っている。街を眺めながら毎日一人で歩くのは苦にならない。今日もぼんやり歩いていたら校門の前に着いていた。

 

 僕の学校での生活にあまり特筆すべき点はない。生徒はもちろん、教師にも認識されていないようだからだ。他者と関係がなければ何も生まれない。孤独と変化のなさに耐えてひたすらに時間を潰すだけ。変化のあるものと言えば授業を受ける教室と太陽の位置、それと時計の針くらいのものだ。

 学校に着いたら僕はいつも学校の図書館へと向かう。教室に行っても僕の机にはいつも誰かが座っているし、気づいてもらえないから座れない。だから始業のチャイムが鳴った後に教室に戻るのだ。誰も僕には気付かないんだから遅刻にはならない。便利なことだ。

 しかし今日はやけに肩がこる。だが、たまにこういったイベントに気付けるのは、孤独の数少ない特典かもしれない。

 とにかくそんな風に一日は過ぎていく。慣れればたいしたことじゃない。むしろ気楽なもんだ。誰にも干渉されないんだから。第一奴らには興味ない。だから寂しくなんて、ない。


 家に着いてもまだ外は明るかった。初夏ともなればもう日は長いのだ。ブレザーの上着はそろそろ必要なくなるかもね、なんて思いながら玄関のドアを開ける。そうすると、まだ帰ってくるはずのない靴が二足、乱れた状態で脱ぎ捨てられていた。

「お父さん?裕君が体調崩しちゃったみたいで早退して。今帰ってきたんだけど。ごめんなさい連絡遅れて。お昼休みに電話きてびっくりしちゃって。病院に連れてったら原因は分からないけどとりあえず安静にしてろって。うん。とりあえずはまだ分からないから……。じゃあね」

 そういうこと。これは今日は夕飯どころじゃないな。心の中でそう呟いて二階へ上がる。こんなこともよくある。弟は体が強いほうではない。僕が保育園のころには大病を患って片目まで取っている。だから両親はそんな弟を溺愛しているのだ。別に興味なんてないけど。

 そうは言っても空腹にはなるから、こういう時は大抵一人でどこかへ食べに行くのだが、今日は特に食欲もないから変に疲れた体でベッドへ沈み込む。僕はそのまま微睡んでいった。

 階下がどたばたと騒がしい。その音に僕は起こされた。弟に何かあったに違いない。弟のことでなければ二人が動くはずもない。僕のことが見えない中で献身的になる相手など弟しかいない。

 ふと時計を見ると時計は0時になろうとしていた。あと4秒。あと3秒。秒針に意識が持っていかれ、階下の音が聞こえなくなっていく。あと2秒。あと1秒。そして秒針が重なる。

 その瞬間、視界が真っ暗になるほどの激痛が心臓を走った。胸のあたりとかじゃない。間違いなく心臓が痛い。冷や汗が出る。止まらない。顔を伝う。胸やシーツを掴んでも感覚がない。息ができない。何か詰められたみたいに。食いしばった歯で口の中の肉を巻き込み血の味が広がる。それでもそんな僕を見つめながら進む秒針は無情だ。それすら陽炎のように揺らめいた。しかし、耳だけは、なぜか時計から聞こえるオルゴールの音を拾った。あの時聞いた歌だ。あの時、___


「じいちゃんこれなんのうた?」

「これはなあ、天国に行く人に聞かせてやる歌だよ。」

「てんごく?じいちゃんてんごくにいくの?」

「俺だって行くよ?だけど誰だっていくさ。偉い人も卑しい人も、若い人も年寄りも、人気がある人も孤独な人も。悪いことしてなきゃみーんな行くの」

「ぼくもいくの?」

「行くよそりゃ。悪いことしてないもんな、賢坊は」

「でもぼくてんごくにいくのはこわいな」

「別に怖かないさ。ただこの歌は俺も好きだよ。かみさんのこと思い出してしみじみとしちまうけどね。それでも天国で幸せにやってるのかって思うとやっぱり好きさね。」

「ぼくもこのうただいすき!」

「そんな好きなら賢坊が大きくなっても聴かせてやるさ」


 時計がやたら重かったのはそういうことか。オルゴールが入っていたからだ。好きだって言ってた歌を10年後に流してやろうってことか。

 だけどじいちゃん、こんな時に流れるなんてタイミングが良すぎるって___


 トラックで轢かれたかのような胸の痛みから解放されて、僕はなぜか教室にいた。休み時間のようだ。だが誰一人として僕に気付かないし、僕のことを気にしない。脳内には例の曲が流れ続けているが、いつもと変わらない平日のようだ。誰にも気にされないのは日常茶飯事だ。だが、僕の手はなぜかガラスのように透明だった。

 奇妙なことに焦り、とりあえず学校を出て家へ向かおうとする。だけど気が変わった。その前に時計屋へと向かってみよう。誰もいないはずの時計屋へ。

 授業があるはずの時間に商店街へ走ってみても、誰一人として自分への目線を投げかけてこない。本当に透明人間みたいになったみたいだ。自分でも体が見えないし。それでもひとまず時計屋の前に着いた。だがその時、奥から急に怒鳴り声が聞こえた。聞こえるはずのない声色で。その怒声は、怒り以外の何かで震えていた。

「ばかやろう!早すぎるぞ!賢坊!こんな早く呼んだ覚えは俺にはない!ないぞ……。ばかやろう……」

 その人物の声を聞いたとたん、目から涙が流れてきた。この声は、じいちゃんのだ。

「じいちゃん!」「賢坊!」

 じいちゃんが開いた胸に僕は飛び込む。涙が止まらない。

「今まで頑張った!本当に頑張ったなぁ」じいちゃんの一言を皮切りに、空と地面の境界が透明になった。一面水色に囲まれている。すべて朝に見たネモフィラの花だ。

 それと全く同時に、僕は自分がはっきりと元に戻った感覚を味わった。透明だった体に色が付いた。ガラスに色が付いたのだ。

「なあ賢坊、天国には水色の花畑があるって話覚えてるか?ここがそうだ。何でも許してくれるんだ。誰だって認めてくれるんだ。賢坊ももう苦しむこたぁないよ。自分に嘘つかなくてもいい。自分を認めていいんだぞ」

「うん。じいちゃん。僕今まで寂しかったよ……。誰も僕に気づいてくれなくて……」じいちゃんの胴に回る腕に力が入る。

 だんだんと微睡みが僕を包んでゆく。僕はじいちゃんの胸の中で眠りに落ちた。




「えー、次のニュースです。男子高校生の遺体を放置したとして、○○県の夫婦が死体遺棄の疑いで逮捕されました。二人は、息子の病気の世話の忙しさで亡くなっていることに気がつかなかったと供述しています。次のニュースです」


 街頭のビジョンを、人だかりは通り過ぎていく。すれ違ってゆく他人も、悲惨な出来事も気にせずに。誰もが他人に関心を抱かないから、関心を抱かれない。誰もが感情を捨てているから、他人の感情にも、自分の本心にも気づけない。

 行き交う人々は無意識に色を捨て、今日も歩行者天国の白黒を踏む。


 現実は透明人間で満ちている。


 




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