屋根裏 2/2

人気の無い夜の町を進んでいく。手に携えた鋸と金槌は心地よく重い。青くて小さな自転車の置いてある、裕福そうな家の前で立ち止まる。月光はすとんと僕の真上から落ちている。奥まったところの台所に面しているのだろう窓に手を掛けると、馬鹿みたいにあっさりと開いてしまった。


 猿轡をされ、後ろ手に縛られて寝室の床に転がされた父親が、血走った瞳で体をよじってこちらに向かおうとしている。その隣の、同じように縛り付けられた母親も懸命にくぐもった声を上げている。僕の目の前には小さな、とても小さな男の子。

「どうしてできない」

男の子は鋸を握ったまま首を横に振っている。後ろではずっとくぐもった声とずりずりと体を引きずる音がしている。それは徐々に大きくなっていく。

「どうしてできないんだ」

もう余裕のなくなっていた僕は情けなく大声を出して、顔を歪ませた彼の体を揺さぶる。すると、泣きだしてしまった。わんわんと声を上げる彼を宥めようとしても無駄で、後ろの声は大きくなって、ずりずりという音も大きくなって、吊るされた白い電灯はちかちかとしていて、背中の蠕虫が顔を擡げて。彼の手から鋸が落ちて、がらんと音が鳴って、もうどうしようもなくなって、何もわからなくなって。追い詰められた僕は振り上げた金槌を彼の頭に力いっぱい叩きつけてしまう。泣いていた男の子は衝撃でよろける。蠕虫はいよいよ背中の皮一枚下で暴れる。何もわからないようにふらふらと歩いていく。後ろからするずりずりと体を動かす音と、くぐもった叫び声が強くなる。僕はそれから逃れようと男の子を追ってもう一度その頭に金槌を叩きつける。彼は倒れて、その頭からは冗談みたいに血が噴き出す。それでも殺人鬼である僕は何度も、何度も振り下ろすしかなかった。顔の至る所から血が溢れていった。耳からも、鼻からも、目のほんの少しの隙間からも。腕が重たくなるころにはもう彼が詰まっていた頭は形を保っていなかった。中身はやっぱり肉だった。ただの肉だった。背中にいる蠕虫はその数を多くする。自分の荒い呼吸、すすり泣きの声、くぐもった怒号。わんわんと泣き叫ぶ甲高い声だけはもう聞こえなくなってしまった。

 僕は振り返る。そして、男の子を叩いた金槌を振り上げて、同じように力いっぱい叩きつけた。その間中、父親はずっと僕を睨んでいた。母親はずっとすすり泣いていた。でも、腕が痛くなってもそれを止めることはできなかった。僕は自分がどんな顔をしていたのか知りたくもなかった。


 赤い水が排水溝にするすると飲み込まれていった。何時もの様に音を立てないように階段を上がっていく。ビニール袋と金槌と鋸をクローゼットの奥に、だれ身も見つからないようにと慎重に隠した。窓の外では朝日が昇り始めている。僕はベッドに横になると、おそるおそる体から力を抜いていってそのまま眠りについた。


 テレビをぼんやりと眺める。今日は土曜日だった様で、朝から週末の過ごし方はどうだとかいう話しかしていない。僕はチャンネルを次々と変えていく。たまに僕の事件のことをやっていたけど、もう慣れてしまっているのか、一言二言「怖いですね」「戸締りには十分気を付けてください」などと、科白のような感想を口から出すと、それはすぐに違う話題に移ってしまう。どのチャンネルでも、週末のレジャーだとか、景気がどうだとか、失業率が上がっただとか、物価がどうだとかそんな話題をそれぞれに明るい顔で、暗い顔で、苦い顔で、仮面を付け替えるようにして一応話しているという体を取っている。僕はテレビを消す。溜息を吐くとそれは白かった。もう一度布団に潜り込もうとすると、ぎしぎしと階段の軋む音がする。そして、一呼吸おいてから扉から声がした。

「幸一。ちょっといいか」

「・・・・・・」

「・・・・・・」

 しばらくの沈黙の後、ため息が聞こえて、またぎしぎしと階段の軋む音がする。僕は扉に鍵をかけてはいなかった。


 目を刺すような電光の下で椅子に縛られた父親が体をよじっている。隣に同じように縛った母親の頭はあるべきところに無く、床に転がっていて、天井に向けられた白濁した瞳は瞬きすることはない。目の前の女の子は泣きじゃくっている。手は真っ赤だった。でも、僕がわざとらしく手に握った鋸をぶらぶらすると、必死になってそれを抑えた。僕の顔はきっと歪んでいる。頭はとても冷たくて、背中の蠕虫はいなくなってはくれない。

「もう一度、今度はお父さんを・・・」

 僕は父親の目の前に立つ。筋肉を隆起させて彼は僕を睨む。そして、その後で、女の子に優しい視線を向ける。女の子も少し優しくなった。僕は薄く笑った。きっと、だいぶ様になっているだろう。そうして、僕は彼の腕に鋸を当てた。後ろで女の子の小さな悲鳴が聞こえる。僕は振り返る。くぐもっているのに怒りに満ちているのがわかる叫び声。でも、もう止めてはならない僕はそれを背にして女の子の方へと悠々と歩いていくと、彼女の小さい体を押さえつける。そして、その細い首に鋸を当てた。手が震えて、背中の蠕虫が暴れているけれども、そんなものはきっと嘘だった。だから、鋸を引いていく。耐えきれないほど伸び切った皮膚が削れて、赤い血が垂れていく。薄く、細長く延ばされた悲鳴が耳の奥まで揺り動かした。体をがくがくと揺すっている。蠕虫は内臓でも暴れているようで、喉の奥に酸っぱい味が広がっていった。でも、もう腕は止められなかった。まだまだ動かす。白い皮膚の下に赤い肉。それが押し引きする鋸の歯のほんの少しの隙間に、女の子だったはずなのに、それとは似ても似つかないただの肉となってこびりついている。赤い飛沫が飛び散っていく。後ろから椅子が壊れんばかりに軋む音が聞こえる。いつの間にか女の子は二つになっていた。

 僕はまた父親の方へ向かう。彼は僕を怒りに満ちた目で睨む。そんな彼の膝に女の子頭を置いてあげる。彼は泣きだして、僕は満足したかった。でも、手は震えていて、背中では蠕虫が這い廻るばかりだった。もう耐えきれなくて、彼の首に鋸を当てる。また引く。父親はもう抵抗しない。飛沫が僕をより赤くする。そのうちに体から力が抜けて、ごとりと落ちた。僕はそれと床に転がったままの母親の頭と、女の子の頭三つを一緒に父親の膝の上におくと、見開いたままの目を閉じてあげた。そして、彼らを残して、そのまま家を出て行った。


 赤い液体が排水溝に流れていく。じんわりと感覚が戻る。いつものように静かに階段を上がって、いつもの様に鋸と金槌、それから服をクローゼットの中に慎重に隠して、いつもの様に慎重に四肢から慎重に力を抜いて、夢を見ないようにと祈って眠りについた。


 暗闇の中で目が覚める。少しまどろんでいると、階下から電話のコール音がした。僕は耳をそばだてる。

「もしもし・・・。ああ、お母さん。いいえ。ええ、ええ。・・・。そんなこと貴方には関係ないでしょ。・・・・・・。そんなの。それに、あの子はあの子なりに考えがあるの。貴方の考え方は古いのよ。・・・・・・。ええ、はいはい。それじゃあ」

 母の声が止む。しばらくすると、階段を必要以上の力で踏みしめて昇ってくる音が聞こえる。僕は扉にいったん目を向けると鍵がかかっていることを確認して、もう一度目を閉じて布団にくるまった。

「ちょっと、幸一。いるんでしょ。何か言いなさい」

 母は扉を力任せにノックする。その音はどうしても大きくて、せっかく塞いだ耳から入ってくる。

「幸一。いつまで籠っているつもりなの。貴方ね。私たちだっていつまでもいるわけじゃないのよ。それなのにこんなことしてたってしょうがないでしょう」

 母の声は止まない。僕はよりいっそう身を丸める。変な風に力を入れて布団を引っ張ったためにできた隙間から冷たい風が入ってくる。

「おい、もういいじゃないか。もうやめなさい」

 父の微かな非難が聞こえる。母はそれに激高したようだった。

「いいわけないでしょ。大体男親の貴方が確りしていないからこんなことになったんじゃないの。いつまでも先送りにして、あなたは一体どうしたいのよ」

「どうしたいって・・・。それは、幸一の一番になることをだな・・・」

「ほら、そんな風に無責任なことばかり言って。どうしようもないじゃないの。大体あなたは私の両親に挨拶に来たときだってずっと押し黙ったままでー」

「わかった、わかったから。なっ、とりあえず下に降りよう。そこで話をしよう」

「うるさいわね。あたしはもう寝るわ。貴方洗い物しといてよ。私は明日も仕事なんだから。いいわね」

「おい・・・」

 煩い足音の後に、静かな足音が続いて遠ざかっていった。しばらくすると水の音が聞こえてきて、僕はクローゼットに目を向けた。天窓の上では三日月がやたらと青い光を放って空に浮かんでいた。


 夜の町にまた出て行った。ベビーシートがついている車のある、手ごろな家を見付けて、中に入る。畳を敷いてある寝間で母親と、幼稚園も出ていないような男の子が同じ布団で安らかな寝息を立てている。彼らの隣に敷いてある布団に父親の姿はなかった。僕はいつものように鋸と金槌をちらつかせて、母親の口を塞いで、縛り上げると、子供を起こした。そして、彼に鋸を手渡し、母親の方へと促す。

「さあ、それをお母さんの首にあてるんだ」

 子供は僕の要求に首を振った。縛られ転がされた彼の母親は錯乱しているのだろう、ずっと泣き叫んでいる。男の子も僕に湿った目を向けていて、鋸を落とした。頭がバラバラに引っ張られたようになって、熱く赤く黒いものが沸き上がる。僕は彼の頬をはたいた。びっくりした様子の彼は火が付いたように泣きだした。反対に母親は僕を非難している。背中で蠕虫が這っている。こんなはずじゃなかった。こんなはずじゃなかった。僕は頭が痛くて仕方がなくて、落ちた鋸を拾い上げると、どこにも行かないであたりを歩き回った。ぐるぐるぐるぐると。畳の匂い、ぶら下がった電灯が揺れているせいで影がぐらぐらとしている。子供が泣いている。母親は叫んでいる。父親はどこにもいない。どうしようもない。本当にどうしようもなかった。電灯は揺れて、男の子は泣いて、母親は怒って、父親はいなくて、ぐるぐるぐるぐると。僕は泣いている子供の頭に金槌を振り下ろす。子供がよろけているのか、僕が回っているのか。母親は叫びを強くする。もう一度金槌を振り下ろす。床に落ちている鋸にも血の飛沫がかかる。それになんだか惹かれて、もう一度、もう一度と、何度もそれを繰り返していく。男の子はもうだいぶ前から動かない。鋸は血と皮膚と彼だった肉で赤黒かった。畳の匂いに血のにおいが混じった。僕は鋸を拾って立ち上がる。母親は泣きじゃくっている。熱くて、赤くて、黒いものも、頭の痛みももうどこかに行ってしまって、背中では蠕虫が這い廻っていて、それなのになんだか気怠くってしょうがなかった。ただ体が重かった。ただただ重かった。僕はいささか落ち着いた呼吸で母親の首に鋸を当てて作業をするように前後に動かしていった。彼女はあまり抵抗をしなかった。ただ泣いていた。僕も泣きたくなった。子供だった肉のこびりついた鋸に母親の赤が重なっていく。こそげるのはただ肉だけで、僕は力が抜けそうになってしまうのを耐えるのに必死だった。酸っぱい味が血の匂いを押しのけて昇ってくる。でも、もう何も背中では暴れなかった。なんだか本当に倦みきってしまった。やがて、血があたりに飛び散って、僕は染まっていく。

 ごとりと頭が落ちる。僕はただの塊になったそれを頭の無い子供だったものの真正面に向かい合わせに置いてあげる。電灯がまだ揺れていたけども、もう地面は揺れていないような気がした。僕は疲れてしまって、赤い体のままで立ち去ろうとする。

すると、玄関が開く音がした。もう倦みきったはずなのに、僕は恐る恐る部屋から顔を覗かせて確認する。そこには黒い影があった。男だった。それも僕よりもかなり大きな。彼は酒の匂いを漂わせて、上機嫌な千鳥足で、何か言いながら電気のついて明るいこちらに向かってきた。僕の手にある鋸と金槌を握りしめても、なんだかそれはいつもよりも軽くて、悲しくなるくらいに情けなく落ち着いていた鼓動は早く打った。僕はどうすればいいのか何もわからなくなってしまって、どうしようもなくなって、鋸と金槌を力いっぱいに掴んで飛び出した。男に体当たりをする。男はいきなりのことに倒れた。暗くて顔は解らない。僕はそのまま急いで玄関まで走っていった。後ろで男の叫び声が聞こえてきた。僕は構わず外に飛び出した。三日月が僕を照らしている。真っ赤に染まっているはずなのに、もう疲れ切ってしまったはずなのに、町を恐怖に陥れる殺人鬼のはずなのに必死に逃げる僕を。

全部から逃げているはずなのに、後ろからは足音が迫ってきていて、僕はがむしゃらに手をふって、足を動かして走った。地面がとても冷たくて、白い息はなすすべなく夜闇に溶けていって、肺が痛くて、でも足音は大きくなってきて。肩を掴まれる。大きな怒鳴り声が聞こえてくる。それには涙が混じっていた。僕は金槌を、鋸を振り回す。ぴちゃぴちゃと残っていた肉が撒き散らされる。手応えとともに男の悲鳴が聞こえてきて、 僕を掴む腕の力は弱くなった。それを振り払って、僕はそのまま家まで、そう、僕の屋根裏まで駆けていった。


 赤いものを必死に流す。石鹸の泡は真っ赤に染まっている。鼓動は少しもゆっくりになってくれない。僕は何度も鏡を確認して、何度も、お風呂に入りなおす。階段を下りる音が聞こえてくる。

「幸一、どうした」

少しだけ嬉しそうな父の声がシャワーの合間から聞こえてきた。

「なんでもない。なんでもない」

「そうか・・・。その、幸一。せっかくだから朝ごはんでも一緒に食べないか。どうだ?」

「・・・・・・」

僕が何も言わないでいると、父はとても静かに扉を閉めて、ゆっくりと浴室から出て行った。僕はその隙になおざりに体を拭くと、急いで階段を上って、クローゼットに鋸と金槌と服を急いで隠すと、布団をひっかぶり、硬く、硬く目を閉じた。天窓からは朝日が差し込んできて、町の喧騒が大きくなっていった。


 少しの間まどろみに身を任せていると、急に玄関が騒がしくなった。大勢の男たちの声とともに母親が金切り声を上げている。父親の声はまた聞こえない。ドタドタと靴が床を叩く音がして、母の金切り声すらかき消してしまう。鍵をかけていたはずの屋根裏の僕の部屋の扉があっけなく開かれる。何人かの男たち。その後ろに父と母がいた。父は心配そうに、母は怒りに満ちて。僕はベッドからゆっくりと立ち上がった。男たちが何かを怒鳴っている。けれど、恐れはなかった。彼らの言葉すら聞く必要はない。僕はもうすべて解っている。彼らに連れられるままに階段を下りていく。父は相変わらず心配そうで、母は怒ったままだった。僕は薄く笑う。初めてうまくできた。そんな僕とは違って、男たちは石で作られた兵士のようで、厳めしい表情を変えたりはしない。

 玄関から出ると、久しぶりに浴びた太陽はこの世のものとは思えないほどに眩しくて、信じられないほどに暖かい。空はやけに高くて、嫌みなほどに澄み切っている。それとは違って、玄関には人だかりができていて騒がしい。太陽とは違う無機質な光が点滅する。僕は反射的に顔を伏せる。少しだけ歩いて、もう少しで白と黒の車に乗るというところで、その人だかりから一つの黒い影が現れた。それは僕の腹に体を押し付ける。体から熱いものが流れ出て行く。だから、体は冷たくなっていく。僕の周りの男たちが、その飛び出して来た男を急いで取り押さえる。光の点滅はよりひどくなる。僕は仰向けに倒れた。全てはゆっくりだった。僕の上には僕を捕まえに来た男たちと、その奥に寒々しいまでに青い空がある。声が聞こえる。金切り声が。首を動かしてそちらに目を向けると、母が涙を流している。父は怒りの表情で僕に体を圧しつけた男に向かって行って、他の何人もの男たちに止められている。また光の点滅がひどくなる。また顔を空に向ける。必死な男たちの顔。後ろからまた声が聞こえる。悲痛な金切り声と烈火のごとき怒号。また激しい光の点滅。それなのに、やはり空はやけに高くて、嫌みなほどに澄んでいて、ただ青かった。


                             終わり

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