吹くからに 秋のくさきの しをるれば むべやまかぜを あらしといふらむ 3
本当に正直で、真面目で、愚かしいほど誠実な男性だった。
あの晩来なかったからといって、既に小町は思いを拒むつもりはなかったのに。
後にも先にも、彼ほど真剣な想いを抱いてくれた男性はいない。
愚かなのはむしろ己か、と小町はわが身を苛んだ。
宮中に来る前の、過去の出来事に思いを馳せているうちに、転寝をしてしまった小町は懐かしくも苦しい記憶に、起きて早々にため息をついた。
あの冬の朝のようなキンと張り詰めた空気ではないことに、どこかほっとしながら脇息にもたれ固まっていた身体をゆっくりと動かした。
◇◆◇◆◇◆
「
「御題が秋とのことでしたね」
小町が貝合わせに興じていると、屏風越しにさわさわと話し声が聞こえてきた。
美しく朱に塗られた貝を広げてみたものの何度となく目にした貝よりも、まだ聞いたことのない歌に心引かれ、姿勢はそのままに耳を傾けた。
屏風越しというのもあるが、化粧が落ちぬようできるだけ表情を動かさず、口をすぼめるようにして話す彼女達の声は風のささやきよりも小さい。
小町は少しの衣擦れも起こすまいと全身の神経を尖らせた。
「文屋君の詠まれた歌が優れていたとか…」
「まぁ、どのような…?」
「吹くからに 秋のくさきの しをるれば むべやまかぜを あらしといふらむ」
山から秋風が吹くと、すぐに秋の草木が萎れはじめる。なるほど、だから山風のことを荒らしと言うのだなあ。
歌の内容をそっと心の中で小町が復唱していると、歌の解説を始めた者がでた。
「あのびょうびょうと吹き付ける山風は、草木を荒らして枯れさせるものであるからアラシという…風の名と風の起こした結果をかけていらっしゃるのね」
彼女の言に周囲がまぁとも、ほぉとも聞き取れないような感嘆を漏らした。
さすがに歌のはじめからことこまかに解釈するような無粋者ではないようだが、詠み手でもないのに得意げに語るなんて野暮な真似をする人がいたものだ。
きっと普段から訳知り顔で噂を広めていく手合いに違いない。
小町はふ、と鼻で笑う。
彼女はこの歌の秀逸さを真に理解していない。
草木を荒らす風だからアラシ、という意味とは別に、やまかぜもあらしに掛かっている。
やまかぜは漢字に起こすと、山と風。
この二つの漢字を合わせれば、嵐という漢字になるのだ。
秋の荒涼とした叙情的な風景を思わせる内容であることに加え、こうした技法的な面白さが話題となり彼の歌が広まっているのだろう。しかし、日頃仮名のみ扱っている彼女達には技法の素晴らしさが伝わらなかったといったところか。
己のように女だてらに漢詩を学ばない限りは、あの掛詞に気付くのはいささか難しいでしょうね。
才あるだけではなく、慎み深い私は鼻高々に歌の抗弁をたれたり、まして漢字が読めることを自慢したりなどしないけれど。
それにしても、同じ秋を御題にしてこんなにも歌の内容が違うのね。
小町の興味は屏風越しの彼女達から、文屋康秀の歌に移った。
彼女達の話題も、文屋からどこそこの殿方がやれ麗しいだの、宮中の姫の夜這い事情だのに移っていたので、小町は聞き耳をたてようとも思わず、物思いにふける。
私が秋の稲穂に諸行無常を感じているのに対し、彼は「なるほど、だから山風のことを荒らしと言うのだなあ」ってなんだか…。
手慰みに貝を弄りながら、彼女は微笑んだ。
彼の歌は漢字と仮名の言葉遊びはとても機知にとんだ博識さを感じさせる。
だがその一方で、大発見した幼子のような純真さを想像させるのだ。
なんだか…あの方みたい。
歌の才はあの方と比べるまでもないけれど。
あの方、深草少将の真っ直ぐさとどことなく感じさせる歌に、小町は文屋君はいったいどのような人物なのかしらと、思いを巡らせた。
◇◆◇◆◇◆
小町が文屋康秀の歌を耳にしたその頃。
康秀もある噂話を聞いていた。
「なんだって?」
「秋風に あふたのみこそ 悲しけれ わが身むなしく なりぬと思へば…そう詠んでいたそうだよ」
「なんと…。彼女も物悲しい歌を詠むようになったものだ」
「近頃は美貌がかげっているとのことだからなぁ」
「それにしても、歌合せの場でもないのによくその歌の情報を手にしたものだ」
「なに、まぁ女房というのは話し好きなものだからな」
「おや色男はまた新たな女房に恋文を?」
「いやいやそういう間柄ではないさ。今はまだ」
ははは、とゆったりと微笑む男どもの話題はあっという間に最近かわいらしいと評判の姫へと移っていった。
そのような中、康秀は歌の読み手である小町へ思考を巡らせていた。
小野小町。
この世あらざらんほどの美しい女性と評判、だった。
近頃は彼女の衰えをよく話にきく。
かつては宮中、いや都中の男どもが彼女へ恋文を競うように送っていたものだった。しかしついぞ彼女から色よい返事をもらった者はいなかったようだ。
そうこうしている間に、彼女へ文を出す男は次第に減り、今では彼女の衰えを時折噂に出すくらいのようだ。
周囲から人がいなくなるとは、どのような気分なのだろうか。
さぞお寂しいだろうな、と康秀は会ったことも、文を交わしたこともない小町を思って胸を痛めた。
秋の風を感じてあのような歌を詠むほどだ。
きっと、自身が想像する以上に彼女は寂しさに襲われているのだろう。
一介の下級官吏にすぎない康秀は、美貌名高い彼女に文を送ることは躊躇われたため、いまだ一度たりとも文を送ったことはない。
本来であるならば、自分なぞが言葉をかけてよい存在ではない。
相手は自分なぞとかけ離れた女性だ。高級貴族にして歌や手習いの名手、在原業平のような色男でもない自身が、彼女を気にかけるなどおこがましい。
そう理解していても、衝動をおさえられずに康秀は筆を手にとった。
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