Jeepers Creepers #1
「いや、冷静に考えてダメだろ」
インスタントしじみ味噌汁を啜りながら来月のシフトを作っているレミーが、覇気のない声で「何が」と返してきた。彼女は昨晩、帰宅してから度数の高いチューハイのロング缶を空けたために絶賛二日酔いらしい。
「俺たちはジョージさんのご厚意に甘えたわけだが、会社的にマズくないか」
「何が? コンプライアンス的な?」
「そういうんじゃくて、なんというか」
そんな話をしている間にも、片耳に着けた館内無線のイヤホンから呼び掛けがある。
「イトウです、どなたかマネージャー取れますか」
マイクの発信ボタンを押すと、ピッ、と短い電子音がする。
「小原です、どうぞ」
「字幕と間違えて吹替のチケットを購入したお客様が交換ご希望です。基本的には承れない旨お伝えしてますが、どうしても変えてほしいとのことで、どうしましょう」
「今回は空いてるから対応するけど、次回はお気をつけ下さいと改めてお伝えして。ご購入された作品と席番、交換希望の上映回を教えて下さい」
「はい。ご購入されたのが、三番シアターで十四時三十分からの……」
パソコンで座席予約の確認システムを開き、手続きを済ませる。レミーのほうは「マーベル新作公開初日の人手が足りない」というバイトスタッフ宛一斉送信メールを打っている最中だった。
「俺たちは中丸の社員だと知られた上でご馳走になってしまったわけだけど、ジョージさんは中丸のお客様になる可能性がある一般人なんだから、軽率だったと思う」
「あっ何、さっきの話?」
「で、中丸に恨みがあるっぽいあの女がネットにヘンな文章でも書いたら、曲解されて炎上する。さいあく、退職でも済まない社会的制裁が待つ」
「小原さん、想像力豊かだしマジメだよね」
呑気なかんじの味噌汁のにおいが漂う。他の社員は昼休みに出ていて、事務所には俺とレミーだけだ。
「沢口さん、俺わりとマジな話をしてるんだけど」
「まあ確かに、無いとは言い切れないね。菓子折りでも持っていこうか」
その話題はそこでやめて、コンビニのサンドイッチの封を切る。
何のサービスデーでもない平日昼間のシネコンは、良くも悪くもぼんやりしていた。それでも取引先や本社とのやり取りやもろもろの事務作業の傍ら、フロアに出ているスタッフたちから無線が飛ぶ。
「ウェブ前売券をご購入の方が発券機のエラーで」
「冷房が効きすぎだとご意見があったので空調を」
「近隣の館の上映時間が分かれば教えてほしいと」
「〇×配給会社の方が客層のチェックに入りたいそうで」
等々。シネコンには日々いろいろな人が来て、いろいろ要望があり、いろいろ起こる。俺もバイト時代は表で奔走していたのでよくわかる……というのもおこがましいが、マネージャーがしっかりしていないと上手く回らないのだ。
「お疲れ様です、二階警備です」
館内無線の他に、マリンモールの内線電話がときおり掛かってくる。劇場からモールへの、一方通行の退出口の警備員からだ。間違ってモール側から入ってくる人を止めるために配置されている。
「車椅子ご利用のお客様がいらっしゃいました」
「すぐ向かうので、少々お待ち下さい」
世に存在する映画館のほとんどは、観賞券をもぎる入場口と、観賞後の退出口が統一されているはずだ。しかし、ウチには入場口がひとつ、出口がふたつある。
多くの場合、中丸シネマズは中丸ホールディングスの商業施設内にテナント店舗として入居している。しかし〈中丸シネマズ華汀〉は、マリンモールの別館という位置づけの、建築として独立した映画館だ。キネマ華汀の構造を真似、独立した建築物であるため、入り口は交差点に面している。
もぎり受付は一階ロビーの片隅にあり、一番シアターから四番シアターが同階、エレベーターもしくは階段で二階に上がると五番から八番がある。そして鑑賞後の出口は、一階のもぎり受付から退出するルートと、二階のモールと直結した出口から退出するルートのふたつだ。帰りにモールで買い物なり食事なりできますよ、という構造だ。
正面入り口には石造りの階段が数段あり、スロープはない。マリンモール側はバリアフリーの設備が整っているので、車椅子利用者は二階の出口から入場することになっている。つくづく、何でわざわざこんな構造にしたのか疑問である。
名画座のナリをここまで忠実に復元したシネコンをつくることに、どんな意義があったというのだろう? 商業施設を建てるために、全国各地の古い建築物をドカドカ取り壊してきたのに、なぜ華汀だけこんなことを? 身内ながら、自社の利益だけを追求する排他的な大企業が、さびれた港町にノスタルジーな演出を加えるなんて、首を傾げたくもなる。
二階出口に向かうと、車椅子に乗った常連のチヨさんと、ヘルパーの中年女性が警備員のそばで待っていた。
「お待たせいたしました、いらっしゃいませ」
チヨさんのそばで立膝をついて、適度に声を張る。老齢の彼女はつぶらな瞳をぱちぱちとさせ、これがはじめてであるかのように、いつもと同じ台詞を口にするのだ。
「まあ、ずいぶんハンサムね。ジーン・ケリーかと思ったわ」
俺もこれがはじめてであるかのように、とぼけた顔をして返す。
「あなたこそ。ジンジャー・ロジャースが来日したのかと」
しわがれた声で笑う彼女の手から、チケットを受け取る。ふたりが観賞するのは、第二次世界大戦直後のイギリスを舞台にしたロマンス映画だった。
八つあるスクリーンの中でも、こぢんまりとしたシアターまで付き添う。観客はシニア層が中心で、平日ながらもそこそこ席は埋まっていた。
車椅子を利用したまま観賞できるスペースで車輪のストッパーを止め、チヨさんに飲み物の希望を聞くと、ヘルパーの女性は売店に向かった。
「ごゆっくりどうぞ」と事務所に戻ろうとしたところを、チヨさんに引き留められる。
スクリーンに中丸シネマズの自社広告が流れ、名画座の白黒写真がでかでかと映し出された。冷蔵庫の上にあるものと、まったく同じあの写真である。
「かつてこの場所にあった名画座・キネマ華汀は、多くの人々に感動を届けていました」
落ち着いた男性のナレーションに、チヨさんの「まあ、懐かしいわ」という声が重なる。中丸シネマズのなかでもウチだけでさいきん流れはじめた広告で、見るのは数回目だった。
白黒の不鮮明な写真が、すうっと画面から透けていき、現在の中丸シネマズ華汀のカラー写真にかわる。
「その想いを受け継ぎ、地域の人々に愛され続ける映画館であるために」
見ず知らずの雇われ俳優たちがウチの制服を着て、にこやかにスタッフ役を演じている。
「私たちはいつでも、皆様を笑顔でお迎えいたします」
画面の中央に中丸シネマズのロゴが現れ、広告は終了する。
まったく別のテンションの他社広告が流れはじめ、その大音量の中で、チヨさんが熱心に話した。
「私ね、女学生の時から、ずっとここに来てるの。キネマ華汀が取り壊された時は本当に悲しかったけれど、そっくりの映画館ができて、とても嬉しかった」
しわしわで乾いた、小さな手が俺の手を握った。その力は驚くほど強くて、俺よりも彼女の指が耐えられずに折れてしまいそうだった。
「ここの人たちは、みんないい子ね。思うのよ、映画好きに悪い人はいないって。とりわけ、ここで働いたすべての人たちはね」
老齢の人だけが持つ、奇妙な説得力に圧倒され、少しのあいだ何も言えなくなった。老いてなお瑞々しい両目が、俺を見ている。
「ありがとうございます。これからも、どうぞよろしくお願いします」
チヨさんはニッと口の端を持ち上げ、ぱちりとウインクをした。彼女の愛嬌には、どんな銀幕女優だってかなわない。
久しぶりの日曜休みだった。昨日は注目作の封切り日で満席回続出だったし、今日もみんな走り回ってるんだろうなハッハッハ、などと思いながら昼前に布団から出る。
菓子折りはレミーとふたりで持っていくつもりだったが、間が悪いことに直近で退勤時間や休日が合う日が無く、俺が今日ひとりで持っていくことになった。
営業時間を調べようと、検索サイトで「華汀 J-16」と入力すると、予測変換に「華汀 J-16 ランチ」と表示された。口コミサイトを見たところ、土日限定でランチ営業を行っており、唯一の提供メニューであるビーフシチューがめちゃうまらしい。
フツーに食べたい。が、菓子折りをお渡しするのが要件なのに、ランチ食べてくのなんかスマートじゃない気がするし、再びジョージさんに変な気を遣わせるのも嫌なので遠慮しておく。
アーノルドパーマーのアンブレラが胸ポケットに小さくあしらわれた白シャツ、ベージュのチノパン、ショルダーバッグにいつもの革靴で部屋を出た。先日も公私半々な状況だったので、スーツを着てガチガチな雰囲気で行くのも慇懃だし、かと言ってTシャツにジーンズというわけにもいかないだろう。と、考えた末の折衷案だ。
梅雨は明けそうで明けていない。薄灰色の厚い雲が空を覆い、生暖かい空気で満たされている。
土日の華汀は、平日と打って変わって賑わっていた。案の定、ほとんどの人がマリンモールに向かって歩いていく。近隣の観光スポットから足をのばしたであろう、スーツケースを引いた人も見受けられる。
商店街も、いつもよりは開店している店舗が多く、そこそこの集客に成功しているようだ。老舗っぽい飲食店や惣菜店、はたまた新装開店のオシャレなカフェやパン屋も見受けられる。マリンモールによる「町おこし」も休日は功を奏しているのかもしれない。
片手に提げた紙袋の中身に、ちらりと目をやる。マリンモール内の菓子店にある、一切れずつ個包装になったチョコレート味のカステラ。その店は、マリンモールを建てるために店舗と土地を買収された商店のひとつだった。
菓子選びの話をしているレミーが何だか楽しそうだったので、彼女に任せた。しかし、挙げられたのはどれもマカロンだのフロランタンだの、パリやニューヨークに本店を置く高級スイーツ店のものばかりだった。
「あの女、敵陣マリンモールのお高くとまった海外ブランドの菓子を見ようものなら、憎たらしい嫌味を垂れる。絶対に」
と抗議する俺を、レミーは鼻で笑った。
「そこまであの子のご機嫌をとる必要が、私たちにある? どちらかといえば、ジョージさんに対してお礼をするんでしょ?」
確かにそうだ。
口を半開きにして固まる俺に、それでもレミーは「ケリーがそう言うなら別のにするけど。アテはあるし」と事も無げに言い、カステラをチョイスしてくれたのである。
それを持って店に向かいながら、尚もあの女のあらゆるリアクションを想定し、切り返しをいくつも考えている。こういうところが短所だという自覚はあるので、ちょっと情けなくもあった。
頭の中でぎゃんぎゃん喚く女をやりすごし、例の煙草屋の前を曲がる。
窓口の中にごちゃごちゃ積み上げられたカートン単位の箱と、でかいレンズのサングラスをしたおばさん店主を横目で見つつ、素知らぬ顔で通り過ぎた。
口コミサイトの書き込みを参考に、おおよそビーフシチューが売り切れる時間帯に目星をつけて来た。案の定、ドアノブに「本日のランチは終了しました」の札がかかっている。
かまぼこ型の窓から店内を覗くと、片付けをしているジョージさんと目が合った。作業の手をとめ、扉を開けてくれる。
「こんにちは。すみません、お忙しいところ」
「とんでもない。シチューはもう無いけど、お茶でもお出ししましょうか。それともお酒でも?」
相変わらずにこやかで優しく、バーテンのおじさまなのに保健室の先生みたいである。
「いえ、結構です。今日は先日のお礼とお詫びに伺いました。一銭もお支払いせずご厚意に甘えてしまいましたので、こちらを」
差し出した紙袋を受け取ったジョージさんは、きょとんとした顔で俺と紙袋を見比べた。
「あれは私がやりたくてやったことなので……かえって気を遣わせてしまいましたね」
「あの、沢口からもよろしく伝えてほしいと」
「レミーさんですね」
「そうです。やりたくてやったことへの、やりたくてやったお返しとして受け取っていただければ」
「ありがとう。そうします」
あまり軒先で立ち話をするのも迷惑かと思い、さっさと立ち去ろうする。
「ケリー君、この後ご予定はありますか?」
「いえ、特には」
「この町は、もう見て回りましたか?」
「あんまり出歩いてないですね。職場と家の往復ばかりで」
「それなら丁度いい」
いっそう嬉しそうな笑顔を浮かべるジョージさんに、なんだか嫌な予感を抱く。
そして的中。
「ロッカちゃんに案内してもらいましょう」
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