『アイをツぐ者』①
「おまえはそれで、幸せなのか?」
レイリ。
本名、
俺とレイリの出会いというのは、それはそれはもう最悪だった。
宮前亜子との一件にロッテが首を突っ込んできて、俺がそれに対する見解を述べた。その二日後の昼休みだった。
俺たちがクラスの後ろの方で数人してダベっていると、知らない女が一人、前のドアからクラスに入って来て、きょろきょろと辺りを見回した。そして、そいつは近くにいた女子に話し掛けると、話し掛けられた女子はこちらに向かって指を差してきた。どうにも嫌な予感がするなあと思って横目でその様子を眺めていたら、こっちを向いたその知らない女と、不意に目が合った。
その瞬間のそいつ――レイリの顔を、俺は今でもはっきり覚えている。
レイリは俺の顔を見るなり、カッと見開いた目で眼光鋭く俺を睨み付けてきた。真一文字に結んだ口元は微かに震え、左の頬は怒りのために引き攣っていた。そして、やつは俺の顔を見据えたまま、長い黒髪をなびかせ、つかつかとこちらに歩み寄って来たのだ。
「ちょっとあんた!」
レイリは俺の前にいた長身のロッテを押し退け、俺の机にバン、と手を突いた。
俺とその周りにいた数人のバカ全員、皆一様にポカンと口を開け唖然としていたところ、
「よくも、アコの気持ちを弄ぶような真似してくれたわね!」
レイリは他のやつには目もくれず、ただ俺一人を眼中に捉えて捲し立ててきた。
「アコがどんな気持ちで告白したか、あんたわかってんの? ねえ!」
「……誰、おまえ?」
その時の俺は目の前にいる女が「柏原玲梨」というやつであることなど知らなかったので、レイリの質問には一切答えることなく、代わりに、俺は俺の疑問をやつにぶつけた。
と、レイリにはそれが非常に不愉快だったらしく、やつはぴくりと眉を歪ませるなり、俺の机を蹴った。
ガン! と荒々しく音を立てて、俺の机は二十センチばかりも動いた。俺はビビった。こんなにビビったのは、中学の時に中庭でサコツに胸ぐらを掴まれた時以来だ。
「だから私は反対したのよ! あんたみたいなのにアコは任せられないって!」
「おい、おまえ、さっきからなんの話を……」
「まあまあまあ、ちょっと落ち着いて話をしよう。ねえ、柏原さん」
俺とレイリが火花を散らしているところへ、マシバが割って入って来た。
すると、レイリは顔を真っ赤にして次から次へと俺を非難する台詞を吐いた。俺ではなく、マシバに向かって。
まったく、俺は自分のことですらマシバの添え物扱いなのか、とうんざりしながらも、横でレイリの話を聞いていた。
それによると、どうやらレイリと宮前亜子は同じ東中出身であり、二人は三年間同じクラスだったと言う。自分を慕ってくる宮前亜子に、レイリもそれなりに目を掛けていたらしく、宮前亜子が俺にメールで告白したことも知っていた。と言うよりも、それ以前にレイリはそのことについて宮前亜子から相談を受けていた。そして、レイリはそれに反対だった。
なぜなら、レイリが個人的に俺のことを嫌っていたからだ。
レイリが俺を嫌うようになった原因――それは、遡ること半年前。I組の前で上級生に絡まれている相崎百合香をサコツが助け、相崎百合香がサコツに胸キュンしている、まさにその時だった。
あの時サコツと一緒にいた俺がなにをしていたかと言うと、なにもしていなかった。
俺はサコツがメンチを切りに掛かる直前にポケットに手を突っ込む癖があることを知っていた。そして、I組の前に屯す五人の上級生に向かって行くサコツがポケットに手を突っ込んだのを見て、俺は「ははあ。こいつ、やる気だな」と思い、サコツから離れてその辺の壁にもたれ掛かり、一般人Aのフリを決め込んだ。
そうして、サコツが上級生をボコボコにするのを傍から眺め、ひとまず片が付くのを見届けてから、再びサコツと合流して歩き出した――という情けない一部始終を、レイリはすぐそばで目撃していた。
それと言うのも、上級生に絡まれている相崎百合香を庇い、その横で上級生と言い争いをしていたもう一人のI組の女子というのが、この柏原玲梨だったからだ。
レイリはその一件で、サコツについては「まあまあ、認めてやってもいいかなー」くらいに評価していたのに対し、俺には「こいつはダメ。ただのクズ」という最低評価のEマイナスを付けていた。
そんなレイリが、俺に告白しようとしている宮前亜子に反対するのは当然と言えば当然だった。
その後、渋々ながらもレイリから承諾をもらった宮前亜子は俺に件のメールで告白し、俺はそれに気のない返事を返した。
それだけでもレイリの神経を逆撫でするのには十分だったと言うのに、やつはどこで聞き付けたのか、俺がマシバに言った「宮前亜子のことなどなんとも思っていない」という言葉を耳にして、怒りのボルテージはMAXに達し、激情に駆られたままA組に乗り込んで来た。と、そういうことらしかった。
「謝りなさい! この、バカ! アコの前でちゃんと謝って!」
鬼の形相でこちらを見やるレイリの視線をかわして、俺は意味もなく教室のドアに視線を移した。すると、教室の外から不安そうにこちらを窺う宮前亜子とばったり目が合い、余計に気まずくなった。次なる目のやり場を探して、俺の迷子の瞳は宙を彷徨った。
「まあまあ、こいつも色々言葉足らずなところもあったんだろうけどさ、宮前さんに対して悪意があったわけじゃないんだし、ここは堪えてくれないかなあ。ね、俺の顔に免じて」
「あなたの顔でどうにかなるくらいなら、そこまでの問題にはしないわよ! 大体、マシバ君はこの件に関して、まったくの部外者でしょ!」
「それを言ったら、柏原さんだって部外者でしょ? これは、シンと宮前さんの問題だよ」
「でも、私はアコから相談されて……」
俺にはまったくお構いなしのマシバとレイリはその後もしばらくなにか言い合っていたようだが、俺の耳にはほとんど聞こえていなかった。
その後、残りの昼休みを丸々使ってマシバはどうにかレイリの気をなだめすかし、終いにはわざわざI組までレイリを送り届けるという徹底した紳士ぶりを発揮して見せた。
だがしかし、この一件で元々それほど高くはなかった俺の対外的信用は地の底まで落ちた。そもそも、宮前亜子が俺に告白したなどという事実は一部の人間の間でしか知り得ないことだった。
だと言うのに、レイリのやつが一から十までペラペラ大声でしゃべるもんだから、その日の内にはクラスの全員が大よそのことを把握するまでになってしまった。そうなると、そこから先の話は、尾ひれの付いた空飛ぶ異形の怪物だ。
噂は翌日には他クラスへも伝播しており、俺を見る周囲の視線は鋭く、久しぶりに朝から俺の腹がキリキリと痛みを訴えてきた。
しかも、噂はたった半日で類を見ないほどの進化を遂げており、
なに「告白した宮前亜子を俺が振った挙句、やつを大泣きさせた」とか、
やれ「俺が宮前亜子と遊び半分で付き合い、ボロ雑巾のようにやつを捨てた」など、
どこから拾って来たんだそのオプションは? と首を捻り、捻った首がもげ落ちるかと思われるほどに、当事者であるこの俺は大いに困惑した。
周囲の視線と腹の痛みに苦しむ俺を尻目に、マシバ、サコツ、ロッテの三人はそれぞれが中心となり、この俺が発端となった火事場の火消しに躍起になっていた。クラスの連中に対してはロッテが、提携先の主だったグループにはサコツが出向き、事の真相についてさりげなく触れて回った。
一方のマシバは宮前亜子を伴い、I組のレイリの元を訪れていた。
やつらはそこでもう一度徹底的な事実確認をすると共に、この事態を穏便に収束させていく方向で調整を練っていた。
三人の働きが功を奏し、妙な噂はその日の内に下火になった。俺は三人に礼を述べ、「どうやって噂を鎮めたのか?」と尋ねた。
「うん。みんなねえ、俺たちが『ほら、シンってバカだからさあ』って言ったら、すぐに納得してくれたよ」ロッテが言った。
なるほど。つくづく俺は自分がバカで良かった――などと思うわけがない。まったく、これでは一体俺がなにを守りなにを失ったのか、まるでわからないではないか。恥の上塗りというやつだ。
その日の帰り道、テンション墜落寸前の俺にマシバが聞いてきた。
「どうして宮前と付き合わなかったんだよ? お似合いだと思ったけどなあ、俺は」
「それは、おまえがそう思ってるだけだろ。前も言ったけど、俺は別に……」
後に続ける言葉が見付からず、俺たちはお互い沈黙したまま、しばらく並んで歩いていた。
俺はわざとらしく鼻を啜り、手袋をした手をブレザーのポケットに無理やりねじ込んだ。
「おまえってさあ、そんなに純愛志向だったっけ?」マシバが言う。
「いや、別に……」
「だったらいいじゃん、イージーラブに走ったってさあ。なにが気に入らんの?」
振り向いたマシバと目が合った。
――こいつ、マジだな。
長年の付き合いから、俺はマシバの目を見るだけでやつの精神状態が把握できるようになっていた。
今のこいつの目は、紛れもなくガチの本気モードだ。
「あのな、形から入る恋なんて、全然アリだから。好きかどうかなんて、なんとなくでいいんだって。俺も最初はそうだった。それよりもなあ、付き合ってからわかることの方がよっぽど大事だから」
「おう……」俺は少し引いた。
「大体なあ、昔の人は俺らと変わんねえくらいの歳で、一度も会ったこともないような相手と結婚させられた上に、子供まで産んで、それでそこそこ上手いことやってきたんだ。それに比べりゃ、クラスの女とちょっと付き合うぐらい、別にどうってことねえだろ?」
「ああ……」
そうは言っても、それで「なるほどはいそうですか」とはならないのがこの俺だ。
俺はマシバのようなイージーラヴァーのノーラブノーライフィストとは違う。
と言って、なにも恋愛というものにそこまで高い理想やロマンを求めているわけでもなく、女の容姿や性格に特別なこだわりを持っているわけでもない。ただ、俺はどうも昔から恋だの女だのというものに積極的に食指を動かす気になれない性質だったのだ。
そりゃあ、人並みに女を好きになることもあったし、告白して振られたりもした。でも、基本的に、誰かを好きになったとして、そこから先の展開を考えることが、俺にとっては苦痛以外の何物でもなかったのだ。
それを見透かしたように、マシバは最後にこう言った。
「おまえ、なにビビってんだよ?」
そう。俺は結局、ただのビビりだったのだ。
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