終末世界

『紅き箱庭』と呼ばれる世界

第2話 戦場の中に佇む家

 にゅる……と触手を蠢かせながら、それは肉の髭に隠れた口を開く。


「……まだいたか……アナクトの生き残りが……」


 おおよそ人の言葉など話しそうにない見てくれの存在から発せられたとは思えない言葉だ。

 だが確かに、目の前のそれははっきりとそう言った。

「アナクトの兵士は、残らず、潰す……そこの兵士共のように、再生などできぬよう、微塵にしてやろう……」

 ……アナクト?

 聞き慣れない単語に、ニコルの片眉が跳ねる。

 しかし、次の瞬間その表情は恐怖に引き攣った。

 相手が、腕の触手をニコルめがけて叩きつけてきたのだ!

「ひぃっ!」

 ニコルは咄嗟にその場を跳んで離れた。

 今し方ニコルが立っていた位置を、触手がばちんと叩く。触手と地面との間に挟まった水泡がぶちゅっと潰れて、中からどろりとした膿のようなものが流れ出てきた。

 生臭い、嫌な臭いがした。腐った魚介の臭いのような──吐き気を催すような悪臭に、ニコルの表情が思わず歪む。

 続けて鞭のように振るわれる触手。破れた水泡から流れ出る膿が雫となって飛び散り、ニコルの白衣の裾に付着する。

 その部分が、じゅっと音を立てて蒸発する。一瞬でそこに穴が空いたのを見て、彼は戦慄した。

 これは……酸!?

 硫酸なんかとは比較にならないほどの溶解力だった。直接体に浴びたら、肉など簡単に溶けてしまうであろう。

 もしもあの触手で殴られて、あの液体を被ったら──

 生きたまま溶かされていく自分の姿を想像してしまい、彼は身震いした。

「うわああああ!」

 悲鳴を上げて、全速力でその場から逃げ出す。

 後方で例の触手人間が何かを言っているが、構うことなく、相手の視界内から姿を消すつもりでとにかく走った。

 何だ、あれは! 宇宙人!? 怪物!? とにかくあれは、関わっちゃいけないものだ!

 混乱しながらも、走る。とにかく走る。何処へ向かっているかも分からないまま、だだっ広い荒地をひたすら駆け抜ける。

 途中で、転がっている機械や人間の残骸のようなものを幾つも見かけた。五体満足なものはなく、どれもが完膚なきまでに壊されており、原型などもはや分からない状態だ。

 武器も落ちていた。一般的にガトリング砲と呼ばれる重機関銃である。傍に持ち主の姿はなく、未使用と思われる弾薬が辺りに散乱している──使えそうではあったが、そもそも重機関銃は一人で携行できるような代物ではないため、ニコルにとっては身を守る武器にはならなそうだった。

 怪物……兵士……武器。一体何なんだ、此処は。戦争でもしてるっていうのか? テロや人種差別が根絶された、この時代に!?

 ばぁんっ!

 行く手で突如爆発が起きて、ニコルは足を止めた。

 砂埃が舞い上がり、辺りが白くなっている。その中に、人が立っている様子が見える。

 ──いや。あれは、人なのか?

 ニコルは我が目を疑った。

 彼の視界に映っているのは、二人。一方は黒い軍服を着た男で、もう一方が宣教師のような格好をした男である。これだけ述べると普通の人間のように思えるだろうが、軍服の男は腰から下が人の足ではなくジープの車輪のようなごついタイヤを三つも備えた車になっており、肩に大砲のような巨大な筒を担いでいる。宣教師の男はそもそも人の形すらしていなかった。背中から生えた六本の腕に備わった鎌のような鉤爪に、緑色の甲殻に覆われた顔、頭から角のように飛び出た二本の触角。その姿は、例えるならばバッタ人間とでも呼ぶべきか。顔や腕に人間としての特徴が中途半端に残っているせいで余計に不気味な代物に見えた。

 ニコルの目の前で、その人物たちは撃ち合いを始めた。軍服の男は肩の大砲から弾を撃ち出し、宣教師の男は体の前に翳した六本腕の掌からビームのようなものを撃ち出して──同時に、互いの攻撃が命中する。軍服の男も宣教師の男も全身を数多の肉片に変えて、その場にびちゃっと飛び散った。

 当たり前のように、人が人を殺している。いや、そもそもまともに人間の姿をしていない彼らは一体何なんだ? 僕は、異世界に紛れ込んだとでもいうのか? 此処は、僕が知っている世界と違う……でも、ありえない。そんな非科学的なものが存在しているなんて、何かの冗談に決まってる!

 データの殆どをパソコンなどのコンピューターで管理している現代では大分廃れてしまったが、昔、紙媒体の書籍が娯楽品のひとつとして普通に街で売られていた時代には、空想小説というものが人々の間ではそれなりに読まれ、愛されていた。その中に、異世界という自分が住んでいる世界とは異なる世界についてが描かれた話や、魔法という御伽噺の中にしか存在しないような能力を自由に操る人間が登場する話などがあったことをニコルは記憶していた。

 所詮は作り話の中にしか存在し得ないものだと思っていた。科学が発達したこの文明社会において、そのような存在はナンセンスだとさえ思っていた。

 だから、今、自分が目撃しているものが何なのかが理解できずにいる。

 現実なのか夢なのかも曖昧な、悪夢の塊のようなこの世界に自分が立っているという現状を受け入れることを、長年の研究生活ですっかり凝り固まってしまった頭は完全に拒否してしまっていた。

 たたたん、たたん……と遠くで銃声らしき音が響いている。

 ニコルはびくっと身を跳ねさせて、走りを再開させた。

 この場所の正体が何であれ、少なくとも此処が戦場になっていることだけは紛れもない事実だ。万が一戦闘に巻き込まれたら、身を守る武器を何ひとつ持っていない身ではあっという間に殺されてしまうだろう。

 こんな訳の分からない場所で、何も分からないまま死んでたまるか!

 何処か、戦火のない、安全な場所へ──それだけを求めて、彼は荒地を懸命に駆け続けた。


 どれくらい走り続けただろう。

 体力が限界に近付き、そろそろ動けなくなる……と全身で息をしたニコルが発見したのは、焦げ茶色の柵に囲まれた一軒の家だった。

 そこそこの広さを持つ庭があり、畑だろうか、野菜と思わしき作物が植えられている。立派な枝葉を茂らせた樹木が何本も生えており、地面には草が茂り、小さな花を咲かせている。荒廃した土地の中に存在しているとは思えないほどに植物に恵まれた、瑞々しい土地だった。

 畑の向こうに建っている家は、一階構造のようだが、かなりの大きさがあった。ベージュ色の煉瓦で造られた壁に、焦げ茶色の屋根。かなりクラシカルな雰囲気が漂う建物である。

 正面玄関がある箇所だけがガラス張りになっており、中の様子が見えるようになっている。距離があるためニコルの視力では建物の中までは見えなかったが、その部分だけは普通の家と違った造りをしているように感じられた。

 こんな場所に、住んでる人がいる……?

 柵の一部が途切れており、そこから中に入ることができるようになっている。柵の両脇に門番のように黒塗りのランプが設置されており、そのうちの一方に、黒く塗装された金属の看板が吊り下げられていた。

 機械で彫ったのかと思えるほどに精密で美しい書体で、そこにはこう刻まれていた。


『万工房』


 店……?

 こんなまっとうな客がいなさそうな場所で、商売になっているのだろうか。

 ニコルは小首を傾げたが、此処には間違いなく誰かが住んでいるという確信を抱いた。

 客商売をしている人間ならば、少なくとも対話はできるはず。最後の可能性に賭けて、此処の人間に話を聞いてみよう。

 此処は何処なのか。外で戦争をしているあの怪物のような姿の生き物は何なのか。それを、知りたい。

 ニコルは意を決して庭へと足を踏み入れた。

 様々な形をした赤茶色のタイルが敷き詰められた道を、まっすぐに進んでいく。

 ほんのりと香る草の匂いが心地良い。そよそよと吹いている風も、外の風とは違って適度に湿気を含んでおり柔らかさを感じる。

 きっと、土が生きているから、風も違うんだろうな。

 そのような感想を抱きながら畑の横を通り過ぎようとした、その時。


「あ、いらっしゃい。これはまた随分と小さくて可愛らしいお客さんっスね」


 畑の中からひょっこりと顔を出す、一人の青年。

 随分とフレンドリーに話しかけられて、ニコルは思わずその場に立ち止まり、青年に向かって小さく会釈をしたのだった。

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