羊 2/4
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人がわんさといる広々とした家。真新しくて、真っ白な壁が大きな窓から取り込まれた陽光をめちゃくちゃに反射して、部屋の隅々まで照らしている。室内に飾られた植物は、わずかに許された領地で青々と輝く葉を誇っている。それなのに、それに目もくれずに人々らはみんな猿の様にやたらと大きく声を出して笑いながらオードブルを食べて、お酒を飲んで、実に楽しそうな表情をその皮にのっけて話している。
顔をしわくちゃにして、気持ちが悪いくらいにぴったりとして、胸元の大きく開いた紫色の派手なドレスを着た、気持ちが悪いくらいにごてごてと厭らしいネックレスと、気持ちが悪くなるくらいに香水をつけたおばさんが話しかけてきた。
「貴方、赤棟さんでしょう。テレビでお見かけしたことがありますわ。お痩せになられたけど。きっと、そうでしょう」
筋肉にわずかに引っ付いている頬の肉をプルプルと震わせて、おばさんは強引に決めつけて話を続ける。
「貴方の小説、二つとも読んだわ。とても悲しいお話なことね・・・」
わざとらしく目を伏せて、いったん間を置いた。それから目の前の男の手をその肉のついているくせにしわくちゃになっている手で握る。その手にはごてごてと、美しさなどどうでも良くて、ただ誇ることしか考えていない、不細工にでかい石を付けただけの酷い出来の指輪をしている。一切力の入っていない手を握り締めると、また頬の肉をプルプルとさせる。
「貴方もお辛かったのね。わかるわ。私も同じですもの。年を取ると嫌なものばかり見ますわ。本当に、皆が皆幸福に暮らせるようになれば良いのにね」
爪がとても長くて、ドレスと同じ紫色だった。痩せたせいでたらりと弛んで黒ずんだ頬の皮がわずかに上げて、またにっこりとほほ笑む。いまだに手に力は入っていない。握り返しもしない。だから、その場を取り繕うために、そして自らを貶めないためだけに慰めてみせる。
「よいのですよ。よいのです。わかっています。わかっていますわ。貴方は傷ついているのですものね。大丈夫ですよ。大丈夫」
「皆川さん。皆川さん。ちょっといいですか」
早口でそういうと、筋肉質で日焼けをしていて、少しだけ髭を生やした男に呼ばれる。顔を綻ばせると、軽い挨拶をした。
「あら、あら。何かしら。じゃあ、またね、赤棟さん」
筋肉質の男は、カツカツとハイヒールの靴を鳴らし、もったいぶって歩いてきたおばさんの耳元で何かを囁いた。彼女はまんざらでもなさそうに微笑んだ後で、急に偉そうになって手を軽く上げて男を制した。男はほんの少しだけ心底骨が折れるという表情を浮かべたが、へりくだった。おばさんは満足そうだった。男はやはり心底疲れている様だった。
にぎやかだったその家がほんの少し静かになった。急いでビデオカメラを取り出す。ホストである佐藤と彼の奥さんがすっと現れた。奥さんは深紅の、背中の大きく開いたドレスを着ている。けど、それは決して下品ではなくて、むしろ気品があった。耳で光るイヤリングも控えめだった。佐藤の方はというと、いつもテレビで見るのと同じようにぴっちりとしたスーツを着ていて、それでいて、ほかを圧することのないような大木のようなたたずまいだった。
「皆さん。今日は楽しんでいってください」
にっこりと笑顔を作る。拍手をする。機械仕掛けの猿のおもちゃのように。パチパチパチパチ。
「奥さんやつれたね」
「ああ、やっぱり雄大君のことだろう」
「こんな時にね・・・」
「仕方ないんじゃないか、政界まで狙ってるらしいし、この家だってローンだろ」
「それもそうね」
言葉が濁流のような拍手に押し流されていく。ゲストに対して、丁寧にあいさつ回りをしている彼らが近づいてきた。背筋をしゃんと伸ばして、明るい表情を作る。手にわざとらしくグラスをもって。
「佐藤さん。お久しぶりです。林です。とても盛大なパーティーで、とても楽しませていただいております」
「おおー、おおー。林か。南さんもご一緒で。なんだ、なんだ二人とも、もうすぐゴールインなんじゃないの」
「ははは、嫌だなぁ。勘弁してくださいよ」
「おい、おい。何言ってんだよ。お前よぉー。なぁ」
「ええ、南さんをあんまり不安がらせちゃいけませんよ」
「そうなんですよ。加奈さん。この人ってそういうところの決断力がなくって」
「ええ、お前こっちの味方だろ」
「はははっ」
「はははっ」
「はははっ」
「はははっ」
とても和んで、そう軽く一言二言交わしてから、また挨拶回りを続ける。後方に二人が流れていった。残された二人は彼らを見送ると、手に持っていたグラスをすぐそばの机にさっさと置いて、頬の肉をすとんと落とした。
「やっぱり奥さん辛そうだったね」
「ほんとにね」
「いい気なもんだよなぁ・・・」
「ほんとにね」
「佐藤さんもなんだかなぁ・・・」
深紅のドレスをひらひらと翻した奥さんが、佐藤から離れて紫色の派手で、胸元の大きく開いたドレスを着たおばさんに話しかける。
「皆川様、この度はお越しいただいて・・・」
「ああ、加奈さん。当り前ですわ。私が佐藤さんのお誘いを断るわけがないじゃありませんか」
垂れ下がった頬の肉を精一杯に持ち上げて弛んだ皮膚にまでも力を入れようとするために複雑な皺を顔に付いてしまう。深紅のドレスが楚々とした佇まいをより一層引き立てている。細い、柳の様な体と時折影の差す表情に忌々しくも筋肉質の男が見惚れている。喉を精一杯に絞って甲高い声で答えた。
「皆川様には本当にお世話になりっぱなしで・・・」
「あらあら、そんなこと・・・」
「いいえ、この間も主人の為に骨を折ってくださって」
「あら、そんなのはご主人のご人望のたまものですわ。それより心配ですわね。雄大ちゃんのこと・・・」
ふっと目に涙が浮かぶ。そのせいで今にも化粧が崩れそう。とってつけたように耳の小さなダイヤが輝いた。隣にいる筋肉質の男が同情したように彼女に触れようとする。
「加奈さん。大丈夫。ごめんなさいね、私無神経なことを聞いてしまったわね・・・。許して頂戴ね」
「ああ、いいえ、皆川様。大丈夫です。大丈夫・・・。すみません。ちょっと・・・」
彼女は薄暗いキッチンの方へと足早に歩いていった。また取ってつけたように耳の小さなダイヤがきらきらとした。
「ああ、あなた。ちょっと飲み物がないからからとってきなさい」
とても良い笑顔で隣の筋肉質の男に命令する。目で行く先を追っていた魯鈍な男はその言葉にはっとして、慌てて飲み物を取りに駆けて行った。鼻で大きく息をすると垂れ下がった胸を張った。
「加奈さん、どうしましたか」
パーティーの会場から離れた薄暗く、静かなキッチンの隅に蹲っていた。涙が頬をつたって、為す術もなくはらはらと落ちていく。
「大丈夫ですか。加奈さん」
ふっと顔を上げる。薄暗がりの中でわざとらしくイヤリングが光った。
「ああ、赤棟さん。ええ。大丈夫です。大丈夫ですから・・・。なんでもありません。なんでもありませんよ」
「加奈さん・・・」
「ごめんなさい。いいから、大丈夫ですから。ごめんなさいね」
無理に笑顔を作って、精一杯の強がりを言って立ち上がる。涙を溜めたその立ち姿は今にも消えてしまいそうなほどに儚いものの様だった。パーティー会場からの喧騒は止まない。とても楽しそうな声が上がる。パチパチパチパチ。
「おい、どうした」
彼が現れる。瞳からまた涙がこぼれていった。それはとめどなくふくよかな頬を濡らしていく。
「貴方・・・。ううっ」
漏らした嗚咽が全てを伝える。パーティーの喧騒はいよいよ遠く彼方で、薄暗い静けさはすべてを沈下させるよう。
「加奈。ごめんな」
彼女を抱き締める。その柔らかな体には強さなど微塵も無いようで、腕の力をより一層きつくする。しばらくののち、体を離す。はにかみを浮かべてスーツについた化粧をハンカチで落とした。
「佐藤さん。あの・・・」
一つの封筒が差し出される。そのとても小さな、とるに足らないものに顔をしかめ、歪め、また涙を零した。
「今度は君のところに来たのか・・・」
「ええ、その。中身は・・・」
「いや、いいんだ。わかっているよ・・・」
とても、とても悲しいすすり泣く声をかき消すように大きな笑い声が上がった。パチパチパチパチ。天を仰ぐ彼の顔は力が抜けきってしまっていて、その瞳には何も映っていないようだった。しばらくすると涙が滲み始める。
「悪いんだけれども、それは君の方から警察に届けてくれないか」
「・・・いいんですか」
「ああ、いいんだ・・・。・・・いいんだ。もう、いいんだ」
体に力の入らない様子の奥さんを連れて彼はその場から離れていった。またわざとらしく耳の小さなダイヤが光った。
まもなくパーティー会場に戻ると、ビンゴが行われていた。
「ああ、遅いっすよー、佐藤さん。もうビンゴ始まってますよっ」
「ああ、悪い。悪い。ちょっとな・・・」
ビンゴの紙が手渡される。真ん中にまず穴をあけて、ほかの番号は読み上げられるのをいまかいまかと待っている。
「えー、16番」
溜息をもらすもの、小躍りするもの、無関心を装うもの、たった一つのことなのに様々な反応があった。16と書かれている場所を指で折った。
「ああー。佐藤さん。はずれっすね。惜しいですね。17はあるのに」
「うん、ああ。そうだな・・・」
「そういや、加奈さんは」
「うん、ああ。ちょっとな・・・」
「そうすっか」
ガラガラガラガラとビンゴが回っていく。全ての視線が期待を込めてそそがれる。一切を主るそれは無機質でいかにもどうしようもない。
「えー、36番」
視線を紙に落とすと、ある男が話しかけてきた。
「君が赤棟くんだろ。そうだろう」
手に持った紙の36と書かれたところを折ってから顔を上げる。
「ええ・・・」
素っ気ない答えに続いて、興奮を抑えることのないままで続く。
「君の新作読んだよ。前作はよかったけど、今作はいまいちだね。それにあれはあれだろう、きっとー」
「ビンゴ」
佐藤がビンゴの紙を持った手を高く掲げている。そこにいる人間の視線が一様に彼に注がれる。ほんの少し浮き上がった気分と、ほんの少しの気恥しさを浮かべて、みんなの前に出て、ビンゴのマシンの横に立ち景品を受け取ると、一言。
「いやー、なんかすみません」
皆が手を叩いて笑う。誰も彼もがみな彼を見ている。笑っている。心底楽しそうに笑っている。
パチパチパチパチ。
パチパチパチパチ。
パチパチパチパチ。
「はぁ、はぁ。どうだい。君のお父さんはとても楽しそうにしているだろう。はぁはぁ。僕がね。ビデオで撮ってあげたんだ。はぁはぁ。僕ともね。仲良しなんだよ。はぁ、はぁ。とってもね。とっても仲良しなんだ」
「・・・・・・」
肉の薄い小さな背中にはあばらが浮かんでいる。骨ばった肩に手を掛ける。もう何度も何度もそうしたせいだろう、肩にはべったりと、手の形の痣ができていた。色の変わった皮膚をまた押し付ける。筋肉が縮こまる。
「はぁはぁ。でも、このままじゃダメなんだよ、はぁはぁ。このままじゃダメなんだ。君ならわかるでしょ。本当のお友達にならなくちゃいけない。本当のね。はぁはぁはぁはぁ」
「・・・・・・」
息が荒くて、熱した鉄の様に熱い。背中が異常に引き攣った。ぐらぐらと頭の上の電灯が揺れる。影がぐらぐら、ぐらぐらと揺れる。外は真っ暗で、締め切られた窓に映し出されるのはとてもにこやかな男の顔。
「はぁはぁ。はぁはぁ。はぁはぁ。はぁはぁ」
じっと手を見ている。もう曲げられない指を食い入るように。背中は十分にひきつっている。筋肉は十分に縮こまっている。それなのに我慢ができなくて、崩れた顔にある真っ暗な瞳がほんの少しだけ色を付ける。
「っ・・・・・・」
ぱきりと音がする。必死になって結んでぐちゃぐちゃになっている唇の合間から何かが漏れてくる。笑った。心底愉快でたまらないと、とても大きく笑った。パチパチパチパチ。締め切った窓が、手の先がその振動につられて共振する。また歯を食いしばる。またぱきりと音がした。
「っ・・・・・・」
「はぁはぁ。はぁはぁ。君のお母さんは今とっても痩せているよ。はぁはぁ。すごく青白い顔をしているよ。泣いちゃってね。はぁはぁ。酷い女だ。もう大丈夫だって。もう大丈夫だってよ。はは、はははっ。はぁはぁ。はぁはぁ」
「っ・・・・・・」
ぱきり、ぱきり。もう無くなってしまったものでは食いしばることもできなくて、大きく開いてしまう口の隣をはらはらと幾筋も幾筋も熱いものが伝っていく。大きな声。パチパチパチパチ。
「お父さんももういいんだって、せっかく届けてあげたのに。もういいんだってよ。ふふふっ。けど、これからだよ。最後があるんだ。そうすると本当のお友達になれるんだよ。ふふっ。はっはっははははっはははっははははは」
息がいよいよ荒くなって、背中が戦慄いた。背に何かが触れるように下の方から上がってくる。それに呼応するように脈打つものが恐ろしいまでに生を実感させる。
とても良い笑顔で、とても自信に満ち溢れている。素晴らしいものの為にいま生きている。全部に陰影が、色が、階梯が出来上がっている。どこまでも、どこまでも上がっていく。背中の薄い肉が引き締まって、またあばらが強く浮く。
「ああっ。はぁはぁ。はぁはぁ」
体がもう境界なんて失くしたようにぐちゃぐちゃになって溶けていく。頭は嫌になるほど冴えているのに力を放出した体は泥のように動かなくなってしまった。
「ははっはっははっはははははは。またベッドを汚したね。またベッドを汚したよ」
大きな声。パチパチパチパチ。失われてしまったものをもう一度と息巻く声と息遣いはまた熱された鉄のようで、呼応するように力の入らぬ指の先を震えさせる。
「もう少しだ。はぁはぁ。もう少しだ。はぁはぁ。僕たちだけ、僕たちだけだ。はははっはははっははっはっはっは」
パチパチパチパチ。パチパチパチ。パチパチパチパチパチパチパチ。
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