コインの表裏、どっちが好き?

雛河和文

第1話 居心地がいいような、悪いような

「――生駒いこまくん、次の授業移動教室だよ」


 窓際の席に佇んで、ぼんやりと雲の動きを追っている男子生徒に、わたし――及川おいかわ 春音はるねは呼びかける。それでもなお空に思いを馳せ続ける彼――生駒 祐樹ゆうきにいかにもやれやれという風に、極力呆れた風を装って近寄ると、ようやく彼ははっとした様子で周りを見回す。

 ……どうやら、教室にわたし達以外誰も居なくなっていることにたった今気付いたみたいだ。


「……ごめん、今行くよ。――それで、どこ?」

「……はぁ。次は物理なんだから、物理室……じゃわかんないか。第二理科室だよ」


 あぁそうか、なんて呑気に物理の教科書を鞄からゴソゴソと取り出す。ちなみに態々言い換えたのは、彼が「通称」という物にてんで疎く、正式名称でないとちゃんと認識できないからだ。ロボットじゃあるまいしそろそろ覚えてほしいと思うのだけれど、そこはまぁ、別にわたしが気を付ければいいだけの話なので、現状そんなに困ってはいない。


 生駒くんが持ち物をしっかりと小脇に抱えたのを確認してから一緒に教室を出て、前側の扉の鍵を閉める。後ろ側の扉は出る前に内側から閉めておいた。本来は学級委員の仕事なのだけれど、必ず最後まで教室に居座っている生駒くんの保護者――という扱いはまったくもって気に入らないのだが――であるわたしに任されている。


「それで生駒くん? 今日何処の実験やるか、ちゃんとわかってる?」

「……えっと」


 二人して廊下を歩く途中、心配になって訊ねてみたが、案の定。こののんぼりさんは、今日の授業の内容なんてひとつも理解していない。

 一瞬私を心配させて楽しんでいるのだろうか……と勘繰ってしまうが、コレが無害でなければ何が無害なのかわからなくなるほど、とことんまで人畜無害な彼にそんな趣味はない。日頃から窓の外をぼんやりと眺めているのだから、授業の内容なんて聞いていないのだろう。その癖テストの点は悪くないのだから、彼は頑張って授業を聞いている人達に謝るべきだと思う。主にわたしとか。


 そうやって内心文句を言っていると、彼が俯いている事に気付く。心なしか歩調も狭まっている。……元々あんまり広くないけど。

 思わず心配になって、気遣うような声をかける。


「……どうしたの? 具合悪かったりする?」

「……そう、じゃなくてさ。その……いつも迷惑かけて悪いな、って」


 ――あぁ、そういうコト。


「そんな事かぁ。――いいよ、生駒くんが抜けてるのはいつものことだし」

「……それはまぁ、そうなんだけどさ」


 ついほっとして本音を漏らすと、生駒くんは苦笑いこそすれ、特に言い返してくる事はない。彼は見かけからして虚弱なので、過保護だと自覚しつつも、ちょっとしたことで心配になってしまう。


「……そんなに心配しなくても、さ。――僕は、大丈夫だから」


 窓から差し込んだ春の西日に消え入ってしまいそうな、彼の柔らかで儚げな笑顔。

 それは、誰がどう見ても強がりで。


「……そういう事は、せめて学校生活を自力でこなせるようになってから言おうね」


 私は必要以上に、辛辣な言い方をしてしまう。それがなんだか悪くて、右眼の泣きぼくろの辺りを人差し指で掻く彼を置いて、気持ち大股で先に物理室に向かう。


 ――いつからわたしは、こんな単純な女になってしまったのだろう。


 その、わたしに心配かけまいとする必死なまでの強がりだとわかっていても、あの笑顔にはついうっかり、ときめいてしまった。

 顔が熱い。こんなだらしない顔、とても彼には見せられない。

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