魔王の想いは狂気です


 祈りの間とは、一般人にも開放されている主礼拝堂の隣にある小礼拝堂のことだ。外の柱廊でつながっており、中に入れば壁一面の宗教画に圧倒されることだろう。

 右手の壁に描かれているのは、世界に広がる瘴気に人々が疲弊し、神に祈りを捧げ、それによって遣わされた聖女がたちまち瘴気を浄化するという神話。

 ちなみに聖女が聖女だと分かるのは、ひとえにその瞳が紫だからだ。

 そしてその反対の壁には、一人の男が数多の魔物を相手に戦っている場面が描かれていた。

 おそらくその男こそ、勇者なのだろう。勇者は聖女と違って共通の特徴はないが、手に持つその剣の形状が、ジルの持っていたそれと酷似している。

 見事魔物を倒したその男は、最後にその剣を天高く掲げると、世界に平和が戻ったことを高らかに宣言していた。

 この世界の人間なら、それらの宗教画を目にしたことがない者はいない。それほどこの画は有名であり、長く継がれてきたものでもある。


 そのなかを、メルヴィナはゆっくりと進んでいった。斜め後ろをアランが付き従うようについてくるが、この場に二人以外の姿はない。他の護衛しさいは扉の外に置いてきた。


「メルヴィナ様、いかがされましたか?」

「え?」


 歩いている途中、アランが心配そうな顔で訊ねてくる。心当たりのないメルヴィナは、一度立ち止まると「何が?」と彼を振り返った。


「いえ、なんだか辛そうなお顔をされていましたので。……私のせい、でしょうか」


 アランが弱々しく肩を落としている。こんな彼は珍しい。たまにわざとそう見せてくることはあるけれど、なんの打算もなしに落ち込む彼は、メルヴィナもあまり見たことがない。

 そのせいで、たまのこれには存外弱いメルヴィナだ。まるで粗相をして叱られた仔犬のようで、慰めてあげたくなる。


「違うわ、アラン。もし私が辛そうに見えたなら、それは自己嫌悪に陥っただけで、あなたのせいじゃない。だから気にしないで。でも……私、そんなに上手く笑えてなかった?」


 苦笑する。微笑みを絶やさないのが聖女なのに。

 苦くても受け入れると決めたのなら、メルヴィナはしっかりと役目を演じなければならなかった。なのに、さっそくこれでは先が思いやられる。そう思って、メルヴィナは溜息を吐いた。


「いいえ。他の方々は気づいておりませんよ。むしろ気づかれても困ります。あなた様のことは、私だけが理解できればいいのですから。だからメルヴィナ様も、私に隠し事はなさらないでくださいね?」


 どこか縋るような眼差しに、メルヴィナは困ったように眉尻を下げた。


「それは無理よ。私にだって秘密にしたいことの一つや二つはあるんだから。それに、女性はそのほうが魅力的だって、教えてもらったの」


 途端、アランの眼差しが仔犬から猟犬に変わった。


「ほう……それはどこのどなたにでしょう? まさか私の知らないところで、どこぞの男に口説かれてなどいませんよね?」


 これにはメルヴィナの目が半目になる。


「不思議ね、アラン。あなたと話していると、ときどき大きく話が逸れると思うのは私だけかしら。そこでなぜ口説かれる話になるの」

「私も不思議です。メルヴィナ様の周りは徹底的に管理しているはずなのですが、どの隙をついたのでしょう。余計な男は一人たりとも近づけないようにしていたはずですが」

「あなたそんなこともやってたの……」


 呆れて文句も出ない。

 どうりで最近、舞踏会などでダンスに誘われる回数がめっきり減ったわけである。さらに、所用で声をかけた男性使用人が、だらだらと汗を流しながら今にも脱兎のごとく逃げたそうにしていたのも、どうやらアランのせいらしい。

 あれはただの汗じゃない。冷や汗だったのかと、メルヴィナはここで合点がいった。


「ねぇ、アラン。そんなに警戒しなくても、私なら大丈夫よ。これからは度を越さないようにしてくれる? じゃないと、公務に支障が出てくるわ」


 メルヴィナは再び歩き出した。それを追いながら、アランも食い下がる。


「とんでもございません。メルヴィナ様はご自身の魅力を分かっておられないのです。私が目を光らせないと、あなた様の周りは瞬きの間に有象無象の男どもで溢れかえってしまうでしょう」

「それはあなたの贔屓目でしょ。私は――」


 続きを口にしようとした、そのとき。

 急に強く腕を引っ張られて、身体がバランスを崩した。驚きすぎて悲鳴も出ない。

 そのままアランに抱きとめられて、しまいには顎を掴まれて、無理やり顔を上に向けさせられる。


「――ほら。メルヴィナ様は、隙が多いんですよ」


 間近に迫る藍色の瞳が、怒りと別の何かで揺らいでいた。その〝何か〟が分からなくて、メルヴィナは息を呑む。

 アランの吐息がかかりそうだ。心臓がばくばくと鳴っている。彼にこれを聞かれるわけにはいかないのに。

 メルヴィナは、慌ててアランの顔を押した。


「〜っかったから! 気をつけるから離して。一応ここ、神聖な場所なのよっ」


 メルヴィナがそう言うと、少し不機嫌そうだったアランもぱっと手を離す。それから何かを考え込むように黙り込んでしまった。

 一方、解放されたメルヴィナは、ほっとして息を整える。正直、アランのおかげで男性に免疫がないのだ。慕っている相手であればなおさら、近すぎる距離は毒になる。

 アランが黙したままでいるのをいいことに、メルヴィナは逃げるように先を進んだ。


 最奥に辿り着くと、メルヴィナの目の前には円形に縁取られた泉がある。そこには溢れんばかりの透明な水が満たされていた。

 これは、広範囲の瘴気を浄化するときに使うものだ。


「……――――」


 泉の前で何事かを呟くと、メルヴィナは水に濡れることも厭わず、中に入っていく。深さはメルヴィナの腰あたりだろうか。

 しかし、冷たさはない。濡れた感触もない。これはひとえに、メルヴィナが聖女だからだ。

 静謐な空間の中、響くのは水のちゃぷちゃぷとした音だけだ。

 しかしその音もすぐに止む。メルヴィナが、泉の中心で祝詞を奏上し始めた。

 やがてそれに反応した泉が、中心のメルヴィナを囲むようにぶわりと舞い上がっていく。

 

 アランがこの光景を見るのは、これで三度目だ。

 一度は、メルヴィナがヴェステルで浄化を行ったとき。そのときのメルヴィナの凛然とした姿に、アランはしばし見惚れた。おかげで、いったいこの方はどれだけ自分を惑わせれば気が済むのだろうと、本気で胸の内から沸き起こる衝動を抑えなければならなくなっていた。

 でなければ、あのときのアランは、間違いなくメルヴィナの邪魔をしたことだろう。邪魔をして、連れ去って、誰の目にも触れないところに閉じ込めていたかもしれない。

 自分なら、やる。

 アランは確信を持ってそう言えた。今でも本当は、どこかに閉じ込めておけたらいいのにと、そんな衝動を必死に抑えているのだから。


(メルヴィナ様。あなたはきっと、気づいていらっしゃらないのでしょう)


 眩しいものでも見るような目で、アランは祝詞を紡ぐメルヴィナを見つめる。

 いや、もうその瞳には、メルヴィナ以外は映っていない。

 彼は知っている。

 これが。この感情が。恋などという純粋でかわいらしいものではないことを。一種の狂気でさえあるのだと。

 彼はちゃんと、自覚していた。

 だって、さっきメルヴィナが言った「一応ここ、神聖な場所なのよ」という言葉に、反省ではなく歓喜が込み上げてきたのだから。神聖な場所、とわざわざ注意するということは、つまり自分を異性として意識してくれている証だ。それが嬉しくてたまらなくて、自然と上がっていく口角を抑えるのに苦労した。

 神の前であろうと、どうでもいい。

 むしろ見せつけてやりたいとさえ思う。自分が、聖女を汚していくところを。彼女は神のものではなく、自分のものなのだと、その証を刻みつけるところを堂々と披露してやりたいくらいだ。

 だからやっぱり、これは歪んだ想いなのだろう。誰の目にも晒さず、閉じ込めて、甘やかして、大切にしまっておきたい欲望が常にある。

 でもそうしないのは、そんなことをして嫌われたくないからだ。

 彼女に嫌われることは、アランにとっては、世界の滅亡よりも受け入れがたいことなのだから――


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