聖女は魔王に勝てません
メルヴィナの指を、わざと焦らすように自分の口元にもっていったアランは、そこでメルヴィナを上目遣いに見た。まるで、続けていいのか、とお伺いを立てるように。
(ダメに決まってるわ)
思うのに、なかなか手を振りほどけない。
理性の自分は正解を導き出しているのに、本能の自分がそれを拒む。
この四年間、ずっと我慢して隠し通してきたからこそ、甘い誘惑に心が揺れる。たぶん、限界がきているのだろう。一緒にいればいるほど、アランという男に惹かれ続けていたのだから。
彼と一緒になれないのなら、せめて、甘い夢くらい見てもいいじゃないかと。
(好きなのよ。少しくらい、アランに甘えてもいいわよね……?)
主としてではなく、一人の女として。
(どうせアランと結婚できないなら、私だって一時の夢くらい見てみたいもの)
女の子なら、誰もが願うことである。
好きな人に甘えたい。好きな人と一緒にいたい。好きな人と、キスをしたい。
それは、聖女だって変わらない。王女だって、変わらない。
(みんなに許されて、私にだけ許されないなんてこと――)
ないわよね、と考えたとき、脳裏に過る声があった。
――〝メルヴィナ〟
それは、痛みを堪えるような、父の悲痛な声だった。
――〝許せ、メルヴィナ。おまえにばかり苦労をかける、不甲斐ない父を〟
その声を思い出して、メルヴィナは我に返った。
自分がみんなと同じではないことを、嫌でも思い出したからだ。
(……そうよ、私は聖女であり、王女なのよ)
王族が贅沢を許されているのは、もしもがあったとき、その首を躊躇いなく差し出すためだ。
もしものとき、民を守るため、犠牲になることを義務づけられているからだ。
そうでなくとも、国のため、民のため、王族に自由はない。結婚がいい例だろう。
――〝おまえの結婚相手は……〟
何不自由ない生活を約束されてきた。
だから、メルヴィナは政略結婚に応じる。それが王女の役目だと理解しているから。
(私は、聖女。でもその前に、ヴェステルの第一王女よ)
それを忘れてはならなかった。
夢を見ることさえ、王女には叶わない。いや、夢を見てしまえば、メルヴィナはきっと現実に戻れなくなる。そんな自分の性格をよく解っていた。
「……アラン」
「はい」
「手を離しなさい」
だから、受け入れてはいけないのだ。
「私は、ヴェステル王国第一王女、メルヴィナ・リストークよ。その私に許可なく触れることは、たとえあなたでも許されないわ」
心がずっしりと重い。アランに嘘をつかなければならないからだろうか。
「私は、聖女であり、王女なの」
「ええ、存じております」
「私は…………私は、将来の夫のため、遊ぶことすら許されていないわ」
「遊び、ですか」
「そうよ」
あえてそう突き放す。
遊びだ。護衛騎士との戯れなど。そう、言い聞かせるように。
「だから、離して」
「……かしこまりました」
アランの手が離れる。それを寂しいと思う心を、無理やり奥底に沈めた。
どうして私ばかり、という思いがないわけではない。好きで生まれた身分じゃない。好きで選ばれた役目じゃない。
悩んで、反発して、全てを投げ出したくなるときもあった。今も投げ出したくなるときがある。
それでも、この身分だったからこそ、この役目を負ったからこそ、出会えた人がいて、今の自分がいる。
アランは、そのうちの一人なのだ。
アランに出会えたから、自分は〝恋〟を知った。人を好きになるということを知った。
自分が人を愛せるということを、知った。
全てを投げ出すには、もう、今の自分をそれなりに気に入ってしまっている。誰かを愛せる自分を、誇りに思ってしまっている。
(今さら、人形になんてなれないのよ。あなたもそれを望んではいないでしょう? アラン)
メルヴィナは、初めてアランと出会ったときのことを思い出す。
騎士の就任式ではない。確かにメルヴィナがメルヴィナとしてアランと初めて会ったのは、その式のときだ。
でも、メルヴィナが最初にアランと言葉を交わしたのは、王宮で開かれた仮面舞踏会のときだった。
――〝あなたは、自分の運命に何も疑問を持たないのですか? ねぇ、今代の聖女様〟
ダンスを踊っているときだった。仮面で素顔を隠していたのに、彼は自分の正体を言い当てた。それだけでなく、メルヴィナを――いや、聖女を侮辱するようなことばかり口にした。
挙げ句の果てに「私が助けて差し上げましょうか」と言われたときには、思わず「黙らっしゃい!!」と素以上の自分が出てしまった。
本当は、気づいていたのだ。
自分が聖女だから、アランが自分に近づいてきたことを。自分の何がお気に召したのか知らないが、彼はやけに〝聖女=神の人形〟という図式を引きずっていた。
だからきっと、あのとき反抗した自分は、アランにとっての正解を出したのだろう。
彼に嫌われないためにも、やはりメルヴィナは人形にはなれない。
「さ、もう夜も遅いわ。私はすぐに寝るから、あなたも早く自分の部屋に行きなさい」
でも、そこで油断したのがいけなかった。大人しくなったと思っていたアランが、いきなり手のひらを返してくる。
そのまま、二の腕を掴まれて。
「ええ。では、おやすみなさいのキスを、あなた様に送らないといけませんね」
「なっ――」
止める前に、アランの唇が頬に触れる。不思議なことに、いつもされる忠誠のキスよりも、それは遥かに柔らかく、甘く、優しかった。
顔が勝手に火照る。アランが満足そうに目を細めた。
この男は、人の覚悟をなんだと思っているのだろう。メルヴィナの心はすぐに乱されてしまっている。
「メルヴィナ様も気づかないお心を救い上げるのも、護衛の仕事ですから」
「そんな仕事いらないわよ!」
なんだかんだ理屈を並べてみたけれど、結局この男に勝てることはないのかもしれない。そう思うメルヴィナだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます