時には映画のように

小町紗良

Midnight With The Stars And You

 俺はただ、映画が好きなだけなのに。


 ユニットバスの洗面台に手をつき、鏡を見やる。ハリウッド顔負けの大量の血糊……ではなく、赤ワインまみれのシャツを着たみすぼらしい男と目が合った。

 さっさとシャツのボタンを外し、シャワーを浴びるべきだなんてことは分かっているが、なんだか悲劇的な気分になってきて身体が動かない。芝居がかった笑いがこみ上げる。

 大きなため息をひとつ。

「……俺はただ、映画が好きなだけなのに」

 ブラックアウト。シーンチェンジ。



 遡ること数時間前。

 シネコンマネージャーの俺は遅番の仕事を終え、帰宅しようとしていた。

 最終上映終了時刻は、きまって日付を跨ぐ直前になる。事務処理をし、バイトスタッフの退勤を見送り、警備員とともにあちこち施錠して周り、運営母体として隣接しているショッピングモールに日報やら何やらを提出して、やっと退勤できる。


 早足で駅に向かえば、たいていは終電より一本か二本は早い電車に乗れる。しかし、ポップコーンでも食べすぎたのか、トイレに籠って出てこないおじさんの退館を待っていたら本当にギリギリになった。

 ショッピングモールの従業員通路を抜け、沿道を走る。あたりは錆びれた商店街、人の姿はない。六月の下旬、ぬるく湿った気温の中ですぐに全身が汗ばんだ。

 十字路に面した映画館の対岸には、クレヨン型の奇妙な灰色の塔が建っている。横断歩道を渡り、その塔の前で片方の靴紐が解けた。こんな時に限って。


 塔には映画館の入り口と向かい合うようにして、煙草屋の窓口がある。深夜なので、当たり前ながらシャッターが降りていた。用があった試しはないが、赤地の看板に白い字で「TOBACCO」とあるからには煙草屋で間違いない。

 窓口は妙に高いところに備え付けられており、そのためだろう、建物の付け根には半円形の台が設置されていた。

 そこに片足をかけ、靴紐を手早く結び直そうと屈んだ時である。

 背中に冷たい液体が降り注いできた。


 何が起きたか理解した一瞬のあと、冷たさそのものよりも驚きによって全身にぶわっと鳥肌が立つ。反射的に上半身を起こすと、水流が脳天に直撃した。口と鼻とじゃっかん目にも入った。むせた。

 赤ワインだ。髪や顔から滴るのもそのままに、水源を見あげる。最上階、とんがり屋根から張り出した出窓に、瓶を手にした髪の長い女のシルエットが見えた。


「あっうそ、ごめん! 不味いから捨てたの!」

 素っ頓狂な声だった。泥酔している。

 いちゃもんクレーマーに怒鳴られることが少なくない職に就いていることもあり、自分は人を怒鳴ることには無縁でありたいと思っているが、この時ばかりは我慢ならなかった。


「どうすんだよコレ、こんなんで電車乗れるか! うわっ、終電!」

 橙色の灯りを背にした女の姿は、暗闇に目が慣れるにつれてはっきりしてきた。ふわふわのロングヘアにフリフリの服を着た、俺と同年代ぐらいのやつだった。ぜったい頭悪い。

「ごめんなさあい 次から気を付けまあす!」

 ゾンビのように揺れ、しまりのない敬礼のポーズを取る。次って何だよ。


「ちくしょう」とか「クソ」とか口から出てくるのを抑えられないまま靴紐を直す。こんなことになるなら、着替えて出てくるんだった。常日頃、バックヤードの事務所ではオフィスカジュアルで過ごしているが、ピーク時に人手が足りず、フロアに出るために制服のシャツに着替えてそのままだった。


 私服のワイシャツは更衣室に置きっぱなしだ。施錠したので取りに戻れない。終電まで残り数分。女は相変わらず何かのたまっているが、酔っ払いに怒鳴り散らしたところでこれ以上どうにもならない。

「ちょっと待って」

 やけくそで駅まで走ろうとしたところで、一際甲高い声が響いた。

 走り去ってもよかったのに、なぜか足をとめてしまった。

「なんだよ」

 姉と口喧嘩になった時にしか出ないような声が出る。


「あなた、中丸シネマズの人?」

「そうだよ、だから何だよ」

 答えた途端、女は俺を指さしてげらげら笑いだした。挙句、こう吐き捨ててぴしゃりと窓を閉めた。

「いい気味!」


 ブラックアウト。シーンチェンジ。洗面台でワインまみれの俺。

 タイトルロゴがバーンって出るならココだろうか。むろん、そんな映画の主役はまっぴらだが。




「ホワイ、ソー、シリアス?」    

 翌朝、出勤するなり同僚のレミー……沢口玲美さわぐちれみにそう問われた。バットマンに対するジョーカーよりも、いくぶん訝しげな口調で。


「顔ひどいよ。ケリー、昨日通しだったじゃん。寝不足? 二日酔い?」

 エクセルをいじりながら菓子パンをかじっている彼女とは、大学時代に映画研究会なるサークルで出会った。

 レミーは当時『シャイニング』のあのシーンがでかでかとプリントされたTシャツに真っ赤な口紅、タイトスカートに網タイツでサークルに現れるイカした女の子だったが、今やナチュラルメイクでオフィスカジュアルだ。しかし、ベリーショートの髪で申し訳程度に隠された耳には、今でも無数のピアスホールが貫通している。インダストリアルとかいうやつ。


「それが昨日、向いの煙草屋で……」

 あの後、ワインまみれのまま駅まで走ったが、結局終電を逃した。あんな服でタクシーに乗るわけにもいかず……

「ふた駅分歩いて帰った。一時間はかかったかな」

 レミーと一緒に、周りの社員からも大仰なリアクションの声をあがる。

「道中、職質されなかったのは運が良かったよ」

「そりゃあ腹立つよ。お疲れ」

「ありがとう。話のネタになったからいいと思うことにする」

「ケリー君、それって」


 レミーの隣のデスクに着いた俺に、遠くの席から望月もちづき支配人が声をかけてきた。たぬきみたいな顔と体形をした、愛嬌のあるおじさんである。

「うちのシャツをダメにしたってこと?」

「あー、とりあえず朝イチでクリーニング屋に行って、一番いいお値段の染み抜きをお願いしてきて、領収書もらってきたんですけど」

「うん」

「労災……ってほどじゃない? と思うんですけど、会社からお金出ませんかね」

「本社の判断によるなあ」

「ですよねえ」と、苦笑するしかない。

 席を立ち、支配人に領収書を手渡す。彼はバーコード頭の上に両手を置き、ぼんやり宙を見つめ、呟く。

「そうか、あのお嬢さん、まだ……」

 タイムカードを押しに来た早番バイトたちの挨拶が、その呟きを掻き消した。




 左舷市・華汀さげんしかなぎさ

 俺がこの寂びれた港町に来た理由はごく単純、異動命令が下ったからである。

 大学時代の四年間バイトをしていた〈中丸なかまるシネマズ〉に正社員就職。初年度はマネージャー研修期間、正式な配属決定はその後。と、聞いてはいたものの、バイト時代から勤務し続けた首都圏の劇場に置いてくれるものと思い込んでいた。

 しかし、レミーともども告げられた配属先は、縁もゆかりもない華汀だった、というわけである。


 左舷市といえば、どこを歩いても洋風でオシャレで小奇麗な街並みでありつつ、再開発の進む埋めたて地もある、洗練された観光街……というイメージを全国の皆様はお持ちであろう。じっさい俺もそうだったが、その栄えある観光スポットにちょこんとくっついたシャッター街、それが華汀である。

 左舷なんて、小学生だか中学生の時に貸し切りバスの遠足で訪れたぐらいだし、バスの色がショッキングピンクだったこと以外はぼんやりとしか覚えていない。華汀に至っては、地名すら知らなかった。インターネットで検索をかければ、B級スポットや廃墟寸前の町をひやかすブログばかり出てくる。


 異動だって、率直に嫌だと思った。

 唖然とする俺に、上司は「本社が決めたことだから」と眉をハの字にするだけだった。やり慣れた職場を外されることはないと信じていたし、愛着のある劇場や地元から近いようで遠い、この距離感がもどかしくて堪らない。


 とはいえ、駄々をこねる余地もあるまい。曲がりなりにもシャカイジン二年目のオトナである。実家を離れ、華汀からすこし南下した住宅街でひとり暮らしをはじめることにした。

 最初こそ辟易したものの、自分でも意外なほど環境に順応できた。都会と比べ、あらゆる物事がそこそこ不便ではあったが、まあ許容範囲である。首都圏ほど電車が混まないし、大きなスーパーもあるし、無料Wi-Fiが飛んでるチェーンのカフェもあるし、何より自分が勤めるシネコンがある。

 そう、実に単純で明快なことに、映画と映画館さえあれば、俺はどこにいたって大丈夫……らしい。


 株式会社中丸シネマズの親会社、株式会社中丸ホールディングスは大型商業施設を全国にぼこぼこ建て、がっぽがっぽ儲けているマンモス企業だ。中丸シネマズは、系列のショッピングモールに複合する形で展開されている。

 十数年前、閑古鳥の巣窟と化していた華汀商店街の三分の一にあたる土地を中丸ホールディングスが買収し〈マリンモール華汀〉をオープン。模範的なショッピングモールでありつつ、左舷市の土産物を扱う物産店や、洋菓子から紳士靴まで、あらゆる地元発祥ブランドの店舗も見受けられる。

 観光客と地元住人双方の需要を見込み、華汀の町おこしに貢献していく商業施設です……と、異動初日に講習を受けたが「町おこし」に繋がっているのかは、周辺のシャッター通りを見ているとしょうじき疑問だ。新しい商業施設をつくるたび「中丸の領地が増えた」とネット上で揶揄されるのが常である。


 華汀駅から向かうと、マリンモールより先に映画館に突き当たる。十字路に面した台形の建物で、ちょうど交差点のところに正面入口がある。

 入口の両開き扉の上には、ローマ数字表記の文字盤をもつ巨大な時計が設置されている。その上方は装飾的な尖塔になっていて、建物全体の外壁はクリーム色、縦長のステンドグラスが等間隔に連なる。

 洋風な造りの中に和の雰囲気が滲んでいて、左舷市内に多く残る古い洋館を真似ているのだと思った。それを支配人に言うと、彼は笑いながら答えた。


「土地を買収する前、ここには名画座があったんだ。それをそっくり復元したんだよ」

 名画座の白黒写真は、写真立てに入れられ、事務所の従業員用冷蔵庫の上で埃をかぶっていた。ほら、と支配人に見せられ「ホントだ、同じだぁ」などと適当な感想を述べて以来、まじまじと見たことはない。


 ここでの仕事内容は異動前とほとんど一緒だし、他の従業員との関係も悪くない。自分でも意外なことに、この劇場と町を気に入りかけていた。華汀に流れる独特の空気に、肺が馴染んでしまったのだろうか……住めば都、とは言い得て妙である。

 まあ、せっかくそう思いはじめていた矢先……わけのわからない女にワインをぶっかけられたわけだが。


「やっぱり、俺はオフィス街派だなあ」

「オフィスビルから通行人めがけてワインをかける奴がいるかもよ」

「オフィスに酔っ払いはいないよ」

「『マジカル・ガール』って観た?」

「観てない。オフィスに酔っ払いが現れるの?」

「いや、違うんだけどさ、すごいヘンな映画で……」

 定時間際にレミーから飲みに誘われた。この辺りで「飲む」といえば、マリンモールの飲食店で夕食ついでに軽くひっかけるか、近くの中華街に繰り出すかというかんじだ。今日もそういう具合の「飲む」だと思ったのだが、違うらしい。

「この近くにね、気になるバーがあるの」

 口紅を塗り直し、レミーが言った。事務所のデスクに転がしてあるリップクリームとは、わけが違うかんじの赤色だ。

 そのバーは、あの煙草屋の脇を少し歩いた場所にあった。華汀駅に続く通勤路とは反対側の通りなので、馴染みがない。


 シャッターが降りて煤けた商店の連なる中、そこだけが洗練されているように見える。どっしりと構え、客を待ち構えていた。漆喰の壁に、板チョコレートのような扉がついている。かまぼこ型の窓の中には、やわらかい光に照らされるバーカウンターが見えた。

 看板には〈BAR J-16〉とある。

「ジェージューロク?」

「ジェーシックスティーンかも」

 いざ、板チョコを開く。


「いらっしゃいませ。お好きなお席へどうぞ」

 出迎えてくれたのは、ぱりっとした白シャツに黒いカマーベスト、蝶ネクタイをしめた、ロマンスグレーのおじ様だった。まさにマスターといった出で立ちで格好良い。


 店内はこぢんまりとしていて、カウンター席が七つあるだけだ。カウンター上には、期待通り無数のボトルがずらりと並べられている。

 そしてなにより、客席の背後の壁には、額縁に入れられた古い洋画のポスターがいくつか飾られていた。

 レミーも同じところに着眼し、すぐにはしゃぎはじめる。


「マジかヤバい、グッとくる」

「ここにあるの全部イイよ。気が合うなあ」

「えー、私コレ観たことない。アメリカンニューシネマってなんか馴染みが無くて」

「俺は『イージー・ライダー』より断然こっちのほうが好き」

「へえ、今度観てみようかな。このジャンルの統一感の無さがイイよね」

「わかる。『最後の聖戦』がいい味出してる」

「私なら、あえてクリスタルスカルを飾りたい」

 マスターが愉快そうに笑う。


「喜んで頂けて嬉しいです。おふたりとも、映画がお好きなんですね」

「好きです。ポスターはご自身で選ばれたんですか?」

 レミーがマスターのほうを振り返る。

「ええ、どれもこれも若い頃に収集したもので、本当はもっと持ってたんです。でも管理に困って、コレクターや博品館に譲ったりして……どうしても手放せなかったのが、そこにあるものです」

 彼の落ち着いた声音の中に、じんわりと慈しみが滲んでいるのがわかった。


「実はもうひとりスタッフがいて、お客様方と同じぐらいの歳なんですが、その子も映画が好きで。少々お待ち下さい、さっき出勤してきたばかりで……お客様来てるよお」

 マスターが奥の階段に向かって呼び掛けた。「はあい」という女子の声が響いてくる。突っ立ったままポスターで盛り上がっていたので、席に着こうとした時だった。

「いらっしゃいま……」

 降りてきた女と目が合った。昨晩は暗くて顔がよく見えなかったが、相手が俺を見る表情と、シックス・センスってやつが訴えかけてきた。


「レミー、例のやつだ」

「ジョージさん、昨日の人」

 俺と女は、ほぼ同時に声を上げた。


「えっ、ワインの?」

 レミーとマスターの声が重なり、全員の視線が交錯する。ものすごく名状しがたい沈黙が訪れた。控えめな音量ではあるが、店内にはメトロ・ゴールドウィン・メイヤー社のアホほど楽しげなミュージカルナンバーが流れている。


「場所を変えよう」

 モブキャラの雑魚チンピラみたいに罵詈雑言を吐き捨てることもできたが、堪えた。何せジョージさんが「Manners Maketh Man」《マナーが人を作る》などと言いだしてバトルが始まったら俺に勝算はない。踵を返すと、レミーも黙って後に続く。


「お待ち下さい」

 ジョージさんが俺たちを引き留める。

「彼女にワインを譲ったのは私です。まさか、そんなに悪酔いするとは……ご迷惑をおかけしました。大変申し訳ありません」

 彼はキングスマンではないようだが、とても紳士的である。


「いや、あなたのせいではないでしょう」

 例の女は腕を組み、明後日の方向を見ている。また腹が立ってきた。

「いいえ。お詫びと言ってはなんですが、どうぞ心ゆくまでお酒とお料理を召し上がっていってください。お代は頂きません」

「えっ、ホントですか?」

 目を輝かせて朗らかに言うレミーの腕を、思わず小突く。


「ジョージさん、そんなことする必要ないでしょ? あの会社の人間に、ウチのお酒の一滴も飲ませたくない」

「すでに昨日、一滴どころじゃない量をご馳走されたからな」

 ふき出すのを耐えたレミーの口から変な音がした。ワイン女はディズニー長編アニメのヴィランズの如く、わかりやすく憎悪に満ちた目で俺を睨んでくる。

 そんな女の肩に手を置き、ジョージさんは困り顔で微笑んだ。

「この通り、一言も謝罪の言葉を口にしないでしょう。彼女は全く反省していません。はっきり申し上げて、今後もしません。ずっとぶすったれてます」

「ちょっと」

 女は顔を真っ赤にし、ジョージさんを見やる。


「そんな態度も含めて、すべて私の不行き届きです。さあ、お掛けください。チャームをご用意しましょう。お飲み物は?」

「やったあ、私モヒートで。ケリーは?」

 そそくさと席に着いたレミーとジョージさんが、満面の笑みを俺に向けている。女は今一度俺をぎろりと睨み、諦めたように大袈裟なため息をついた。


「……で? 弊社が貴女に何か失礼を致しましたか? ウチの小原おばらが中丸シネマズ社員だと分った途端に暴言を吐いたとお伺いしておりますが」

 この空気のままじゃ酒が不味いとばかりに、あっけらかんとした調子でレミーが問う。女はピクルスの小皿を無言で俺たちの前に置き、一番奥の席に腰をおろすとそっぽを向いた。


「彼女は昔、御社といろいろあって」

 なにも悪くないジョージさんが、相変わらず困ったような笑顔で代弁しようとする。その柔らかい声を遮り、責め立てる調子で女が言った。

「あなたたちの職場、中丸シネマズになる前は何があったか知らないの?」

「ああ、冷蔵庫のアレじゃん?」

 マドラーでミントの葉をつつきながらレミーが言うと、女は「はあ?」と反抗期の女子高生みたいな声を出す。マナーが人をつくるってのは至言だ。

「事務所の冷蔵庫の上に写真があるんだよ。名画座だったんだろ」

 ソルティドッグに口を付けつつ答える。女は機嫌が悪そうに爪をいじっている。


「私のおばあちゃんが社長兼支配人だったの。中丸シネマズがオープンする前に死んだの」

 俺とレミーは顔を見合わせた。からん、とグラスの中で氷が傾く。

「なるほどね。なんとなく、なんとなーく、わかった」


 レミーは納得したらしく、もうどうでもいいという様子だった。俺は虫の居所が悪いままだったが、酒と一緒に溜飲を下げるように努めた。

 それから俺たちはジョージさんを交え、最近観た映画の話をした。女は無愛想につまみや取り皿を運んでは、手持無沙汰になると奥のカウンター席に腕を組んで座り、宙を睨んだ。


 ジョージさんの行きつけの映画館は、左舷駅の近くにある競合他社のシネコンだそうだ。あの辺りには数軒あるが、それぞれ上手いことやっているようである。

「ポイントカードのゴールド会員になってしまったので、どうせ行くならってかんじでそこになりますね」

「今度ウチにも来てくださいよお、私もケリーもヒラヒラの平社員だから何もサービスできませんけど」

 ほろ酔い気味だった。味噌漬けクリームチーズを気に入ってしまい、そればかりつついている。

「いやあ、近くていいなあとは思うんですけど、私もキネマ華汀……かつての名画座のファンでして。馨さんに顔が立たないと思うと、どうも足が向かなくて」

「カオルさん?」

「ロッカちゃんの御祖母さんです」

 ジョージさんは苦笑いを浮かべつつ、視線で女を指す。彼女は澄ましたふうに顎を持ち上げる。どうしても来てほしいわけでもないので、社交辞令として流してくれれて構わなかった。


「それにしてもお二人とも、ずいぶん古い映画もお好きなんですね」

 ジョージさんにばかり気をつかわせている気がする。変な空気のすべての原因はロッカとかいう女のせいだが、どうしようもないので放っておく。

「私達は何でも観るよねえ。大学ん時の映研はみんなで月に一、二回、シネコン行って、安い居酒屋で飲み会する程度だったんですけど、何人かのガチっぽいメンバーは大学の空き部屋に集まって、壁をスクリーンにしてプロジェクターでDVD観たりして」


 レミーに相槌を打つ。何杯目かのグラスを傾け、ほどよくぐにゃぐにゃしてきた頭の中に浮かんだイメージを、そのまま口にする。

「そう。『ニュー・シネマ・パラダイス』みたいに壁に映して……あの投影がスクリーンから民家の壁にスライドしていくシーンを観ると、毎回泣いちゃうんですよ……映研で観た時も俺が真っ先に泣きはじめて……はやすぎるぞって茶化してくるやつも数分後には号泣しはじめて」

 ふと、隅の席でそっぽを向き続けていた女が、こちらを見ているのに気づいた。


 警戒しながらも好奇心を持ったものをじっと観察する、猫のような円い瞳だった。かなり酔っているらしいレミーが、俺の背中をばしばし叩きながらオタクじみためんどくさいことをべらべら喋り出しても、女は俺だけを見ているような気がした。


 敵意とはまた違う、強烈な質量の感情を向けられ、妙な心地になる。わざと訝しげな表情をつくって視線を返すと、女はあさっての方向をむく。

 背後に飾られたポスターの中では、自転車に乗った男と少年が微笑みを浮かべていた。


 無銭飲食をし、映画の話で盛り上がり、気持ちよく酔っぱらった俺とレミーはとんちんかんなテンションになり、ジョージさんとなぜか熱烈なハグを交わして店を後にした。

 レミーと別れ、なんとなしに例の煙草屋の前で立ち止まり、自分の職場を改めて眺めてみる。

 

 暗闇の中で光を放ち、堂々とした居ずまいの巨大なシネコン。その姿を、古ぼけ色褪せ、埃を被った古写真の名画座と重ねようと試みるも、ほとんど上手くいかなかった。





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