Night and Day #1

 映画館には、何かがある。


 一歩足を踏み入れ、キャラメルポップコーンの香りに包まれれば、これからはじまる物語への期待に、誰もがわくわくしはじめる。家族できた人、デートできた人、友達ときた人、ひとりできた人、とにかくみんな映画を観にきたのだ。


 本当は白いだけのスクリーンに映し出される、光の陰影を見つめにきた人たちの気持ちが、ひとつの心地いい空気になり、劇場の暗闇にあふれ出している。DVDや配信サービスで観るのだっていい。それでも、映画という娯楽が誕生して百年近く経過しても、人々は映画館に集まるのをやめられないのだ。

 やはり、映画館には何かある。美しいとさえ感じる。

 ――なんて、気恥ずかしくて誰にも言えやしないが。


「いやマジで、横文字コンビが来てから雰囲気変わりましたもん」

「ホントに? 口が上手いなあ」

「悪かったわけじゃないけど、前より空気が砕けたかんじがするんですよ」

「わかるー! なんていうか、社員さんみんなマジメで、近寄りがたかったんです」

「小原と沢口はちゃらんぽらんだから馴れ馴れしくしてもいいな、ってこと?」

「違いますう、そんな言い方してませぇん」

 平日の正午、午前中上映の入れ込みをすべて終え、チケットを買いに来る人もほとんどいない時間帯。見回りがてら、フロアに出ているバイトスタッフたちと雑談を交わす。


「あのねえ、俺はありがたいと思ってるんですよ、皆さん」

 みんなとコリドールの掃除やポスター替えやらの雑事をこなしているこの時間は、なんだか心地いい。マネージャーになると、どうしてもさんさんと蛍光灯の降り注ぐ事務室でパソコンと向き合う時間ばかりになる。今の仕事もいいけど、やっぱり表に立って接客をしている時のほうが、映画館と密接なつながりを感じられるのだ。


「俺なんか四月にここ来たばっかのペーペーなのに、みんなちゃんと言うこと聞いてくれるし、アットホームだし」

「ケリーさんの人柄がいいからですよ」

「俺をほめても時給は上がらないぞお」


 こういう、和気藹々! みんなで一致団結! 的な面もあるが、一人ひとりと喋ると、結構コアな映画ファンだったりするのでおもしろい。

 キャピキャピしたムードメーカーの女子大生のオールタイムベストが『髪結いの亭主』だと聞いたときはヘンな反応をして顰蹙を買った。ひいきのハリウッドスターが来日するたびに国際空港まで出迎えに行き、舞台挨拶やレッドカーペットイベントに死に物狂いで応募している主婦の話を聞いていると俺まで興奮してくる。『バットマン』シリーズが大好きでグッズを収集しているというアメコミオタクもいれば、観賞作品の感想を一作残らずレビュー投稿サイトに載せる評論家タイプもいるし、仲間を集めて自主制作映画をつくっているフリーターもいる。


 集まるところには集まるなあ、などと思っていたが「左舷市に数ある映画館の中でも、なぜここに?」と聞けば、けっこうな確率でこう返ってくる。

「左舷市の映画の聖地っていえば、ここかなって」

 へー、やっぱりそうなんだあ、ふーん。

 とテキトーに返していたが、俺が思っている以上に、地元の人にとってキネマ華汀の存在は大きいらしい。ということを、最近急激に意識しはじめていた。


 左舷市民に親しまれ、なくなってもなお、往時を知らない映画ファンたちにさえ慕われるキネマ華汀。

 そんな名画座がかつて存在していた土地に鎮座するシネコン、中丸シネマズ華汀。

 それを向かいの屋根裏部屋から見つめ続ける、キネマ華汀の孫娘。

 ……と、ひょんなことからお近づきになってしまった、シネコンマネージャーの俺。


「てかケリーさん、聞いていいですか?」

 グッズ売り場の倉庫で、パンフレットの在庫表を手にしたままぼんやりしていたらバイトの子が唐突に声をかけてきた。

「えっ、あっ、なに?」

 華汀に来る前にも、何回聞かれたかわからない質問が投げかけられる。

「ぶっちゃけ、レミーさんとは付き合ってるんですか?」

 俺としては「はっはっは、よくある質問ですね」ぐらいの気持ちなのだが、その場に居合わせた別の子が「ちょっと、タカハシやめなよお」と往なす。その様子をやはり「はっはっは」という気持ちで眺める。

「ないない。友達だよ、腐れ縁ってやつ」

 在庫表にサインをしつつ、いつも通りに答える。するといつも通りに「ええー?」だの「ふうん」だの、釈然としなそうな感嘆が聞こえてきた。


「男女の友情じゃないですかぁ」

「異性だからどう、とか意識したことないけど」

「はたから見てると相棒ってかんじですよ」

「はっはっは」タカハシ

 などと話していると、タカハシがめっちゃニヤニヤしながら、売り場へ続く扉を開け放った。そしてレジに立っている男子に向かい、高らかに叫ぶ。

「だってよ! よかったじゃん!」

 背後から大声で言われ、レジの男子……田中大悟たなかだいごは怪訝そうな顔で振り返る。

「横文字コンビ付き合ってないって!」

「マジで!」

 めっちゃ嬉しそうな大悟と目が合った。その瞬間、彼は首まで真っ赤になった。

 

 あっ、お前、そういうことなの?

 でもな大悟、あいつ、婚約者いるんだよ。




 事務所のレミーのデスクには、ディズニー・ピクサー映画『レミーのおいしいレストラン』の料理好きの主人公、ねずみのレミーのぬいぐるみが置かれている。婚約者が出張だか社員旅行だかでフランスに行き、わざわざディズニーランド・パリで買ってきたものらしい。

 大学時代、サークルで好きなディズニー映画の話題になり、誰もが知る有名タイトルが次々挙がる中、レミーがこの映画を挙げたのだ。「アカデミー賞の長編アニメ部門受賞してんだからね」「使い込まれた調理器具の傷までリアルだぞ」「これよりもハッピーなディズニー映画を私は知らねえ」と熱弁した彼女のあだ名は、その日からレミーになった。


「リトルシェフに何かご用?」

 ぬいぐるみをぼんやり眺めていたら持ち主に声をかけられ、はっとする。

「料理のアドバイスをもらってた」

 今日も今日とて、レミーはシフト作成に頭を痛めていた。画面を睨みつけたまま、リップクリームを塗る彼女から、かすかにフルーツみたいな香りがした。


「八月もヘルプ要請しなきゃ回りそうにないなあ。夏休みだからみんな入ってくれるかビミョーだけど」

「みんな遊びすぎて金欠になって、バイト増やすだろ」

「だといいけど。大悟とかは絶対何日か増やしてくれると思う」

「……あー、あいつはよく働くよなあ……」

 レミーがちらりとこちらを見る。不自然な反応をしてしまっただろうか。自分の作業に戻る素振りをしたら追い打ちをかけられた。


「倉庫から戻ってくんの遅かったけど、何にそんな時間かかってたの? 今日はヒマだからいいけど」

「えっ、ちょっとみんなと雑談が盛り上がって」

「さいしょはね。ほとんどケリーと大悟のふたりだけに見えたけど」

 事務所の監視カメラで、どのセクションも丸見えなのである。シフトづくりに飽きた彼女が、コーヒーブレイクがてらモニターを眺めていたに違いない。

「べつに? 男同士の会話をしてただけだよ」

 こういうのを誤魔化すのは得意ではない。やり過ごそうと意識するほどに居心地が悪くなった。もっとも、レミーは何も気にしていないようだが。

 そんな絶妙なタイミングで、支配人が声をあげた。

「ごめん、誰かおつかい行ってきてくれない? そこの煙草屋で」




 すっかり夏の日差しだった。まぶしさに目を細め、外に一歩踏み出せば、革靴の裏からアスファルトの熱が伝わってきそうだった。どこからともなくセミの鳴き声が聞こえる。

 うろこ屋根の塔のふもと、例の煙草屋は、ふつうに開店していた。なんとなく咳払いをして、歩道に出っ張った台の上に立つ。


 店番をしていたのは、先日見かけた女性と同じ人だった。金髪に染め抜いた髪の毛をお団子にして、石原軍団みたいなサングラスをかけ、ごつい輪っかの耳飾りをして、蛍光ピンクの口紅をしたおばちゃんだ。

 彼女は俺に気付いているのかいないのか、スポーツ新聞から顔を上げなかった。競艇か何かの実況中継がノイズまじりのラジオから流れ、年季が入ってそうな扇風機が回る音と二重奏を奏でる。


「ごめんください」

 こんな台詞、小学生の時に駄菓子屋や文具店ぐらいでしか言ったことがない。それが何の滞りも迷いも無く、するりと口から出てきた。

 おばちゃんはようやく俺の顔を見上げる。


「いらっしゃい」

 酒やけ……いや、煙草やけしたであろうダミ声だった。サングラスを掛けてはいたが、若人がこんな店に珍しい、と言わんばかりの視線を感じる。

「八十二円切手を二十枚。領収書も頂けますか」

「はいよ。宛名は?」

「前株、中丸シネマズで」

 差し出された電卓の表示に従って支払いを済ませ、切手と領収書を受け取り、窓口を離れる。


 信号待ちの間、手持ち無沙汰に振り返って屋根裏の窓を見上げる。風よけ蓋も窓も開かれ、白いレースのカーテンだけが閉じられていた。

 ひょっこり、ロッカが現れたりしないだろうか。

 しばらく窓辺を見つめていたが、カーテンが風にそよぐこともなく、何の気配もなかった。そりゃあ、俺は天沢聖司じゃないし。


「あの子なら」煙草屋のおばちゃんが、唐突に声を張り上げた。「マスターと買い出しに行ったよ」

 無性に恥ずかしさがこみあげてきて、気温のせいではない熱が顔から耳朶までを覆う。会釈で応えると、おばちゃんは不適な笑みを浮かべて「ほら、信号、また赤んなるよ」と言った。


 事務所に戻ると、大悟とレミーが談笑していた。

「おかえり」

「おかえりなさい」

 大悟が意味ありげにニヤニヤしながら俺を見てきた。俺はわざとらしく肩をすくめ、ふたりの脇を抜けて支配人に切手を渡しに行く。

「あのおばちゃん、ハデだよね」と支配人が雑談をふってきたので、応じつつレミーと大悟の会話を盗み聞きする。

 断片的に聞き取った言葉から推定するに、うちの系列では上映していない映画を、別のシネコンにふたりで観に行く約束をしたようだった。早い、早いぞ。なんて行動力だ。リングイニがダメにしたスープの味を、レミーが直すシーンと同じぐらい鮮やかな手際だ。


 何も知りませぇん、という顔で席に戻った俺に「ケリーも行く?」とレミーがたずねる。白々しくも「何に?」と聞き返せば、想像通りの説明を受けた。

 気乗りするわけもなく「食指が動かない」とか言ってかわす。そのうちに大悟は無線で呼び出され、フロアに出ていった。

 依然として何も知りませぇん、の顔を保ち続けたが、頭の中ではいろんな思考が絡まり合っている。


 大悟にはさっさと真実を伝えるべきなんじゃないのか?

 そういえば、ロッカと名画座に行く口約束だけして日取りは決めてないな。

 このまま放っておくと、大悟は超展開でことを進めてしまう気がする。

 連絡先聞いてないし、またJ-16に行くしかないな。

 しかし大悟のやつ、思った以上に積極的である。

 ……なんで俺、窓辺にロッカが出てくるのを期待したんだ。

 



 リトルシェフのアドバイスの甲斐もなく、スーパーで五十円引きの麻婆茄子丼を買って帰宅した。 

 レンジでチンしつつ、空調の電源を入れる。作り置きの麦茶を百均で買ったグラスに注いで飲み干し、もう一度注ぎなおして折り畳みテーブルの前にどっかり腰をおろせば、溜め息が出た。

 大悟とのやり取りをぼんやり思い出す。


「俺、レミーさんが好きなんです」

 ふたりきりになった倉庫で、ごくシンプルに大悟は切り出した。

「そう、そうなんだ」

 どういう反応が正しいかわからず、探りさぐり発音したらへんなかんじになった。

 大悟は握りしめた両手を膝に置き、思い詰めている表情を薄めようと努めた硬い笑顔で床を凝視している。


 レミーと知り合って六年ほど経つが、こういう状況ははじめてである。

 俺よりも背が高く、ガタイのいい大悟が背中を丸めて黙り込み、彼よりも年上だけれどヒョロヒョロで覇気のない俺が相対し、互いにまばたきだけを繰り返しているさまはなかなか異様だ。

 

 しかしそのうち、感情が土砂崩れを起こしたかのように大悟が喋りだした。

「俺、ずっと恋愛とは無縁で、男兄弟しかいないし、男子高だったし。大学入って、中丸でバイトはじめて、やっと日常的に女の子と接するようになったっていうか。そんで、やっぱカノジョはほしいじゃないですか。でもイケメンじゃないしモテないし、いいなって子には絶対カレシがいるし」

「うん、うん」

「女の子と喋ってると、こう、一定のパーソナルスペースを意識してしまうんです。でも、レミーさんが相手だと、なんていうか……もっとお近づきになりたいなと……」

「ほぉん、ふふっ……」

「ほぉん、ってなんですか! 俺はマジですよ! 笑わないでください!」

「ごめん、ナチュラルに出た。バカにしてるつもりはない」


 大悟は嘆かわしげに息をついて、再び喋り出す。

「レミーさんって、みんなに分け隔てなく優しいし、親しくしてくれるじゃないですか。ケリーさんも」

「うん、ありがとう」

「みんなに対してそうだって分かってるんですよ、分かってるのに、彼女の意識が少しでも俺に向くのがすごく嬉しいんです。一言でも多く話せた日なんかずっと浮かれてるし、シフト希望のメールに事務的な返信が来てもニヤニヤしてスクショして俺キモいなってなるし、人足りない時にヘルプメール来たらどうにか出勤できるようにするし」

「社畜バイトじゃん」と口走りそうになるのを飲み込む。一拍おいて、もっと率直な感想を口にした。


「恋だなあ」

「はい……」

「でも、あんまり無理してヘルプ来るなよ。気持ちは分らなくないけど、大学の友達と遊ぶなら今のうちだし。来年には卒業なんでしょ」

「それを言ったら、バイトできるのも、レミーさんに会えるのも今のうちなんです。中丸以外に俺と彼女の接点はないじゃないですか」


 彼から相談を持ち掛けられたはずだが、なぜだか俺が律されているような気分になってきた。と同時に、この真っすぐな青年に何をどう言えばいいのか、どんどん窮していく。

「うーん、大悟はレミーとどうなりたいの?」

「えっ」

 そう発音したままの形で、大悟の口が開きっぱなしになる。

「ぶっちゃけて言うと」

「うん」

「俺なんかレミーさんに振り向いてもらえるはずがないって思ってて、だから、喋れるだけでよかったんですけど、ケリーさんとは付き合ってないって聞いて、胸のつっかえがスーッと無くなってくのを感じて」

「……うん」

 凄味のある目で、大悟は切に訴えた。

「もう、絶対に付き合いたいです。そんで脱童貞したいです」

 この時、言ってしまえばよかったのだろうか。


 布団の上に投げ出したスマホが鳴る。電話の着信。画面にはアンディ・ウォーホルが描いたモンローのイラストの上に、小原凛と表示されている。

 姉だ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る