Night and Day #2
「もしもし、凛? どうした?」
スピーカーホンにし、食事をしながら応じる。
「もしもし啓吏、久しぶり! 元気?」
「久しぶり。まあ、ぼちぼち」
姉は都心の埋め立て地にあるタワーマンションで、銀行マンの夫と暮らして三年になる。景気がいい。
「へへへ、あのね、報告があります」
「はい、どうぞ」
「妊娠しました」
食べ物が口に入ったまま、驚きの声が出た。「なんか食べてる?」とスマホの向こうで姉が笑う。
「マジか、おめでとう」
「ありがとう。あんたオジさんだよ」
「そっか、そうじゃん、うわあ。いつ頃出産の予定?」
「順調にいけば、二月の頭ぐらいだって」
「性別……は、まだわかんないか」
「うん、でもねえ、女の子だって気がするんだ。なんとなく」
「いやあ、マジか。身体に気を付けてな」
「しばらくは専業主婦だから、無理せずやってくよ」
「家事は旦那にもやらせるんだぞ」
「あっはは、どこから目線だよ! 言っとくわ、弟がそう言ってたって」
「ご自由に」
喜ばしくも不思議な気分だった。感慨にふけりつつ、結露の滴るグラスを傾ける。
「そんでさあ」この話は終わり、というように姉が言う。「あんたは最近どうなの?」
「どうって、うーん」
「含みのある声だな。オネーチャンがなんでも聞いたげるよ?」
姉のちいさく尖った八重歯が、ニヤリと笑った口元から覗くのを想起する。大悟の件が口から出てきた。
適当に相槌を打ちながら話を聞いた姉は、けろっとした声で言った。
「大悟君がマジだったら、折れないと思うよ」
「ええっ?」
何かの包み紙を解く音が、スマホ越しに聞こえる。
「逃げるわけじゃないけど、どうしろとは言えないなあ」
「婚約の段階とはいえ、旦那がいるじゃん」
「うん、あんたが言いたいことは分かるよ」ぱりぱりと音がする。
「お前なんか食ってんだろ、人が悩んでる時に」
「あんただって食べてるじゃん」
「終わりましたぁ」
「はいはい。そんでまあ、ちょっとアレな話していい?」
そう前置きをして、姉はちょっとアレなことを言った。
「友達に不倫してる子がいてさ」
「マジか」
「もう本当に惚れちゃってんだよね。『奥さんに悪いとは思ってるし、ダメだって思ってるけど、離れられないの』とか『凛みたいにフツーに結婚してる人が本当に羨ましい』とか『不倫はしちゃダメだよ』って会う度に泣きそうな顔で言うの。それがもう何年も続いてんの」
姉の友達とは誰とも面識が無いが、聞きかじっただけで痛ましい気持ちになる。そして「フツーに結婚してる人」である姉の口から、そんな恋愛の話が飛び出したことにたじろいでしまった。
「人ってさあ、何度でも恋愛ができるんだよ。困ったことに」
数百年前、ヨーロッパの哲学者が書いた言葉のように聞こえた。茶化す気にもなれず黙っていると、姉が続ける。
「誰かに恋をしたら、その時はその人のことしか好きになれない! って気分になるでしょ。生涯ひとりの人しか愛せないってのも素敵だし理想的だけど、初恋の人と添い遂げるなんて稀じゃない? 私だって、夫と出会うまでに何人かとお付き合いしたし、夫も私がはじめてってワケじゃない。それに、この身で口にするのも気が引けるけど」
姉が苦笑する。
「私も夫もこの先、他の誰かに恋をしてしまう可能性だってゼロじゃないよ。そんなことはないって信じてる、信じてるよ? ただ、全人類老若男女、信じがたい恋に落ちてしまう可能性を、みんな持ってると思うの」
「そ、壮大な話になってきた」
「恋を語っちまったわね……何せ私は世界の恋人マリリン・モンローの血を引いてるから……」
「いや、血は引いてないかな」
「とにかく」ふたたび菓子の袋をガサゴソやる音が聞こえる。
「今の大悟君には、レミーちゃんしか見えてない。啓吏が事実を伝えるか伝えないかは、あんたの勝手じゃん。どんな状況だったとしても、自分の恋心には自分で責任を持つべきだし。上手くいかなくてあんたに当たり散らすなら、その程度の男ってことだし、その程度の恋ってことでしょ」
「でもさあ」
「あんたは大悟君もレミーちゃんも、人として好きなんでしょ? だから悩んでるし、ふたりに嫌われるのもヤだし、体裁だって気になるんでしょ」
姉は全部お見通しである。こういう遠慮のないところが、なんとなく苦手だった。それでも相談してしまうのは、やっぱり頼れるからだ。悔しいけど。
「だったら尚更、あんたが善いと思うように、正々堂々としてな。結局は本人次第なんだから」
「ありがとう。気が楽になった」
「あんた、弟ながらいいヤツすぎるんだよ。良し悪しはともかく、私ならすぐ婚約者のことバラしちゃうね」
「だろうな」
「はい、相談コーナー終了。で? 私は啓吏自身の近況が聞きたいんだけど」
「べつに、何も特別なことはないよ。ぼちぼちだよ」
そろそろシャワー浴びたいし切ろう、というところで、物足りなそうに姉が言った。
「何もないってことないっしょ。イイ人いないの?」
言葉に詰まった。
問われた瞬間に、特定の人物が思い浮かんでしまったのである。
「そんなわけ、ないだろ」
脳内のその像に向かい、脳内だけで言ったつもりなのに、変なイントネーションで発声してしまった。
「ふうん?」
疑り深い姉の口元に、やはり光る八重歯が覗いているに違いない。
「まっ、気が向いたら連絡して。なんかおごってあげるからさ」
金曜の夜、J-16の扉を開くと、俺より一時間早く退勤した大悟がいた。
ジョージさんとロッカは、俺に気付き「いらっしゃい」と親しげに微笑んだ。ふたりに軽く会釈をし、大悟の隣に腰をおろす。
「何してんの」
声をかけると、大悟は「うわあ」と何気に失礼なリアクションをする。
七つしかない座席は、俺と大悟が座れば満席になった。ジョージさんと同じぐらいの年齢で、常連っぽい大人達が談笑している。
大悟はモヒートの華奢なグラスを、肉厚な両手で神経質そうに握りしめていて、お世辞にもバーが似合うとはいえない。若造の俺も大概だろうけど。
それにひきかえ、ロッカはなんの違和感もなく、琥珀色の光で満たされる店になじんでいた。カウンターに頬杖をつき、妙齢の紳士淑女たちの会話に溶け込んでいる。
その横顔は、歳に似つかわしくない落ち着きと、あどけない少女の幼さを併せ持っていた。まばたきをしたり、首を傾げたり、軽口を叩いたりするたび、豊かにつやめく。
「ケリーさん、よく来るんですか」
ふいにたずねられ、ハッとしつつメニューに視線を落とす。気温のせいではない汗をかいて、スラックスと座席の間が汗でじっとりしてきた。
「いや、こないだレミーに連れてこられて」
大悟の黒目がきょろりと動き、俺を見る。身体が大きい男に凄味のある視線を向けられると、正直たじろぐ。
「俺もっすよ」
そこはかとなく対抗心のこもった声音である。レミーとは本当にただの友人なのだが。
こちらにやってきたジョージさんに「ソルティドッグで」と注文すると「かしこまりました」のかわりに悠然と微笑み、オリーブの小鉢を差し出す所作に見惚れてしまう。
ドリンクの準備をするジョージさんの背中を見つめて「カッコイイすね」と大悟が言うのを首肯する。カマーベストが世界一似合うのは、間違いなく彼だ。
「『カフェ・ソサエティ』のサントラだ。流れてる音楽」
会話の糸口を探すでもなくつぶやく。
「映画ですか?」
「うん。ウディ・アレンのわりと最近のやつ。一九三〇年代のハリウッドで、エージェントをやってる叔父に仕事を貰おうとやってきた男が主人公のラブストーリーで……」
あのストーリーに重なり、姉との通話を思い出す。さらに大悟の状況も加わり、笑うに笑えない。
「ケリーさん好きそうですね。俺はたぶん観ないなあ」
「そう。それがいい。好きな映画だけ観たらいいよ」
無駄に頷いているうち、ジョージさんがドリンクを差し出す。そのタイミングで、常連たちの相手をしていたロッカが「ジョージさん、山崎のハイボール」と声を張った。目が合った気がして、瞬時にそらす。
俺たちは控えめに乾杯をし、グラスに口をつけた。
「今日で何連勤目なの? 最近、いつ出勤しても会う気がする」
正社員がバイトの大学生に、こんなことを聞くのって会社としてどうなんだろうか。
指折り数えて「八連勤すね」と言う大悟の笑顔は、それでもまぶしい。曰く、流石にもうヘルプを頼むのは申し訳ないというレミーに食い下がって出勤の予定を増やし、丁寧に謝辞を述べられる時の充足感がハンパではないらしい。ヤバい。
「あのさあ」もう単刀直入にいこう。言うなら早いほうがいい。「言わなきゃならないことがあるんだ。ちょっと身構えたほうがいいかも」
大悟がじっと俺を見る。せめてもの誠意、のつもりで真面目な視線を投げ返す。
「レミーには婚約者がいるんだ」
大悟の両目は、相変わらず見開いたままだった。いくらかの時間、そのまま沈黙が過ぎた。目が干乾びてしまうんじゃないかというぐらい、まばたきがなかった。
「この前言うべきだったのかもしれない。ごめん、今更」
「なんでケリーさんが謝るんですか?」
「えっ」
「なんで? 何か問題があります?」
ぱちぱちと大悟がまばたきをして、今度は俺がまばたきを忘れる。
「ケリーさんが言いたいことはわかります、わかりますよ。でも、自分でもびっくりするぐらい、だからどうした? ってかんじです」
ほんとうに強がりでも空元気でもないようで、大悟はきょとんとした顔をしていた。どうやら、姉の予言が的中したらしい。
「レミーさんが結婚の約束をしていると聞いたって、彼女への気持ちが無くなったりしません」
このことをカミングアウトすれば、大悟はめちゃくちゃに取り乱すであろうと想定していた。それが当然の反応だとすら考えていたが、とんだ見当違いだった。
そんな俺の先回りが、雑魚で姑息で不躾で救いようのないバカだと思えるぐらい、よどみのない、はっきりとした声で、彼が言い放つ。
「俺は、レミーさんが好きです」
「うん、そう、そうか」
完全に面食らった。なんというか今の大悟は、見た目はクッキングパパ、中身はマリウス・ポンメルシーだ。あまりにも真っすぐで、自分の志を信じて疑っていない。
それでも、気になるものは気になるようで。
「どんな人なんですか、その人」
大悟はマドラーでミントの葉をつつきながら「とりあえず聞くだけ聞いておこう」というポーズをしている。
「俺たちよりひと回り以上は年上で」
塩のざらつきを口の中で溶かしつつ、宙を見上げる。
「革ジャンが似合うチョイ悪オヤジで、部屋には木目調の高級オーディオスピーカーがあって、アストンマーティンを乗り回してる」
大悟だけではなく、たまたま耳に入ってしまったらしいジョージさんからも「な、なんと」という視線を感じ、その空気を払いのけるように笑ってみせる。
「『俺たちよりひと回り以上年上』以外は全部俺の妄想だよ。写真だって見たことない」
「そういうモンなんですか? だって、友達のカノジョがどんな子か、とか興味ありません?」
「なくはないよ。本人が見せたかったり話したがったりしてたら聞くけど、こっちからせがもうとは思わないな。相手がレミーでも誰でも」
「ええー、そういうモンなんですか?」
「俺はそういうの、わりとどうでもいいなあ。友達がよそで楽しくやってるなら、ソレはソレじゃん。レミーもたぶん似たようなかんじで、たまには彼の話をしたりするけど、込み入った話はしない。女友達とはしてるのかも」
「なんつーか、そういうところなんだろうなあ。ケリーさんとレミーさん、距離感が絶妙なんすよ。はたから見ててそんなかんじです」
「だろうなあ。おかげさまでやってますよ、華汀で」
味噌漬けクリームチーズはやっぱり美味くて、サラダはジョージさんのサービスで生ハムてんこ盛りで出てきて、俺たちはふたりでワインの瓶を空けた。
お冷を片手にスマホを覗き、お手洗いに向かった大悟が戻るのを待っていると、ぽん、と肩に手が触れる感触があった。
振り返る間もなく、ロッカが大悟の席に腰をおろす。
「ごめんね、いま入ってる常連さん、酔っぱらうとお手洗いで奥さんに電話するクセがあるの。意味わかんないでしょ」
大悟は扉の前で、先客が出るのを待ちぼうけていた。
「ああ、そうなんだ」
ふうん、という顔を装ったものの、血の巡りが突如速くなり、アルコールが頭の毛細血管のすみずみにまで行き渡ったような心地になった。よくわからない焦燥に駆られ、とりあえず水を飲み干す。
なんせ、今日は彼女に会いに来たようなものだったから。
「開港堂のカステラ、ありがとう。とても久しぶりに食べたわ」
何のことだか瞬時に思い出せず、数拍の間をおいて相槌を打つ。
「あれはレミーが選んだんだよ。伝えとく」
「そう。センスがいいのね」
ロッカがおもむろにお冷のグラスを掲げ、ジョージさんが継ぎ足しにくる。彼はやはりにこやかだったが、すこしばかり含みがある表情に見えたのは気のせいか。
「あのお店の本店、いまマリンモールがある土地の一角にあったの。それからは行ってなくて。中華街にも支店はあるんだけど」
この手の話題を持ち出されると、否が応でも俺とロッカの間にある、手の施しようがない溝を感じてしまう。
飲酒の効力か、ムダに軽妙に回転しだした脳みそが「ノスタルジーを良しとするのは、悩める現代への拒絶だ。この時代を対処できない、夢見がちな人間の欠陥だ」という『ミッドナイト・イン・パリ』作中の台詞を思い出す。
居ずまいを正し、咳払いをした。
「ところで、名画座に行こうって話、どうする?」
異常に慎重な口ぶりだった。そう、この話をするために来たのだ。俺ってこんな男だったか? 女の子にきわめてプライベートなお誘いをする時、かつてこんなにも、こんなにも及び腰になったことがあるか? 高校生の時、はじめてできた恋人とはどうだったか……いや、そもそも今回のはロッカがその場のノリ的なアレで……などとうじうじした思考を脳味噌にはびこらせる。
そんな俺の気も知らず、ロッカは「ああ、そうよ!」と今思いついたような無邪気な顔をする。
「来月の前半二週間はね、ヘップバーン特集を組むんだって」
「作品は?」
「『マイ・フェア・レディ』と『パリの恋人』。すてきでしょう?」
「行く」
思わず前のめりになった。往年のミュージカル映画を、スクリーンで観られる機会なんてそうそうない。
鞄から手帳を取り出し、来月のページを開いてロッカと自分の間に置く。手帳を覗き込むロッカのまぶたの、アイシャドウがきらきらした。
「日付に赤い丸が付いてるところが休日」
「遅番の翌日の早番が何回もある。疲れるわね」
「八月なんて、みんなイベント事に合わせて休日と早番遅番の希望出すから、暇人はそうなるんだよ」
「すこしは我儘を言えばいいのに。この日は私も定休日よ。午前からどう?」
「いいよ、その日にしよう」
「決まりね。これ借りていい?」
ロッカは手帳カバーに差してあるボールペンを抜いて「ペンまでアーノルドパーマーだわ」とつぶやき、予定を書き込んだ。
「ジーン・ケリーが出てるのは、パリの……」
「『巴里のアメリカ人』?」
「そう。『パリの恋人』はフレッド・アステアよね。ややこしいわ」
「同年代でこんな話が通じるの、君ぐらいだよ」
ロッカは俺の言葉に小首を傾げ、にこりと微笑む。
「私だって、あなただけよ」
そう言い添えて、手帳を俺に返した。
「失礼、お邪魔したわね。もうお会計でよかったかしら?」
「はい。お願いします」
戻ってきた大悟とそう交わして席を立ったロッカは『I Could Have Danced All Night』をでたらめな歌詞で口遊みながら、伝票を取りに行った。
この夜、俺も同じ曲の鼻歌を歌い、家路をたどった。
七月も後半、夏休みシーズンに突入する。
ファミリー向けのアニメから、豪華俳優陣の出そろったハリウッド作品まで、上映するものはほぼ話題作という時期だ。
連日大混雑で、事務所のパソコンの前で悠然と腰かけている暇もなく、社員だろうが支配人だろうが劇場清掃もチケットもぎりもポップコーンの販売もやり、回転させるのに必死だ。誰も彼も走り回って汗だくになり「なんか痩せたんじゃない?」「そっちこそ」という会話が交わされる。
そんな日々を過ごし、気づけば大悟とレミーが例の映画を観に行く日になっていた。
大悟を応援してやりたい気持ちはあるが、何がどうなるのを支持すればいいのかまるで分らない。もちろん、レミーにも幸せでいてほしい。そう思いはするのだが。
お子様がロビーの絨毯にぶちまけたメロンソーダを掃除している時も、混雑に苛立ったクレーマーに怒鳴られている時も、メールチェックをする暇がなくて配給会社から返信催促の電話が来た時も、頭の中で、緑色のドレスをまとったヘップバーンが歌っていた。
大悟とレミーは今頃待ち合わせか、それともオシャレなカフェでランチでも食べているのか、などと想像を巡らせ、自分は近所のコンビニに弁当を買いに出る。時間に余裕を持って出勤すれば、行きがけに買い物ができるはずだ。まったくこのクソ暑い中わざわざ、と思いつつ、屋根裏の窓を見上げてしまう自分がいる。
復路、信号待ちの際にもう一度見上げると、レースのカーテンの向こうに人影があった。反射的に大声で呼びかける。
「ロッカ!」
軽い目眩に襲われた。うろこ屋根に照り返す陽光に目を細める。
ややあって、ロッカが窓辺に顔を出した。カーテンを開き、出窓に肘をついてこちらを見おろす。髪の毛はぼさぼさで、寝起きの顔をしていた。
「おはよう、今日も暑いね」
覇気のないロッカの声が、どうにかこうにか聞こえてくる。髪の毛を手櫛で整え、へらりと笑った。
「悪い、寝起きだった?」彼女の数倍の音量で声を張る。
「ううん、いいの。今さっき起きたとこ」先ほどより明瞭な声が返ってきた。
「姿が見えたから、つい呼んでみた」
「お昼休みなの?」
「そう」腕時計があるにもかかわらず、映画館正門の上、大時計をつい振り返る。「まだ余裕だ」
「なら良かったわ。忙しいんじゃないかと思って」
「ありがとう、大丈夫だ。君から気づかわしげな台詞が出てくるとはびっくりした」
「何よ! はやく戻んなさいよ」
この歳になってまで、照れ隠しの言葉がでてくる自分にもびっくりする。ロッカは鼻白んだ表情で舌を出した。
半笑いでこちらから手を振ると、彼女も振り返す。
煙草屋のおばちゃんがこっちを見てニヤニヤしていたことと思うが、そちらに視線はやらず事務所に戻った。
『六花ちゃんとデート 10:00~』
俺の手帳に、ロッカはそう書き込んだ。アーノルドパーマーのボールペンで。
彼女の字は、想像通り丸い。ロッカは六花と書く。そして、デートという単語を明記された。用もなく手帳を開いてその文字列を見るたび、新鮮な気持ちになる。
……全人類老若男女、信じがたい恋に落ちてしまう可能性を、みんな持ってると思うの。
このところ、知らんぷりの精度に磨きをかけてきたが、それも限界を迎えた。
「おはよう」
俺より遅く出勤してきたレミーが、いつもとはわずかに違う声色でそう言った。俺の思い込みかもしれないが、その挨拶を聞いた途端、悪寒のようなものがすうっと身体の中を通り過ぎた。
「ああ、おはよう」
また知らんぷりである。
モニターに表示された前売り券販売データに視線を逃がし、事なきを得ようとする。しかし、マスカラでガッチガチにコーティングされたまつ毛の先端がこちらに向いた。逃げられない。
「小原さん、昼ご飯外で食べよう」
というわけで、中華街のうらぶれた路地にある小さな中華店にきた。木目のテーブルは油でベタベタだし、背もたれのない椅子はクッションの合皮が破れてスポンジが剥き出しである。それでも、そこそこの客入りはあった。中年男性ばかりだ。
最初こそレミーも知らんぷりを決め込み、俺たちはくだらない雑談をしていた。そのうち冷やし中華が運ばれてきて、わり箸を割き、からしと汁を混ぜようという段になり、レミーが切り込む。
「あのさ、なんていうか、昨日のことなんだけど」
レミーが珍しく言い淀む。俺たちは自分の器に目を落とし、これから漂うであろう湿っぽさを中和せんばかりに冷やし中華をかき混ぜていた。
「大悟に告白された」
「えっ、早っ」
「なに、知ってたの?」
「相談をされてた。話聞くだけだったけど」
「ああ、こないだの倉庫のときでしょ」
餃子の油のにおいが充満する店内に、レミーのからっとした笑い声が響く。
「ご飯食べて映画観て、帰りに駅前でさあ。『好きです』って頭を下げたの」
直角九十度で頭を下げる大悟と、困惑しつつも真正面から向き合うレミーがありありと目に浮かんだ。
「彼のことを説明して、気持ちを受け入れることができないのを謝ったんだけど、食い下がってきてさ。これからまだ出会いあるし、私よりも大悟に相応しい人だってきっといるよ、何回だって恋愛できるよって言ったの」
何回だって恋愛できる。誰かさんと同じ台詞だ。
「『じゃあ、レミーさんも婚約者以外の男と恋愛できるじゃないですか』って。ああ墓穴掘ったなあって思ったんだけど」
間が生じる。
「私はもう、あの人しか好きじゃない。他の人にはもう惚れられないんだって、はっきり言った。自分でもびっくりするぐらい冷静で、何の映画の台詞だよって」
「……で? 大悟は?」
持ち上げた麺を宙でストップさせたまま、ぎこちなく口の端をゆがめてレミーが答えた。
「『俺だって、レミーさんしか好きじゃないです』って」
俺もレミーも、大悟を茶化せるほど子供ではなければ、百戦錬磨の遊び人でもなかった。
「大悟に会うの気まずいなあ。今日明日もシフト入ってたけど、他の子に変わってもらうってメール来たし。まあ、フツーに接するしかないか」
「君が気負う必要はないよ」
「ありがとう。ケリーに話せてよかった」
レミーとの関係を、腹を割って話せるとか、気ごころの知れた……とか呼ぶのは違う気がしていた。互いに遠慮しているつもりはないが、おっぴろげにする必要もないだろう。
「指輪はつくらないの?」
「ううん、人気のブランドでオーダーしたら時間かかっちゃって。でも来月には受け取れるみたい。もう一回プロポーズやりなおせって言っておいた」
「そりゃあプレッシャーだな」
レミーは得意げな顔をみせる。年季の入ったエアコンから吐き出される冷風が、彼女の短い髪を揺らした。
「そうだレミー、彼の写真を見せてよ」
「あれ? 見たことないっけ?」
近いうち、姉に電話しようと思った。
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