次の時代までの5分間
小峰綾子
次の時代までの5分間
安平30年3月31日23:32
原稿の残りを突貫で仕上げ、担当のメールに添付、送信。良かった、出来はともかく「今日中」には何とか終わった。締め切りはまだ間に合うのだが、どうしても、日付をまたぐ瞬間に原稿を書いていたくはなかった。着替えも急いですませ、家を飛び出て駅まで走る。タクシーを使いたいところだが、駆け出しのフリーライターである私にはそんなもの贅沢なので電車に乗る。
渋谷駅前は、私と同じようにその瞬間をたくさんの人と共有したい寂しがりやさんたちであふれていた。いや、それは私の思い込みかもしれないが、いつもの混み具合と少し違っていた。皆、どこに向かうわけでもなく、誰かを待っているわけでもなく、スマホを眺めているもの、交差点の向こう側にある大画面を見上げているものとそれぞれだ。
もうすぐ、年号が「安平」から次の時代に変わる。思っていたよりも早く、計画的に意図的に年号が変わるシステムとなったのだ。
時計を見ると、23:55。安平、最後の5分間、私は渋谷駅前、スクランブル交差点の手前で知らない人たちに囲まれて過ごすことを決める。大みそかと違ってお祭り騒ぎするのは不謹慎、という配慮があるのか、大画面に映るカウントダウンも淡々としている。それでも、雑踏の渋谷駅は高揚した雰囲気に包まれている。
私は時代が安平に変わったその日に生まれた。年号がそのまま年齢となるので覚えやすいし自己紹介のネタにも事欠かない。「安平生まれがもう〇歳!?」と何百回も言われて対処もうまくなったものだ。30歳になるまで独身で、フリーで仕事をしているなんて安平一桁台を生きていた時には想像もつかなかった。それでも、大好きな、文章を書く仕事で何とか独り立ちして食えている。いろいろあったけれども今日まで何とか、楽しく生きてこられたと思う。生まれた時から当たり前に親しんできた「安平」が幕を下ろすことは少し寂しくもある。しかし、時代が自分の目の前で変わる、それを目の当たりにできる喜びも一方である。
「いよいよですね」隣に立っていたOL風の女性が言う。「なんか不思議な感じですね。」反対側の隣に立っていたカップルの、女の子が言う。他のタイミングで居合わせたら絶対に言葉を交わさなかったであろう人たち。人とのつながりが薄くなったと言われる世の中でも、大切な瞬間、誰かと緩く繋がっていたいという気持ちは多くの人が持っているのだということも改めて感じた。いつか、この瞬間のことを書こう。ここにいたからこそ分かる空気、雰囲気、少しでも、文章にして繋ぎとめることができたらいい。
次の時代にも、きっといろんなことが起きる。嬉しいことも悲しいことも。何があっても、何とか自分を好きでいられる程度には、生きていけますように。
5分はあっという間にすぎ、秒読みのカウントダウンは始まっている。私は雑踏の中で、その瞬間を息をひそめて待っている。
次の時代までの5分間 小峰綾子 @htyhtynhtmgr
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