第7話 青空より

 くらい青色の底から、からだが浮かび上がるような感じがして、目を開けたらこんどは一面の白色が広がっていた。

それが天井なのだということには、おくれて気がついた。どうやらここは病院らしい、ということは、空気に混ざる消毒液のにおいでわかった。

ぼくが目覚めたことを知って、お医者さんたちはとても驚いた。どうやらぼくは、半年ものあいだねむりつづけていたらしい。

どうしてこんなに長い間ねむり続けていたのかはわからなかった。

ひとつ問題だったのは、ぼくがこうしてねむりつづけるに至るまでのことを、まったくおぼえていないことだった。難しいことはわからないけれど、とりあえず、脳に異常はないらしい。

 数週間たって、ご飯を食べられるようになった。ときどき背中がひりひりと痛んだ。火事に巻き込まれたということをおしえてもらった。背中が痛むのは、やけどのせいだった。長い時間寝ていたので、毎日いろいろな検査がつづいた。ずっと使われていなかった足で歩けるようになるまでは、もう少し時間がかかるようだ。

おとうさんや、おかあさんの顔ですら、ぼくはまったくおぼえていなかった。ベッドの脇につけられた名札には、リオ・ブレイディと書いてある。なんだか自分の名前じゃないみたいで、びみょうな気持ちだ。


 ぼくのお見舞いにくる人はだれもいなかった。てんがいこどく、ってやつになってしまったのだろうか。それならこれから、ぼくはどうなるんだろう。心細くて死んでしまいそうだった。じぶんは世界にひとりぼっちなのだ、と思った。夜の闇が怖くて、どうしようもなくて、うずくまってねむった。


 そんな夜が何度か開けたある朝、その人はやってきた。窓の外は雨で、けれど空は青く晴れている、不思議な天気の日だ。

「天気雨だね」

その人は言った。目元にかるくかかる長さの黒色の髪に、どこかで見たような、夕陽色の瞳。


「俺はセロって言うんだ。君のおかあさんの弟にあたる。君からしたら叔父ってことになるのかな。会ったことはあるんだけれど、きっと覚えてないよね」

かすかに笑ってその人は言った。

確かに会った記憶はないけれど、なんだか安心する声だと思った。血がつながっているというのは、きっとほんとうだ。おじさん、と呼ぶにはどうにも若いそのひとを、ぼくはセロさん、と名前で呼ぶことにした。


彼は毎月一度やってくる。いつしかそれが楽しみになっていた。


 何度目かに彼がぼくの病室を訪れた時…はじめてあった時みたいな、天気雨の降る、ある日のこと。


「セロさんは、なんの仕事をしてるひとですか?」

彼がきている半袖のシャツからのぞく腕には、いくつか薄い傷あとがある。それがぼくは、ずっと気になっていたのだ。

彼はすこし視線を迷わせて、それでもきちんと答えてくれた。

「国家軍で働いてるよ。…でもそれも今日までだ」

ポケットから封筒を取り出して、ヒラヒラとふる。軍。…この人も人を殺したりしたんだろうか。少し考えて、見上げた彼の顔は、笑っているのに、なんだか悲しそうに見えた。外の天気によく似合っている。


「国境の向こうではね、よくこんな天気になる。…俺はあんまり好きじゃないんだけど」

窓の外を眺めながら、彼は呟く。どこか遠くを見る目。ここじゃない、どこかを。

国境の向こうには、なにがあったんだろう。きになったけど、きいてはいけない気がして、ぼくはぼんやりと、自分の手の爪をいじる。

その仕草を見て、セロさんは目を細めた。

「姉貴と同じことするんだなあ」

思わず漏れ出てしまった、というようなちいさな声。

彼は、ぼくの頭をなでると、何か決心するかのように深呼吸をして、口を開いた。


「なあ、リオ。退院したら俺のところに来てくれないか。一緒に暮らそう。伝手があって、中央に仕事が見つかった。家も借りられる。金も貯めてあるから、万が一のことがあっても大丈夫。だから…一緒に行こう」


ぼくの前に、彼の左手が差し伸べられる。薄くて骨ばった、大きな手。

ぼくは一瞬窓の外を見た。青空から、雨が降り注いでいる。

それから彼の手をつかんだ。ひんやりと冷たい。


「はい。おねがいします」


セロさんの瞳が、ほっとしたように輝いて、そのあとすぐに彼は俯いた。光る雫が、彼のズボンの膝にしみをつくる。


「あれ、ごめん、うれしくて。ありがとう」


それを拭って彼ははずかしそうに笑った。ぼくもうれしくて笑顔になった。ぼくは世界にひとりぼっちじゃなかったんだ、と、そうおもえたから。


彼の手を掴んだぼくの手を包み込むようにして、セロさんは目を閉じる。口もとがまたありがとう、と動いた気がした。彼はそのまましばらく手を離さなくて、ぼくはなんだか鼻の頭がむず痒くてすこしこまった。ぼくの手の熱が、彼の手に伝わって、ひどくつめたかった彼の手と、あたたかかったぼくの手の温度が同じくらいになったころ、ようやくセロさんは手を離した。少し照れたようにぼくに笑いかけると、また今度な、と頭に手を置いて病室を出てゆく。



 ドアが閉まる。彼の姿が見えなくなる。だけど必ず、また来てくれる。まっ暗闇の中を、ひとりで歩かなきゃならない夜は、もう終わったんだ、ということを、ぼくはようやく知った。



 「書類はこれで揃った。手続き完了だが。…本当にいいのか」

ラグラン国家陸軍西部基地。執務室の椅子から俺を見上げるのは、ユーリエ大佐だ。

「はい。お世話になりました」

「ああ。まあここで撤回しようが認めることは出来ないが」

上目遣い。…ちっとも可愛くはない。

「怖あ…」

彼女の後ろに控えていたハルマ中尉は小さな声で呟いた。俺に聞こえたくらいだから、確実に大佐の耳には届いていただろうが、彼女はそれを無視して続ける。

「正直惜しいがな。お前は優秀だ。まあ、しかし、代わりがいない、という程でもない」

「さらっときっついこといいよるんやから…」

懲りずに口を挟む中尉には一瞥もくれず、書類の束を整えて、大佐は返す。

「お前の代わりならこいつ以上に沢山いるぞ、イオラス」

「そんなあ」

情けない中尉の声。いつも通りだ。


 あの街が燃えてから、建物の解体が終わって、仮設住宅に人が入り始めて、復興作業にひと段落つくまでに、一年半。まだ瓦礫の山は残っているし、建物の再建だって不十分だ。けれど、街には人が戻ってきている。だからきっともう、リードベルグは大丈夫だろう、と思う。


俺はもう、戻らない。戻らなくてもいい。


 「これでお前は軍人ではなくなる。ご苦労だった、セロ・オルセン」

立ち上がった彼女に、敬礼を返す。

「本当に、ありがとうございました」

大佐は軽く頷いた。


「元気でな、少年」

ぽん、と俺の頭に手を置いて、中尉は微笑む。…背の高い彼には、やはり俺はまだ子供に見えるのだろうか、と少し複雑な気分になる。

「引き取るんやって?甥っ子」

「はい」

ふうん、と彼は頷いて、なんとなく満足げな笑みを浮かべ、両手でくしゃくしゃと俺の髪を掻き回す。

「うっわなんですか気色悪い」

思わず出た言葉に、彼はひどく真剣な顔で、

「…ノアに似てきたな」

と呟いた。

「…あっそうだ、少尉に挨拶に行かなければならないので!失礼します」

俺は慌てて大佐と中尉に頭を下げると、部屋を出る。

…頭を撫でられるのなんていつぶりだろう。

ミチダ少尉はどこにいるだろうか。喫煙室か、それとも外か。

 長い廊下には、薄く日が射している。…きっとここを歩くのも、今日で最後になるのだろう。

そう思うと多少感傷的な気分にならなくもない。予備訓練校に入った十二の春から、九年経った。長いようで短いような九年間。絶対に忘れない…忘れてはいけない、九年間。

 角を曲がる。見覚えのある顔が、開いた扉から覗いた。

「おや、君は」

「…先生。なんでここに」

長い黒髪を持て余すように、彼は立っている。

「一応私も軍人の端くれなので。リードベルグは西部の管轄ですからね、中央とは別にここにも報告をしなければならなくて。ついでにセレニアの顔でも見て帰ろうかと」

あの大佐を呼び捨てにするとは。でもそうか、年齢的には同期でもおかしくはない。そんなことに今更思い当たる。

「リードベルグではお世話になりました」

「仕事ですから」

幾度目かになる礼を言う。返ってきたのは今までと同じ答えだ。


「先ほどミチダくんに会いましたよ。君が軍を辞めるとききましたが」

「はい。甥を引き取ることになりまして。知り合いの伝手を頼って、中央の病院で手伝いをすることになりました」

なるほど、と彼は頷く。

「軍にいたのではいつ死ぬかわかりませんからね。賢明な判断でしょう」

「あいつをまたひとりにする訳にはいきませんから」

ベルトルト先生は微笑んだ。この人はきっと、理由がそれだけでないことは分かっているのだろう。

「少尉とはどこで?」

「さっきは喫煙室にいましたね。…最後に少し、いいですか」

「はい」

緊張がはしる。彼はいつもの笑顔を崩さずに、口を開いた。

「戦場で人をたくさん診てきました。この世を恨んで、敵を恨んで死んでいく彼らを。私は彼らを救うことなど出来ませんでした。たったひとりも。…セロくん。君が殺した人間は、絶対に君を許しません。いつまでも、いつまでも君の枕元に立ち続ける」

俺は俯く。彼は変わらない笑顔で、俺を見ている。

「…私と君とは付き合いが浅い。本当はこんなことを言えた義理じゃないでしょう。でもミチダくんは優しいから、きっと君にこんなことは言えない。だから私が言いました」

「…はい。…ありがとうございます」

 唇を噛む。首筋に刃物をあてられたような気持ちだった。分かっている。忘れることはきっと罪で。償うことすら、許されてはいない。

分かっている。分かっているけれど。病院で働くことが、人を生かす手伝いをすることが償いになると、いつか俺を責める声が止むんじゃないかと、そう考えたことが一瞬たりとも無かったかときかれると、頷くことはできなかった。

「いえ。我ながら大人気ないことを言いました。…幸運を、セロくん。ここを出られることは、本当に祝福すべきことだと思いますよ、私は」

長い髪を揺らして、彼はまた笑う。俺は黙って頭を下げて、廊下を進んでいく。



 柱の陰から、私は彼に近づく。

「よく言うな。お前は死者の念など信じていないだろうに」

「盗み聞きとはいけませんね、セレニア。…反応が薄くて少々つまらなかった。顔に出ないタイプですか、彼」

青年が去って行った方を見ながら、ベルトルトは言った。振り向かなくてもわかる、きっといつものような笑みを浮かべているに違いない。

「全く、お前は」

溜息をつく。昔から変わらない、こいつのどうしようもない悪癖だ。

「…あれじゃ誤解を生む。言葉が足りないんだよ、ベルトルト」

いや、その誤解こそ彼の狙いなのかもしれないが。

清々しい程に捻くれた彼に、届かない程度の小さな声で、私は呟く。

ところで、と長い黒髪を揺らして、彼は振り向くと、お茶でもどうですか、と微笑んだ。



 喫煙室にミチダ少尉の姿はなかった。ならば外だろうか。

サラとシンに話をしたのは、数日前のことだ。


ー逃げるの?


俺の目を見据えるサラの口から出たのはそんな言葉で、その後すぐにごめんなさい、と彼女は謝って、話してくれてありがとう、と笑った。シンは黙ってそれをきいていた。


 …ずっと、三人で一緒にいた。訓練校は校舎が男女で別れているから、話すのはたまの合同訓練や、行事の時くらいだったけれど。そういえば、いつの間にかサラが男子の方に忍び込んでいることはあったっけ。あの頃彼女は髪が短くて、少年と言われても信じられたくらいのお転婆だった。


 もっと別の形で出会えていたら。あの夢のように、ずっと三人でいられる未来もあったかもしれない。


 「セロ」

建物の出口で、シンが待っていた。

「サラから伝言。『バーカ!』だそうで」

「ずいぶんお怒りのようで、姫さんは」

軽く笑う。

「どうだか」

シンは肩をすくめる。少しの沈黙を置いて、

「…あのさ…お前、今度はもっとちゃんと、人と話せよ」

首元に手を当てながら、彼は言った。ほんとにな、と俺は呟く。

九年間一緒にいて、ああして話したのは、初めてだったのだ。なにも知らなかった。なにも知らせていなかった。

「いつでも呼び出せよ。いつでも行くさ、俺も、もちろんサラも。ああ、生きてたらな」

笑えない冗談でニヤリ、と笑って、彼は勢いよく俺の背を叩く。

「元気で」

「うん」

答えて、俺も笑みを返す。変な顔、と彼は呟いた。


広場を抜けて、フェンス沿いにゲートまでの坂を下る。



 煙草の煙の匂いが漂っている。


「ミチダ少尉」

フェンスにもたれて、彼はいつものように煙草を吸っていた。

「おう」

煙草の煙を吐き出して、彼は視線だけをこちらに向ける。


「今日付で除隊します。…お世話になりました」


頭を下げる。


「あそこから生きて、帰ってきて、良かったか」

返事の代わりに、ぽつりと彼は呟いた。


生きて帰ってきてから。

自分なんて死ねば良かったと思う夜は何度もあった。姉の幸福を守れなかった俺は、なんのために生きているんだろう、と思った。


けれど結局、今俺は、ここで息をしている。


「はい」


俺は顔を上げる。彼の目をしっかりと見て、頷いた。

少尉は煙を吐き出して目を閉じる。


「それを聞いて安心した。良かったよ、お前を拾えて。ありがとな、セロ」


何故お礼を言われたのかは分からない。俺は肩を竦めた。


「お元気で」

「おう」


最後に短い会話を交わす。煙が空へのぼって行く。俺は基地に背を向けて歩き出す。



 九年間。なんということのない話。どうしようもなく陳腐な、俺自身の、物語というにもおこがましいような、つまらない話。その舞台であるこの場所を、今日、出て行く。


俺の冷えた手を握る、小さく温かい手を思い出す。

もう二度と、独りぼっちにならないように。そのために、俺は生きていこう。




 降り注ぐ雨は止まない。けれど、見上げた空はどこまでも高く、青く、澄んでいた。

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