起-2

 確かに、次に見かけるまでは思い出しもしないというのは間違いなかった。

 その、次というヤツが予想外にすぐやってきたというだけの話であって。それも意外な形で。

 つけ麺屋で昼メシを食った当夜、残業で遅くなった矢嶋は帰宅途中の乗換駅で外に出て、適当に目についた焼き鳥屋に入った。

 時刻は22時の一歩手前、入口から見る限り店内はほぼ満席。木曜の夜とはいえ、ピークの時間帯を過ぎてるにしては思いのほか混んでいた。

 炭火の匂いと熱気がこもる空間に、炙られる食材が放つ香ばしい煙とリーマンたちの喧騒が満ちていて、そういえば給料日だからかと思い至った。

 かろうじて空いていたカウンターの一席に案内され、沁みついた脂で僅かにベタつく椅子の木枠を引いて腰を落ち着ける。

「生ひとつ」

 おしぼりを受け取りながら注文して、胸の裡で己にツッコんだ。1人なんだからひとつに決まってる。それでもつい数を言ってしまうのは、飲みの場に馴染んだ習性なのか。

 どうでもいいことを考えて煙草の箱を出した矢嶋は、何気なく右隣を窺った次の瞬間、思わずその横顔を二度見していた。

 この世の終わりかという風情で焼酎らしきグラスを傾ける隣のリーマンは、更にダメ押しで三度見しても昼休みのあの野郎にしか見えなかった。

 ──なんだ、この偶然?

 戸惑い、千載一遇のチャンスとばかりに声をかけるべきかどうか迷った。見かけるたびに気になってたと言えど、別に話をしてみたかったわけじゃない。

 が、さんざん逡巡した挙げ句、目の前にやって来たジョッキを数秒見つめて肚を括った。

「すみません、吸っても構いませんか?」

 左隣のオッサン2人連れは、既に大量の煙を噴き上げてるから確認の必要はない。

 一方、右隣の野郎は昼メシ時と変わらない不景気面を緩慢に向けて寄越し、この上なくカッたるい動作で「どうぞ」と無愛想に頷いた。

 近くで見ると、思っていたより若い気がする。そして向けられた目の意外な鋭さに正直ちょっと驚いた。

 身なりは遠目の印象どおりキチンとしてるし、こんなにヤサグレてさえいなければオヤジリーマン御用達みたいなこの店よりも、むしろオーセンティックバーのほうが似合うのかもしれない。

 つまり、イメージから乖離したその目を見てしまったからなのか、どうなのか。

 パウチされたメニューを面倒くさげに眺める横顔に、矢嶋は再び声を投げていた。

「あの、ひょっとして──」

 勤務先のビル名を出し、その建物に勤務していないかを尋ねた途端、不思議なことが起こった。

 寸前までカウンターの天板に沈みそうなほどダラけていた男が突如背筋を伸ばし、別人のような硬いツラで応じたのだ。

「失礼ですが、お会いしたことがありましたか?」

 声までも、さっき喫煙を了解したときとはまるで違う。

 ところが、呆気に取られて数秒その顔を凝視した矢嶋が、同じビルに勤務する別会社の社員であること、昼休みのレストランエリアで何度か見かけたことを話すうち、野郎の様子は針で突かれた風船みたいにみるみる萎えていった。

「あぁ……そう」

 呟いた男はもはや興味を失ったように目の前のグラスを干すと、カウンターの中に「すみません」と声をかけた。しかし、あまりにも覇気のないトーンは忙しない厨房にすげなく跳ね返されてしまう。

 見かねた矢嶋はつい、代わりに店員を呼んでいた。

 隣席の目がこちらに向くと同時に焼き台の親父っさんから指示が飛んで、フロアの女の子がすぐにやってきた。

「お伺いしまーす」

 彼女の目は当然、呼んだ矢嶋に向いている。仕方なく隣に同じヤツ? と確認し、ついでに自分のおかわりと、何故か成り行きで2人前の串盛り合わせもオーダーした。

 店員が立ち去ると、男は相変わらずの気怠さで短く礼を言った。

「悪ィな」

 それだけで終わるかと思いきや、意外にも続きがあった。

「煙草もらえるか」

 開けて差し出した箱から1本抜いて咥えた隣人は、溜め息混じりの声で更に要求した。

「ライター貸してくれ」

 なかなか世話が焼けるヤツだ。

 ライターを擦って煙草に火を点けた野郎は、頬杖を突いて深々と吸い込んだ煙をじっくり吐き出した。

「普通の煙草は久々だ」

「普段は電子か?」

「あぁ──そのほうが都合がいいから」

「まぁ、このご時世はそうだろうけどさ」

 だからって嗜好品を譲歩するヤツの気が知れない。何のために生きてるんだかわからなくねぇか? 矢嶋は思ったが、そもそもこの男は人生を楽しむタイプには見えなかった。

 そこへ追加オーダーのドリンクが運ばれてきた。

「お待たせしましたぁ、生と佐藤の麦でーす」

 どうやら男が飲んでいたのは麦焼酎らしい。それぞれジョッキとグラスを手に、彼らは微妙なテンションの乾杯を交わした。

 隣でグラスを傾ける横顔は鼻梁が高くて顎が細い。顔に限らずスレンダーな容姿は、全体的に骨格が尖って鋭い印象で、しかしそんな鋭利な外観を果てしなくカッたるそうな物腰が台無しにしている。

 俯けた睫毛を見るともなく眺めていると、重たい眼差しがこちらを向いた。

「で──あそこの、どの会社?」

 眼差しと同じくらい重たい声で言った男に、矢嶋は社名を告げた。すると野郎は数秒沈黙し、その間に一度ゆっくり瞬きした。

「あぁ……そう」

 相槌の中に若干の躊躇いを感じたが、すぐにどうでもよさげな口調で己の所属を明かした。それは予想どおり、ビル内で矢嶋の勤務先と双璧をなすライバル会社の名前だった。

 男は吉見と名乗った。

 矢嶋が意を決して、気になっていたこと、つまり毎度死にそうなツラでメシを食ってるのが目につくことを打ち明けると、吉見は不動の無気力感を溜め息とともに吐き出した。

「メシ食うのがめんどくさくて」

「そりゃ、毎日のことだから何食おうとか考えるの面倒くせぇし、わかんなくもないけどさ」

「そんなんじゃない」

「じゃあ何だよ?」

「仕事しかしたくねぇんだ」

 耳を疑った。仕事しかしたくねぇ──だぁ?

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