捜査本部の設立当初は百五十名近い刑事が配属されていたが、たった二人となった今、追いやられた資料室の一角が灘源一郎のオフィスになっている。デスクに置くことすらできない量の資料や書籍が無造作に床に積み上げられている。棚もぎっしりとファイルが並び、一か月単位で黒川一士の犯罪行為が記録されている。積み上がった煙草の吸殻が今にも崩れそうになる中、そんな捜査本部を見渡した灘は深い溜息を漏らして煙草を咥えた。

「いつか埋め尽くされてしまうのか……?」

 これだけファイルが並ぶということはそれだけ黒川一士が短期間の内に犯罪行為を繰り返してきた証拠であり、灘たち警察がまったく役に立っていないことを意味している。増え続けることを阻止するには、彼を逮捕すること以外に手段はない。とはいえ、複雑な心境でもあるのだ。

 黒川一士の犯罪行為は、どれも民衆のための奪還行為でもあるのだ。犯罪行為でありながら、民衆の支持を受けるほどのアンチヒーロー。認めてはならないことではあるが、心のどこかで『捕まえることが本当に世の中のためになるのか?』という疑問がちらついて鬱陶しい。

 正義を志して警察官になった灘にとって、黒川一士の存在は灘の存在意義の否定に繋がるものなのだ。灘だけに言えることではない、全世界の警察がアンチヒーローを認めてしまえば、正義と悪の境界線が崩壊してしまう。まるで「正義とは何か」と問いかけてくるかのように黒川一士は犯罪に手を染め続けているのだ。

「少なくともここの上に、正義はねえよな」

 煙草に火を点けて煙を上げていると、扉を叩く音が響いた。そして「先輩、開けてください! 両手塞がっているんすよ!」と唯一の同僚の声に煙草をふかしながら灘は扉を開きに向かった。

 扉を開くと両手いっぱいに書類を抱えた、同僚で後輩で、相棒である虎波生絲とらなみきいとがよろめきながら入って来た。自分のデスクに置いて「紙の資料は大変っすね」とスマホを取り出して時間を確認する。

「お昼食べ損ねての午後四時は辛いっすよ……」

「お前は腕時計を使わんのか」

「まとわりつくようで嫌なんすよ。ほら、手錠を掛けられている感覚と一緒っす」

「一緒じゃねえだろう」

 意見が噛み合わないのはいつものことだ。ジェネレーションギャップとはまた違うのだが、どうしても虎波が自分のペースをしっかりと守っているおかげで、灘と意見や話が合うことは稀なのだ。ちゃらちゃらした雰囲気を纏っているとはいえ、仕事熱心な部分は共通する。虎波は配属されて二年、率先して捜査に当たって逃げることなく仕事と向き合ってきた。信頼関係もそれなりに築けて、歳の差は十ほどしか違いはないが、親子のような雰囲気が流れていた。

 ふと、仲間や相棒といったワードに瞼を下す。黒川一士は単独で行動することも多いが、ほとんどの事件では仲間の影がちらちら見えてくる。性別も人数もわからないが、少数精鋭であることは間違いないのだ。そして灘にとっての相棒が虎波だとすれば、黒川一士にも彼にとっての相棒がいることを灘たちは掴んでいた。壁に無造作に貼っていた、その相棒と思しき青年の写真を手に取り舌打ちする。

「厄介だな」

「厄介かどうかは知らないっすけど、手伝ってくださいよ。借りてきてほしいって先輩が言ったから借りてきたのに」

 ぶつくさ文句を言いながら、虎波は床に借りてきた資料を広げて言う。

「各国で起きた黒川一士絡みの事件資料、管理が雑で年月日がバラバラなんすよ。これって職務怠慢じゃないっすかねー」

「ここに本部が置かれると決まってから、ほとんどの膨大な資料は他の保管庫に入れられたままだったからな。文句を言っても変わらん。とにかく、この資料を整理すれば奴らの行動パターンも読めてくるかもしれん。そうなれば先読みして先回りすることも不可能ではない、はず」

「可能性は低いでしょうけれどねー」

 腹をぐうと鳴らしながら、虎波は丁寧に年月日ごとに資料を振り分けていく。年月日ごとに事件に質も大きさもバラバラ、パターンが読み取れるかはわからないが、黒川一士が物事の大小関係なく奪還行為に及んでいることだけは間違いない。

「アンチヒーロー、黒川一士。俺たち警察のほうが悪者みたいな立ち位置にいるのは悲しい話っすね。俺んところのアパートの大家さんも黒川のファンらしくて俺のことを敵意剥き出しで見てくるんすよ。居心地悪くて引っ越そうなんて考えましたけれど、面倒臭いんすよね。それに」

 それに、と続けて二回呟いた虎波は手を止めた。腹をもう一度ぐうと鳴らし、床に座り込む。資料を手放して後ろに手を衝き、天井を見上げて「腹減った」とぼやいた。

 仕方ねえな、と灘もぼやきながら資料の振り分けをし始める。その最中、虎波に訊ねる。

「午前中、どこにいた?」

「あー……午前中は徹夜明けだったんで爆睡していて、正午前に起きて資料を選別してここに持ってきたんすよ。もしかして俺がさぼっていたとか思ったんすか? 酷いっすよ先輩」

「……悪い」

「あー、あー、下っ端は辛いなー」

 文句を言いつつも、虎波は作業に戻って来た。信頼はしている。仕事もできて虎波と一緒であれば黒川を逮捕することもできるかもしれないと灘は思っている。しかし、灘には不安の種があった。

(支援者は警察内部にもいる。それは間違いない)

 虎波もその容疑者の一人、不和もまた同じく、そして上層部の連中も。

「煙草買ってくる」

「え!? 手伝ってくださいよ!」

「晩飯奢ってやるよ」

「ファイト! 俺!」

 腕まくりをして振り分けに取り掛かった虎波を一瞥してから、本部を出る。すれ違う警官や警察関係者、訪れる一般人、連れて来られて聴取を受ける犯罪者、清掃員のおばちゃん、終いには駐車場に住み着いている野良猫ですら灘には怪しく見えていた。

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