s1 ep16-7

「──Kよ!」

 SUVのフロントガラスが画面上に像を結んだ瞬間、アンナが指の代わりにサブマシンガンを振り上げた。

 中野にも見えていた。窓越しであっても、ミトロファノフ邸の暗がりとは段違いにはっきり視認できる同居人の顔。唇を引き結んで前方を見据える表情には、どんな色合いも浮かんではいない。

 黒っぽい服装は、一緒に過ごしてきた中で最も見慣れたパーカー姿だった。今夜の同僚と同じく、夜陰に紛れることができてフードで顔も隠せ、返り血を浴びたって目立たない便利なファッションだ。そして何よりも、目に馴染んだ没個性の造作。

「ひとりなのか?」

 冨賀の問いにクリスが答えた。

「確かなことは言えないけど、多分そうじゃないかな」

「他のヤツらは何やってんだ?」

「ヴェロニカんちの始末に追われてんのかも……あっちの他の動画、出してみようか?」

「いい。別に向こうの状況を知りたいわけじゃねぇ」

 苛立ちがチラつく冨賀の声に、珍しく同意見だなと中野は思った。

 ダミアンカメラや中野坂上の混乱ぶりは今や、右下の四分割画面に縮小されてる。どうせ中野坂上の建物は無人だし、坂上が離脱したならミトロファノフ邸にも──少なくとも個人的には──用はない。

「よかったな、同居人が元気そうで」

 新井が言った。

「新井も同居人だよ?」

「もう過去形だけどな」

 爆走する二台から隣の同僚に目をシフトすると、草食系の横顔が壁の画面を見つめたままこう続けた。

「どんな形であれ今夜ケリがつくはずだから、いよいよお役御免ってことだ」

「そうなったら会社はどうすんの? 本業じゃなくてウチの会社のほう」

「その辺も引っくるめて、最初から何もかも手配されてる」

 何がどんな風に手配されてるんだか全くわからないけど、いちいち尋ねなかった。聞いたところで何かできるわけでも、するわけでもない。

 そういえば正体が知れる前、単なる同僚だと信じて疑わなかった頃までの新井は、もっと愛想が良くて可愛げのあるフランクなタイプだった。なのにいつの間にか、こんな素っ気ない硬派に変わっちまってた。

 まぁ多分、変わったんじゃなくて素に戻っただけなんだろうけど──

 知り合ってからの数年間を中野がちょっとノスタルジアに振り返ったとき、ひたすらカーチェイスを見下ろすだけだった衛星動画に変化が訪れた。

 シルバーのセダンに喰らいつた黒いSUVが横っ腹を擦りつけ、押し遣り、押し遣られ、二台のクルマは広々とした道路で取っ組み合いをはじめていた。

 さっきまで街中だった気がするのに、両脇に広がるのはエンボス加工みたいな木々の陰影で埋め尽くされた郊外っぽい風景だ。高速道路なのか単なる幹線道路なのかはわからない。が、いわゆる『自動車道』のような片側三車線道路に、いつの間にか舞台が移っていたらしい。

 時間のせいもあってか、行き交うクルマはほとんどいない。

 ──と思ったそばから合流車線に黒い影が現れ、一台のセダンが飛び込んできた。

 もしかしたら火急の用件に追い立てられてるだけの無関係のクルマかもしれない、なんて様子を窺う必要はなかった。

 現れるなり脇目も振らずSUVの尻にピッタリ貼りついたソイツの助手席から、黒ずくめの上半身が覗いたからだ。良識ある一般車なら、高速走行中に窓から身を乗り出すような真似は、余程の事情でもない限りしないだろう。

 しかも、前に向かって伸ばした右腕が拳銃みたいなモノをぶっ放し始めたとくれば、もはや敵だってことを疑う理由は1ミリもない。

「どこのどいつなの!?」

 中野が口走りかけたセリフをアンナが掻っ攫った。

 壁面ディスプレイの右上でズームしたままだった坂上画像が新参者のナンバープレートに切り替わる。素早く拡大して解像度を上げながらキーボードを叩き、クリスが声をひっくり返した。

「やばい、組織の助っ人だよ!」

「こっちの陣営は何やってんのよ!?」

「ゴメン」

 アンナの憤慨に中野が謝ると、彼女はサッとトーンを和らげた。

「あぁ、いいえ、お母さんは司令塔だもの。ミトロファノフ邸の方も監督しなきゃならないんだから」

「でもウチの叔父さんも行ってるはずなんだよね」

 正確には叔父じゃなく素性不明の他人だけど。

 でも彼がどこの誰かなんてどうだっていいし、坂上に加勢する者がいない現状を左右するわけでもない。

 そのどうにもならない事実に、知らず苛立ちが漏れてたんだろう。

 アンナの脇から歩み出たヒカルが、珍しく神妙な面持ちでそっと中野の手を取った。

「イラつくのは仕方ないけど、イラついても仕方ないわ、ミナト」

「わかりやすいアドバイスをありがとう。俺がイラついてるってよくわかったね」

「そりゃあ、わかるわよ。付き合ってた頃によく見かけた顔だもん」

 元カノの殊勝な口ぶりの背後で、彼女の先輩に耳打ちする情報屋の声が聞こえた。

「お前も握ってやったらどうだ?」

「落合さんが手を離したらね」

 顔を寄せて囁き合う肉食系と草食系の男二人に、元カノがチラリと目を走らせた。それこそ、付き合ってた頃によく見かけた眼差しだった。

 当時の彼女もデート中に仲睦まじげな男の二人連れを見かけるたび、こんな視線で見送っていたものだ。

 が、そんな淡い追憶は、ものの三秒で消え失せた。

 右上の四つのディスプレイが上下二面ずつに分割され、それぞれに登場したレースゲームのボンネット視点みたいな映像に目を奪われたからだ。

「ランクルの通信型ドラレコにやっと入れたよ……!」

 ドライブレコーダへの侵入を告げるクリスの声。

 上は前方カメラ、下は後方カメラ。

 ヘッドライトの中を路面の白い波線が猛スピードで流れ去り、道路照明が規則的なスパンで側壁を照らして、並走するセナートのボディを視界の隅にチラつかせる。

 後方カメラに陣取るのは黒いフロントフェイス。中央に並んだキドニーグリルとBMWのエンブレムでメーカーは知れたものの、セナートで反省したのか興味がないのか、クリスが蘊蓄を垂れなかったから車種は不明。

 その右側面から黒いスーツの上半身が生え、こちらに向けて突き出した腕の先でマズルフラッシュが明滅する。

「彼のクルマは大丈夫なんだよね?」

 中野の問いにアンナが頷く。

「最高レベルの重装甲仕様だから、あの程度は平気なはずだけど……でも万能ではないわ、残念ながら」

「まぁ、だろうね」

 いくら頑丈にしたところでクルマはクルマだ。胸の裡で納得するそばから、セダンとも思えない重量感でセナートに体当たりされてドラレコの景色が一瞬ふわりと傾き、肝が冷える。

 が、水平に戻った次の瞬間には右の側壁に押しつけられて、今度は逆の角度にやや傾斜する。

 フロントガラスの端にチラつく火花。銃弾にやられなくても、敗れる確率は決して低くない。それがわかってるから尚更、どうして援軍がいないのかという苛立ちばかりが募る。

 やがて、圧迫から強引に抜け出したランクルに退路を塞がれるより早く、セナートが滑るように左へと逸れて行った。ソイツを追った刹那。

 空いた右手にすかさず躍り出たキドニーグリルが横っ腹を叩きつけて寄越し、ランクルは敵車の狭間にサンドされていた。

 超広角の画角に並ぶ三台のフロントサイト。両脇からの圧迫を振り切ろうと藻掻いて、右へ左へと視界が蛇行する。

「音声は拾えねぇのか、コイツは」

 冨賀が舌打ちとともに尋ね、クリスが首を振る。

「設定がオフになってるんだけど、何とか解除してみるよ」

 言い終える前にシステム屋の両手は動き出していた。が、直後、新井が短い呟きを吐いた。

「前にデカいヤツがいる」

 見ると俯瞰映像を縦断する道路の先に、明らかにSUVなんか比じゃないサイズの箱が見える。馬鹿デカいトレーラー的なヤツだ。

「挟まれたまま連れてかれたら不味いかもしんないわね」

「でもアイツらだって、このまま突っ込んだらヤバいわけだから──」

 女子たちの会話を突然、大音量のメタルっぽい音楽が割れんばかりに噴き上がって掻き消した。

 脳髄まで響くバスドラムの振動、へヴィな低音を刻むギターリフ、何を言ってるんだかさっぱり聴き取れない英語のデスボイス。

 わわわ! とクリスが慌ててボリュームを絞った。

「ごめん、ぼ、僕じゃないよ!? ドラレコの音声引っ張れたんだけど、えっと、ランクルの車内の音だよ!」

「えぇ? じゃあKがかけてんの?」

 ヒカルが挟んだのと同じ疑問を中野も抱かなかったわけじゃない。

 だけど、いよいよフロントカメラの前方に見えてきたトレーラーの尻に気を取られ、BGMのギターリフに別のノイズが混ざるのを聴いた気がした──ほんの半瞬後。

 斜め前方にいきなり黒い跳ね馬が躍り出た。

 生き物じゃない。

 鉄の馬だ。

 道路脇の土手の傾斜を助走に使ったんだろう、いつしかガードレールほどの高さに変わっていた側壁から飛び込んできたのは、暗黒の塊みたいなアドベンチャーカテゴリのバイクだった。

 オフロードベースのボディはエンジンまわりのメタルパーツ以外、全て黒。マシンだけじゃない。ライダーもフルフェイスのヘルメットからブーツの先まで、まるで復讐系の洋画から出てきたかのような黒一色だ。

 宙に舞った跳ね馬がキドニーグリル目掛けてフワリとベクトルを描き、落下するまでせいぜい二、三秒。

 なのに妙にスローモーションに見えたのは、ちょうどBGMが間奏のギターソロだったせいだろうか?

 すぐにAメロっぽいパートに戻る寸前、ランクルをセナートに押し付けていたBMWが機敏に逸れた。が、もう遅い。馬の背に跨がる死に神が腕に抱えた、鎌ならぬ燃料タンク。既にソイツがボンネットの上に放られていた。

 ぶち撒けられた液体、それを追って落下する小さな炎は多分オイルライターか。

 セダンの屋根でバイクがワンバウンドする重たい音とほぼ同時に、爆発的な燃焼が辺りを一斉に照らした。

 ドラレコの視界がつんのめるようにブレて全ての光景が一瞬遠退き、大きく振れた。ほんの僅かな間、方向感覚が狂う。坂上が急ブレーキをかけたらしいと気付いたのは、斜め後ろを向いて停まってからだった。

 後方カメラの隅に、炎上しながらトレーラーへと吸い込まれていくBMW。その脇を深いバンクでコーナリングしていく、黒い馬の尻。

 で──誰? という空気がほんの数秒、室内を漂った。

 が、それはすぐにこう変わった。──まぁいいや。

 少なくともひとりは援軍が現れた。今は、その事実だけあればいい。

 すかさず坂上のランクルも向きを換えて急発進し、停車したトレーラーを迂回する。馬鹿デカい箱車の下には頭からめり込んだセダン。乗ってたヤツらがどうなったのかは窺えないけど、トレーラーの運転手さえ無事であれば別に構わない。

 煌々と燃え盛る炎を眺めて、中野坂上といい、今夜は火難だな……と中野が思ったとき、不意にドラレコが低い呟きを拾った。メタルのデスボイスとは明らかに無関係のリアルな音声だった。

 馴染みのない、滑らかなイントネーションの異国の言語。

 だけど、存分に馴染んだ懐かしい声。

「Kの声だよな? アイツ何か言ったよな、今」

 冨賀が珍しく興奮を孕む。

「ロシア語だと思うけど、抽出して翻訳するよ!」

 クリスが俄然はりきってキーボードを叩き始めた。

「男子たちったら、キャッキャしちゃってさ」

 ハッ、とヒカルが鼻で嗤い、BGMが変わった。

 ただし変わらなかったとも言える。つまり同じバンドと思しき、大差ないテイストの別の曲が始まっただけに過ぎなかった。

「そうだ。で、何? Kが自分の意志でこんなモンかけてんの?」

 ヒカルの問いにアンナが軽く頷く。

「ごくたまにこういうときがあるのよ。余計な思考を遮断して集中するために、曲のウエイトで雑音を消すらしいわ。ただ、マニュアル車の場合はエンジン音を聞く邪魔になるからって、どんなときでも一切音楽はかけないけど」

「このメタルは雑音のうちに入らないわけ?」

 彼女たちの会話を聞きながら中野は思った。こうして改めて考えると、自分はまだあまりにも同居人のことを知らない。

「あら、ウチの客でも集中するために音楽聴くって人、結構いるわよ? クラシックとか昭和歌謡とか、ジャンルは人それぞれだけど」

「昭和歌謡なんか聴きながら人間を始末すんのはどこのどいつなのよ」

 ちなみにね! とクリスが口を挟んだ。

「今かかってるのは、スリップノットの──あ」

 車内のBGMにまで及びかけた蘊蓄が途切れたのは、ドラレコ音声の抽出が終わったからのようだった。

 ワクワクを抑えきれない顔でシステム屋がいそいそとキーを叩くと、取り澄ました女性の合成ボイスが翻訳された坂上の呟きを、こう読み上げた。

「くたばれ、《ピー》野郎」

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