案の定、桐乃が思った通り、心配する必要性は何もなかった。家に入っても家族から声をかけらることはない。雇っている執事ですら桐乃が今日体験したことを何も知らない様子だった。知っていても、知らなくても、きっと桐乃がどんな目に遭おうとも、家族は気にも留めずに明日も出社するのだ。そういう家で、そういう人生。

 自室に戻り、せっかくだからどうぞ、ということでもらった赤いドレスを広げた。さっきまで来ていたドレスには涙のシミができていた。綺麗に取ってもらおうとお風呂に入る前にメイドにドレスを頼み、お風呂から上がった桐乃はベッドに倒れ込んだ。

 何かが違う。何もかもが違う。世界の違い、空気の違い、自分が何気なく生きてきた世界と黒川達が生きる世界の違いは、はっきりと、肌で感じられるほど違っていた。

「桐乃? ちょっといい?」

 ノック音がしてすぐ扉が開く。実の母親でありながら母親のように感じられない人。長い言い回しだが、本当にそういう存在だから仕方ない。鋭く厳しそうな眼差しで見下ろされ、桐乃は指先を震わせながらベッドから下りた。

「わたしとお父さん、明日から一週間ほど出張で家を空けるから」

「……わかりました」

「いくら出来が悪くても、お留守番ぐらいできるわよね? たまには執事やメイドにも休みを与えようと思っているの。だから、この一週間、家のことはあなたに任せておくわ。いいわね?」

 それはつまり、遠回しに「あなたのために執事やメイドを使っても仕方ないでしょ?」という意味だ。今まで何度も同じニュアンスで言われ続けられてきたこともあって、すぐに桐乃は察する。そして決まって母親はわざとらしく睨んで部屋を出ていく。この部屋ですら母親にとって「貸してやっている」という形なのだ。

 家を出ればいいと一度考えて行動に移したが、反対された。当然だ。天嵜家の恥を外に出すくらいならば、牢屋のように閉じ込めておくほうが世間体にもいい。云わば、ここは籠の中なのだ。

 母親が出て行った部屋は気持ちが悪くなるほど静かになった。自分がいるのに、いないような感覚。あの世界を知ってしまったからこそ、自分が生きてきた世界の狭さを実感する。籠の中の鳥。しかも清掃されることもなく、荒れた籠の中で自分はひっそりと死んでいく。

 誰でもいいからここから連れ出してほしい。そう考えるようになったのは確か小中高一貫の中で中等部に上がった頃のことだ。息苦しく、生きている実感すら湧いてこない日常に、耐え切れなかった時期だ。他の人が皆幸せそうで、その幸せを嫉みそうな自分のやましい部分が表に出てきそうだったのだ。

「黒川さんは……怪盗じゃないし、盗み出してはくれないよね」

 黒川一士は怪盗ではないと自分で言っていた。仮に彼が怪盗であっても、自分を盗み出す理由もない。そして彼は盗むのではなく、奪い返す。つまり、天嵜桐乃を奪い返してほしいと願う人などいないこの世界で、黒川が自分を奪い返すために来てくれることはない。誰も自分を必要としてくれていない、誰も助けてはくれない。

 居場所のない籠の中で、ずっと、ずっと。

 電気を消して、暗がりの中椅子に座る。ぼんやり考えていると、急に喉が渇いてくる。ふわふわとした足取りで食堂へと向かう。その途中、ランドリーの横にある通路に明日業者が回収するトラッシュボックスに目が留まった。見覚えのある赤いドレスがゴミに紛れて捨てられている。胸の奥がジンジンと痛みだし、枯れたと思っていた涙がこぼれ始めた。唇を噛み締め、ドレスを引っ掴んで部屋へと走って戻る。扉に鍵を閉め、ドレスをそっとベッドに広げ、止めどなく流れ落ちる涙は、手の平で目元を覆っても止まることはなく、静かに夜は過ぎていった。


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