平成最後の涼を
鮎
夏の呪文 ――鮎
――ゴケッコンオメデトウゴザイマス。
何かの呪文みたいなそれを、何度も口の中で呟く。
声に出して言わないのは目的地にまだついていないからでもあったし、口を開いたらみっともないくらい大きな声で泣き出してしまいそうだからでもあった。
――ゴケッコン。オメデトウ。ゴザイマス。
これっぽっちもおめでたくなんかない。むしろおつかれさまですとか、ざんねんでしたとか、ごしゅうしょうさまとか、そんなほうが今の気持ちに合っている。
だけどお母さんに言えって散々言われたから。大きな紙袋に入ったお祝いも持たされて、ちゃんとお礼を言うのよって何度も何度も言われたから、だからしかたなく会いに行くのだ。
――ゴケッコンオメデトウゴザイマス。
言える。もう高校一年生だし。子供じゃないし。だから言える。言う、言おう――と、思っていたのに。
「あら、ゆかちゃん。久しぶり」
優しい笑顔を見た瞬間、呪文はどこかへ飛んで行ってしまって、喉からは全く別の言葉が飛び出した。
「かき氷、ください」
初めてカナちゃんに会った時、カナちゃんは大学二年生で私は小学五年生だった。
私の暮らす田舎町では建物と建物がくっついているということがまずない。国道沿いに突然ジャスコが現れ、だだっ広い畑を挟んで駐車場だけが広いコンビニが現れたりする。その向こうにあるラーメン屋とか、一軒だけある携帯ショップとかも同じ。たぶんこの地域の住民はみんな同じ携帯会社だ。
当然国道から外れたらもっと店はなくなり、閑散とした街並みが広がる。居酒屋一軒、田んぼ、田んぼ、田んぼ、たまに畑、酒屋一軒、そんな道ばかり。案の定カナちゃんのいる喫茶店も、四方を田んぼに囲まれたクリーニング屋から200メートルほど歩いた向こう側にある。
喫茶店の店先にはオレンジ色の看板がさげてあって、白い窓枠からレースのカーテンが覗く。このお店は、ほんとうはカナちゃんのおばあちゃんのお店だ。カナちゃん自身はもっと都会に住んでいるのだけど、夏の暑い間だけこの街で暮らす。
カナちゃんのおばあちゃんが夏に熱中症で倒れたことがきっかけで、大学がお休みの八月と九月だけ、このお店で働くようになったそうだ。
だから大学を卒業したらもう会えなくなるのだろうと思っていた。けれど写真家になったカナちゃんは卒業後も夏になると店を開けに来たし、二年前のカナちゃんのおばあちゃんが亡くなった年も、八月になれば喫茶店のドアは開いた。年々お店の開く期間は減っていき、最近はお盆の時期だけの限定オープンになっていたけれど。
それも、もうおしまいだ。
――ゴケッコンオメデトウゴザイマス。ゴケッコン――、ご結婚。
カナちゃんは今年の秋、結婚する。そうしたらもう、店は完全に閉じてしまうらしい。
「お待たせ」
この喫茶店の一番人気はかき氷だ。苺とかブルーハワイとかあんな着色料まみれのやつじゃなくて、梅シロップとかしょうがシロップとか、カナちゃんが毎年手作りをするのだという自然の色をした何かがかけられる。自然食の雑誌に取り上げられたこともあるらしい。
常連の私は味を指定しない。「かき氷ください」だけを言う。するとカナちゃんは勝手におすすめのシロップをかけてくれる。
今日は梅の日だったらしい。ガラスの器には山盛りの氷と、砂糖漬けにされた梅の実が二つのせられた。それを見てこわばっていた顔がふと緩んだけれど、器を運んできた指先に光る金色を見て、また唇を一文字に結ぶ。
不思議だった。
死という別れを経験しても閉まることのなかったお店が、結婚という出会いをきっかけに閉まろうとしている。嬉しい変化が悲しい変化を運んでくる。寄せては返す波のように。
「ゆかちゃん、すごくお姉さんになったね。今何歳?」
「十六……」
「十六歳!誕生日、いつだっけ」
「五月」
「そっか。葉桜の綺麗な時期だね」
カナちゃんがするりと手を組みなおした。
「なんでも、変わってゆくものね」
――変わってゆく。昔からの、カナちゃんの口癖だ。
電気のつかない店内は、日の光だけがうっすらと差し込んでいる。ランチタイムは繁盛するらしいこのお店も、三時から四時過ぎと言う小学生の下校時間にはほとんど人がいなくなる。だから私はいつもその時間帯を狙ってカナちゃんに会いに来たし、カナちゃんもそれをわかっているようだった。
二人きりの店内。テーブル一つ分の距離。この距離がずっと、大事だった。
変わってゆく。すべてのものは変化してゆく。わかっていても現実を受け止められない。結婚したってお店に来てほしかった。知らない男にカナちゃんとの時間を奪われてしまうのが、悔しくて、腹立たしくて。
小学生の時、一年間一生懸命ためたお小遣いはカナちゃんに会いに来るためのかき氷代に半分消えた。高校生になった今は少し余裕があるけれど、ひとりで喫茶店に入ってかき氷を食べることは私にとってせいいっぱいの背伸び。そうまでして会いに来るのは、カナちゃんとの時間に私がずっと救われていたからだ。
「食べないの?」
カナちゃんが問う。それに返事をしようとして、その前にあの呪文を言わなければと気がつく。気がついた途端に喉がぐっと塞がった。
「カナ、ちゃん」
声が震えた。言葉が口に馴染んでいないせいだ。ずっと同じ言葉を繰り返してきたくせに、まだ私はその一言を胸の内で噛み砕けていない。それでも強引に話そうとしたら、また予定外の言葉が転がり落ちた。
「五年前どうして私の手を引いたの」
五年前の、夏。
カナちゃんはすっと目を細めて、自分の前に置いたグラスに入った氷水を煽った。そしてふっとこうつぶやく。
「どうしてだろう。泣いているのが羨ましかったのかな」
泣いているのが羨ましい――、とはどんな感覚なんだろう。
小学五年生の春。両親が離婚した。
母の実家があるこの街に戻ってきた時、片親、出戻り、そんな情報は田舎のコミュニティの中ではすぐに広まってしまうのだと知った。
祖父母の農作業を手伝いながら道の駅が併設されたサービスエリアで働き始めた母は、生きるのに必死に見えた。あの時、彼女は確かに私の母ではなく、一人の女であり、親に甘えるこどもだった。
親がこどもになってしまったら、そのこどもの私はどこに行けばいいのだろう。
言えなかった。
小さな学校ではもう人間関係が出来上がっていて、友達ができないこと。家庭の事情が知れ渡ってひそひそ噂話をされていること。夏休みのプール開きでクラスの女の子に足を引っ張られて水をたくさん飲んでしまったこと。集団下校の帰り道、いつのまにか私だけ集団からはぐれていること。
こどもにこどもの相談なんか、できるわけがなかった。
小学校のプールから帰りながら、私は泣いていた。蝉の声があんまりにも騒がしかったから泣いても気がつかれないような気がして、でも泣き始めたら止まらなくなって、手のひらでぐいぐい涙をぬぐう。
ぬぐう、こぼれる、ぬぐう、こぼれる、ぬぐう、ぬぐう、ぬぐう――、その手を、掴まれた。見上げた視界に若い女の人が映りこむ。
黄色のサマーカーディガンがひまわりみたいに青空によく映えていた。
彼女は何も言わないで私の手を引いて、喫茶店に私を連れこむと、カウンター席に案内してキッチンに引っ込んだ。
怖くはなかった。ただ、驚きで涙が止まった。ぼんやりとそこに座っていると、梅ののったかき氷が出てくる。それを食べ終わるころ、彼女はようやく口を開いた。
「大丈夫よ、すべてのものは変わってゆくから」
それが私とカナちゃんの始まりだ。
あれからカナちゃんに会いに行く度、いろんな話をした。そのたびにカナちゃんは言った。
――すべてのものは、変わってゆく。
それはいいことはずっと続かないということで、悪いことも続かないということで。小学校が苦しくても卒業すれば新たなコミュニティになるということで、母との関係も徐々に対等になっていくということで。
カナちゃんの「変わってゆく」は、冷たくて柔らかい、ただただ現実を知らせる励ましだった。
「今思えば怪しい女だよね」
カナちゃんが笑う。
「家に帰った後、知らないお姉さんのお店でかき氷食べてきたって言ったらお母さんの顔色変わった」
「私もあの時それは誘拐だぞって散々おばあちゃんに叱られたな」
あの後、母に手を引かれてすぐにかき氷のお金を払いに行ったことは記憶に新しい。カナちゃんは頑として受け取らなかったけれど、あれ以来お金を払わずにお店に入ったことは一度もなかった。母にひどく叱られたからではなく、あれだけ大きなかき氷をただで食べさせてもらうことの罪悪感や、カナちゃんがおばあちゃんから預かっているお店なのだから、売り上げが悪かったらカナちゃんがお店を任せてもらえなくなるかもしれないという不安のせいだ。カナちゃん自身は全くそんなこと、気にしていないみたいだったけれど。
そんなことを懐かしく思い出していたら、カナちゃんが「羨ましいっていうのはね」と最初の話題に話を戻す。そして昨日の天気でも思い出すみたいに、なんでもないことみたいに、こう言った。
「私の両親も離婚しているの」
驚いた。思わずかき氷を食べる手を止める。
思えば今まで散々自分のことは話してきたくせに、カナちゃんの話を聞くのは初めてだった。白い手が空っぽになったグラスを揺らして、氷がカランコロンと鳴る。それが風鈴の音みたいで、妙に爽やかだった。
「最近よくあるじゃない、晩年離婚。それぞれの人生を生きたくなりましたって、父親はアフリカへ行っちゃった。私が大学一年生の夏よ」
「アフリカ」
「父も写真家なの。今はジャマイカにいるのかな。先月葉書が来たわ」
スケールが大きすぎる。ぽかんと口を開けた私に、カナちゃんはふっと苦笑を漏らした。
「勝手だって思った。今になって別れるなんてそれならどうして結婚したのってすごく不安定になってね。その時ちょうど私も国立の芸大に入ったばかりで、周囲との差に怯えていたころだったから、なおさら。自分の将来もわからない。家に居場所もない。ひとりぼっちになったみたいに思えて、苦しくて、それでこの街に逃げてきたの」
話を聞きながら、私は自分の中の『カナちゃん』と目の前にいる女性が少しずつずれていくのを感じていた。
私は――、私は今までこの人を何だと思っていたんだろう。
「そうしたらおばあちゃん、熱中症で倒れちゃって。お店を預かることになって。そんな時に、ゆかちゃんがあの青田道で泣いていたから」
そうだ。あの時私はこの世の不幸を一身に背負ったような顔をして泣きじゃくっていた。あの日、私は黄色のサマーカーディガンばかりに目を盗られていたけれど、あの時彼女はどんな顔をしていたのか。
「あのゆかちゃんを見た瞬間、私、大学に入ってから一度も泣いていなかったことに気がついた。気が付いたら手を握っていた」
あの時、カナちゃん――君原加奈子という女性は、泣きそうな顔でこちらを見ていた。
「あの時私が助けたかったのは、きっと、ゆかちゃんじゃなくて私なの」
ごめんねと。か細い声があの日の風みたいに右から左へ駆け抜けてゆく。
私はずっと、彼女を神様かヒーローか、夏にだけ現れる違う次元の存在として見ていた。いつも私の話を笑って聞いてくれた。誰にも話せない小学校での悩みも、中学校での好きな人の話も、進路の不安も、お母さんとの関係も、否定も肯定もせずにカナちゃんは聞いてくれた。そしていつも、まるで大丈夫だよっていうみたいにこう言った。
――変わってゆくから。
その言葉があんまりにも頼もしかったから。彼女はずっと幸せに生きてきて、苦しみや悲しみなんて知らない人なんだろうなんて勝手に決めつけていた。
カナちゃんが結婚をするのが許せなかった。私の前からいなくなることがいやだった。ずっと怒って、寂しくて、見たこともない男に嫉妬して。
私の「カナちゃん」じゃない。彼女には彼女の「君原加奈子」という人生がある。そんな当たり前のことにどうして拗ねたりできたのだろう。
「……ゆかちゃんは、声を出さずに泣くね。いつも。初めて出会った夏の日も、好きな人に振られた日も、進路に悩んでいた日も」
氷を揺らして遊んでいた手が、私の目元をすっとぬぐう。冷たい。だけどきっと私の手も同じくらい冷たいはずだ。かき氷が溶ける。ほとんど水みたい。フローズンみたいになったそれを早く食べきらなければ思いながらも、手は動かない、ままで。
「大丈夫よ、すべてのものは変わってゆくから」
――その口癖を、今、言うのね。
「かき氷って、ほっといたら溶けちゃうでしょう」
涙をぬぐった指先が銀スプーンを持ち、氷水をすくう。それを私の目の高さまで持ち上げて、彼女はこう尋ねた。
「これ、凍らしたら元に戻る?」
首を振る。戻らない。たぶん踏み固めた雪みたいになって、あの柔らかい何かにはもう戻らない。カナちゃんは正解を導き出した生徒をほめるように、もう片方の手で私の頭を撫でた。
「そういうことよ。変わってゆくのよ。人の心も、身体も、環境も。いいことは続かないし、悪いことも続かない。私は結婚するけれど、結婚した次の日に別れたくなるかもしれない。閉めてしまったこの店が、懐かしくなるかもしれない。それでも――それでも」
カナちゃんの唇が、震えた。
「変わってゆくことを受け止めて生きてゆくの」
じわりとカナちゃんの顔が滲む。
「ゆかちゃん。いろんな変化がきっとあなたを苦しめる。溶けてしまって、ただの水になったかき氷を捨てるような、そんな出来事がたくさんある。それでもあなたはまた氷を削って、かき氷を作って、氷のうちにそれを食べきれるように。そうやって生きてゆくの。私はもうこの街からいなくなるけれど。そんな風に変わってゆくあなたに今度は笑顔で出会いたい」
噛み砕けなかった言葉が、がりりと胸の奥で砕けて散らばる音がした。
変化に苦しんできた彼女が、心は変わると知りながら、それでも共にいたいと思える人とこの街を去ってゆく。それはきっと、とてつもなく幸せなことなのだ。
今、ひどく凪いだ心で素直にそう思えた。
「カナちゃん。結婚、おめでとう」
練習してきた言葉とは違ったけれど、それは呪文ではなくちゃんと私の言葉として唇から飛び立った。
「どうか、幸せで」
カナちゃんが笑う。私の大好きな顔で笑う。
溶けたかき氷をのむ間、カナちゃんは旦那さんの話をしてくれた。日本語教師の旦那さんとカナちゃんは、これからカナダで暮らすらしい。海外だ、喫茶店をやりに夏だけ戻ってくるなんてできるわけがない。カナダにジャマイカに日本だなんてグローバルな家族になっちゃったと笑いながら、彼女は英語でエアメールを送る約束をしてくれた。
私も少し、苦手な英語を頑張ってみようかな。英語で返事が来たらきっとカナちゃんは驚くだろう。
それはきっと、素敵な変化だ。
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