鳴瀬琴音

 由良が手配した車を黒川が走らせ、桐乃は目深に被った帽子から運転席側を見た。黒川一士、国際指名手配犯として世界中を飛び回る怪盗。その怪盗が目の前にいる。隣で運転をしている。まさか映画を観に行った帰り道にこんなにもあり得ないことが起こるとは、予想することなどできるはずもない。

 映画を観る側だった自分が、映画の中のような世界にいる。不思議で、少し怖くて、期待が胸を躍らせている。真っ白で何もない世界に、墨汁を一滴落としたかのように、円状にゆっくりと広がっていく黒が、染まっていく感覚が、とても心地良い。

 しかし、この時間がいつまでも続かないと桐乃は感じていた。わがままで付いて来ている程度の人間で、何の取り柄もない人間で、どうしてそんな人間がまったく異なる世界に生きる人の隣にそう長々と居られようものか、と。

 そんな桐乃の心境を察してか、黒川は優しい声色で訊ねてきた。

「今、お嬢ちゃんが見ている景色は、記憶に強く残っているのかな?」

 その問い掛けに桐乃は「はい」と答える。非日常な世界にいるのだから、当然ながら目に映る全ての景色や風景は完全に記憶されていく。今までほとんど使うことがなかったせいか、少しだけ疲労感を感じていた。それでも『まだこちら側にいられる』という喜びが、桐乃には回復薬のような役目を果たしていた。

「なるほど……ふむ」

 赤信号で停車し、黒川は顎に手をやって考える素振りを見せながら語った。

「特殊な状況下、刺激的な状況は何もプラスなことばかりではない。苦痛だったり、悲痛だったり、恐怖だったり、ようするに、マイナスなことはとくに記憶に残ってしまうんじゃないかい? だとしたら、つまり、お嬢ちゃんにとって平凡な人生は苦痛と言えるのかもしれないね。とくに自分自身を卑下してしまうほどに取り柄が無いと自覚し、自信を強く持つことのできない劣等感や嫉妬は、プラスを呼び込まずにマイナスだけを生み出す。そんなマイナスなことばかりが記憶に強く残るなんて、普通に考えて最悪だし、地獄だ。見たくないものが頭の中にずっと溜まっていく。しかも忘れることがないのだから余計に最悪だ。結果的に、俺たちからしてみれば薄汚れた世界でも、お嬢ちゃんにとっては救いの世界、そういうふうに見えてしまうわけか」

 信号が青に変わり、黒川はゆっくりと車を進ませる。黒川に心を読み解かれた桐乃は、うっかり記憶の再生を行ってしまう。家族から罵詈雑言を受ける映像だけが流れるものの、こびりついている声や台詞が文字となって浮かぶように感じられ、桐乃を苦しめていく。

「映像だけで音声なしの完全記憶能力、か。鮮明に記憶しているのであれば、当時の気持ちや心情もそのまま残っているということかい?」

「はい……だから、できるだけ昔のことを再生はしないようにしています」

 役立たずと罵られ、兄姉から小馬鹿にされ、同級生からもハブられ、辛い記憶など、好き好んで再生することはない。しかし、ちょっとしたきっかけで不意に思い出してしまうこともある。

「辛い思いを何度も繰り返して経験するなんて、嫌ですから」

「それはそうだ。その能力は使いたくもないし、言いふらすなんてするはずもなく、使う機会なんていらないと思うのは当然だろう。だったら」

 立体駐車場に車を滑り込ませ、停車。先に車を降りた黒川がにこやかに言った。

「そいつを人助けのために使ってくれないか?」

「人助け?」

「そう、人助け」

 車を降りた桐乃の手を引き、黒川は隣の高層ビルへと入っていく。会社員が大勢行き交い、もしかしたら自分の知り合いがいるのではないだろうか、などと心配していると、黒川はそっと肩に手を回して桐乃を抱き寄せてきた。あまりにも突然で、思わず声を上げそうになった桐乃は口を両手で覆った。落ち着け、落ち着け、と桐乃はずり落ちそうになったサングラスを整え、さらに帽子を目深に被る。

 広々としたエントランスを国際指名手配犯が堂々と歩く。桐乃は心臓がばくばくと音を鳴らしているが、密着している黒川から感じる鼓動はいたって普通、変わらず平坦だった。少し悔しい気もするが、そんなことを気にしている状況ではない。バレたらまた警察に追われるのだ。

「失礼」

 黒川が受付嬢に声をかけると、愛想のいい笑顔を浮かべてお辞儀をした受付嬢は「ご用件を承ります」と黒川に微笑みかける。すると、黒川はポケットからシルバーリングを取り出し、カウンターに乗せた。頭にクエスチョンマークを浮かべていた桐乃は、受付嬢に一瞬の心の揺らぎを見た。どうしたのだろうかと桐乃が思っていると、受付嬢は「すぐに案内の者が参ります」とシルバーリングを黒川に返却、しばらく待っていると、眼鏡をかけた優しそうな顔をした男性が背筋をピンと伸ばして歩いて来た。

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