第10話
その日、僕の病室に初めて来訪者が訪れた。
見知らぬその女性は母と同じくらいの年齢に思えた。母と入り口で話を始めたその人は僕の視線に気づくと丁寧に会釈をしてくれた。僕もそれに応える。
しばらくすると母は泣き出してしまった。母は嗚咽混じりに何かを言っていた。背中をさすり母を落ち着けた女性は再び僕に会釈して母と1度病室を出た。
僕が一人で取り残されて10分くらいが経過した頃、柔らかなノックの音が室内に響いた。どうぞと答えると、再びあの女性が今度は一人で戻ってきた。
僕の近くまでゆっくりとした足取りで近づいてきた。姿勢が良くて、背が高い。肩まで伸びた黒髪は艶々としている。とても綺麗な人だった。
「はじめまして。石塚恵の母です」
「はじめまして。佐々木健です。あの、すみません。誰だかわからないのですが、僕になんの用でしょうか?」
僕は必死に考えた。母の知り合いではなく、この女性は僕に会いに来たようだ。あまりクラスメイトのことは覚えていないが、恐らく石塚恵さんという知り合いは僕にはいないはずだ。もしかしたら、単純に僕が忘れてしまっている可能性も捨てきれない。素直に謝り、教えてもらうことにした。
「今日は貴方に渡したいものがあって貴方に会いに来たの。これ、読んでもらえるかしら」
渡されたかわいい封筒には見慣れた文字が並ぶ。
【悲劇の主人公君へ】という文字が僕の固く閉じていたはずの涙腺を緩めた。
中身を読むこともできず、僕は封筒を握りしめ静かに泣いた。
「す、すみません。中を見ても良いでしょうか?」
数分後、やっとの思いで言葉を発した。
「読んであげて。貴方のためにあの子が書いたのよ」
僕は封筒を開けて、便箋に並ぶ彼女の言葉をゆっくりと丁寧に拾い上げていった。
病室には温かな沈黙が広がる。
悲劇の主人公君へ
お久しぶりです。お元気ですか? まぁ元気じゃないのは知ってるけどね。
返事書けなくてごめんなさい。
私は今、他の病院に移ってるの。ちょっとそこじゃできない検査と治療が必要でさ。言えなくてごめんね。
転院の日に貴方からの返事を読んだの。
貴方が悲しいと思ってくれたこと、とても嬉しかった。私も貴方が余命宣告をされていることを知って、とても悲しかったから。
直ぐに返事を書きたかったけど時間がなくて返事が書けなかったの。ごめんね。
それから治療が落ち着いて、もしかしたら、貴方がまた何か私に書いてくれてるかもしれないと期待したの。私は今、辛いことばかりだから、いつも貴方のことを考えてるわ。
恥ずかしかったけどお母さんにメモを確認してもらったの。勝手なことしてごめんなさい。でもね、確認せずにはいられなかったんだ。そんでね、やっぱり確認してもらって良かったよ。
貴方の言葉が本当に嬉しかった。私も貴方に会いたいってずっと思ってたの!
貴方が私のことをそんな風に感じてくれていたことを知らなかった。ずっと待たせて本当にごめんなさい。文句の1つや2つくらいは聞くから許してね。3つ目は聞かないかも!
あと2週間もしないうちに私は戻ってくるよ!
そしたらいっぱい話そうね! 君が知りたいなら私のことを教えてやらなくもない! 君のことはたくさん教えてね!
楽しみにしてるよ!
様々な君の感情が伝わってきた。
だけど、すごく心配になった。
病院を移ってまで検査や治療をするということは、君にとってそれだけ重要なことだったのだろう。
また心がざわついた。
文面から伝わるものよりも、その影に潜む部分が気になって仕方なかった。
僕は名探偵でも推理小説の主人公でもないけれど、ハッキリとわかる。
君は強がっている。
君が【死】を意識していたことからも僕の想像は大きく外れてはいないだろう。
だけど、それを指摘したところで誰も得をしないことは明白だ。僕は導きだした答えをそっと胸の内に隠した。
なにより僕は安堵した。
嬉しくて嬉しくてたまらなかった。
君はまだ生きている。
君に会える。
その事実を知ると、君に伝えたいことで頭が飽和していく。
「あの! 返事を書きたいのですが、直ぐに書くので少しだけ待ってもらうことはできませんか?」
なにより早く伝えたかった。それがなにかはまだまとまっていないけど。
「大丈夫よ。ゆっくりでいいから。たくさん書いてあげて」
そう言って石塚恵さんのお母さんは僕の手を優しく両手で包んだ。優しさというものがなにかを僕に教えるように温かな手が僕を癒す。
「ありがとう。あの子を救ってくれて」
救うとはどういうことかと聞こうとして、僕は言葉を失った。彼女の目から溢れるものがシーツに水玉模様を描いた。母以外に女性が号泣するところを始めてみたかもしれない。
「ありがとう。本当にありがとう」
震える声が再び僕に感謝を告げる。
僕はなにも言えず、それでもなにか応えようと包んでくれた手に僕は手を添えて、少しだけ力を込めた。
「泣かないでください。目が腫れるとバレちゃいますよ。僕達って意外とそういうところ見てるし気にするんですよ」
僕は下手くそな笑顔を作った。
他人と関わりを持とうとしなかった僕は必要以上の会話をしない。だけど、今日の僕は違った。目の前の女性に笑ってほしいとまで思っていた。だから会話を続けることを選んだ。
「僕はお母さんに、僕が死ぬ日までは笑ってて欲しいと思うんです。どうせその日が来ればたぶん泣いちゃうんで。きっと、彼女も同じことを考えてるんじゃないかと思います。僕たちはなんとなく似ている気がするんですよね。優しいお母さんを持ってるとことかそっくりだし」
ちょっと臭かったかなと思い、わざとらしく笑ってごまかした。
「そうね。貴方たちは二人とも、優しいところがすごく似ているわ。泣いてばかりでごめんなさいね。辛いのは貴方たちなのに」
辛いのは僕たちだけでないことを僕はもう知っている。
「辛いのは僕たちだけじゃないですよね。いつも、ありがとうございます」
僕は笑顔で答えてペンを取った。
溢れる感情をそのまますべて言語化できたなら……
言葉にすると安っぽく感じる。僕は自分の気持ちをどう表現すれば良いかわからなかった。
それでもなんとかまとめた数枚の手紙を彼女に託した。
その夜、僕は一睡も出来なかった。
彼女がこの世界に【まだ】生きている喜びを、一晩中噛み締めていた。
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