s1 ep14-2

「ごめん、待たせたね」

 大急ぎで着替えて二階に駆け上がった中野は、玄関の外で待っていた新井とともに古びた階段を降りた。

 コーヒーをぶち撒けた惨状はそのままにしてきた。別に大人げなく当てつけがましいことをしたわけじゃなく、時間がなかったんだから仕方ない。

 階段の下の路上には漆黒の国産SUVが蹲っていた。

 寒いから部屋の中で待つように促しても──万一の場合に備えて、玄関を開けるためのアクセス権が彼にも与えられてる──新井が頑なに固辞する理由は、目を離した隙に駐禁ステッカーなんか貼られるわけにはいかないからだろう。残念ながら『配達中』なんてプレートでお目こぼしを期待できるタイプのクルマでもない。

 毎朝、登校時の小学生よろしく迎えに来ていた新井は、昨日からコイツで現れるようになった。

 クルマ通勤については、当初から提案されてはいた。けど朝のラッシュ時間帯の都心方面なんて所要時間も読みづらいし、途中で事故や工事渋滞でもあればアウトだ。そうでなくたって、雨だから、五十日だから、月曜だから、月末の金曜だから、ノー残業デーの水曜だから……などと、都内の交通渋滞の理由は枚挙に暇がない。

 かと言って、そのために早く発つのも癪だったし、人混みでズドンとやられる可能性が薄いんだったら電車通勤で構わないんじゃないか。中野はそう高を括っていた。

 が、マックスの一件でいよいよ業を煮やした新井たちの組織が、とうとう強引に配車して寄越し、おかげで家を出る時刻が三十分も早まってしまった。

 ちなみに、もともとオフロードも物ともしないSUVの頑丈なボディは、見た目じゃわからないが重装甲仕様に改造されてるらしい。

 そこまでする必要ある? と中野が呆れると、同僚は草食男子の面構えを曇らせてこう言った。

「今は、何だってやりすぎるということはないからな」

 やりすぎると言えば、今じゃ中野も防弾ベストなんてモノまで着用させられてる。

 ワイシャツの下に着けても目立たない、厚みが少なく身体の動きも妨げない、なのに高性能──という胡散臭いほど都合のいいヤツらしいから、多分それなりに高価なんだろう。けど、脳味噌を撃ち抜かれたら全く意味がないと思う。

 後部座席に収まった中野は、小振りのマグボトルをひとつ運転席の新井に渡し、自分のボトルの蓋を開けた。

 芳醇なコーヒーの香りが車内に満ちる。慌ただしく着替える間に母が用意してくれたものだ。地下室で淹れたマグカップの中身は、いくらも飲まないうちに零してしまったから、今日は特に有り難い。

 中野はボトルに口を付けてから、同僚の後頭部に向かって問いを投げた。

「鬼退治の話、新井も聞いてる?」

「鬼退治? あぁ、お母さんたちのロシア行きの件?」

「みんな知ってんだね」

「昨日の夜、聞いたばっかりだ」

 俺は今朝だよ──と言うかを迷って結局やめる。

 ルームミラー越しにチラリと目を寄越した新井は、赤信号で停車するとマグボトルのコーヒーを啜った。

 誰も彼も、とうの昔に死んだはずの人間が蘇ったって大して驚きもしなければ、そのゾンビが鬼退治でロシア遠征するなどという荒唐無稽なお伽話を聞いても、それがどうしたと言わんばかりの顔しか見せやしない。

 ついでに言うと先日の早退については、出先での突然の体調不良として処理されたらしく、翌朝出社すると数人から「大丈夫?」と声をかけられた。既に真相を知ってたはずの新井も、挨拶とともに同じセリフを口にしただけだ。

 ただし当事者のひとりだったヒカルだけは、部外者の耳がない場所で多少アグレッシヴなセリフを口走った。

 が、それも勿論、可南子が生き返ったことへの驚きなんかじゃなく、中野に対するささやかな憤慨に過ぎなかった。


「だから言ったじゃない、こんなとこでトイレなんか行かなきゃなんないの? って!」

「でもヒカルも、こんなところのトイレで敵が待ち伏せてたりはしないだろうって言ったよね?」

「最終的にはね! どうしてもって湊が駄々を捏ねるから譲歩したんじゃない」

「駄々なんか捏ねたっけな」

「だけど、そこはさ」

 二人の会話に割って入ったのは、怒れるエージェント女子の先輩だった。

「少しでもリスクを考えたなら、どんなに要求されようと譲歩するべきじゃないよ」

「だって途中で湊が、大人としての尊厳を損なうような粗相を犯しちゃったらどうするんですかぁっ? もし電車の中でそんな事態にでもなってたら、譲歩した上で万全の態勢を整えるのがプロとしてあるべき姿勢だった、みたいなこと絶対言いますよね新井先輩!?」

 と、こんな具合だ。


 信号が青に変わり、淀んでいた車列が動き出した。

「ダミアンを連れて行くんだってね」

 白いミニバンの尻に続いて緩やかにアクセルを踏み込みながら、新井が思い出したように言った。

「あぁ、らしいね。個人的にはちょっと不安を感じなくはないけど、うちの母が見たところ調教は上手くいってるようだし、まぁいろんな意味で使い勝手のいい人材だよね」

 もし使い捨てになっても支障がないってところも都合がいいしね、とまでは言わなかった。それくらいのデリカシーなら、中野にも最近ようやく備わりつつある。

 血も涙もモラルもないビッチな殺し屋女子に飼われて、人の命を屁とも思わない悪事に荷担していただけじゃなく、自身もロクデナシのクソ野郎に過ぎないダミアンであろうと、生命を軽んじるような発言は決してすべきじゃない──なんて勿論、思ってない。

 だけど、あのダミアンですら、消えたら悲しむ誰かがこの世のどこかにいないとも言い切れない。例え限りなくゼロに近いだろうと確信してはいても、それはあくまで中野の視点によるものだ。

 だから「ビッチの飼い犬だったサノバビッチは使い捨てにちょうどいいね」なんて本音を口にする代わりに、中野は別のセリフを投げた。

「うちの同居人も行くんだよ」

 すると新井が、前を行くミニバンの尻を見つめたまま数秒沈黙した。眉間が微かな憂いを掃くのがミラー越しに伺える。

「中野をひとりで置いてくのか?」

「そういう言い方されると、何だか置き去りにされる子供みたいな気分になるね」

 実際、子供時代に母に置き去りにされたようなものだけど。

 でも特別どうという思いはないから「みたいな気分」ってのが具体的にどんな気分なのか中野にはわからないし、そもそも子供と言っても、もう中学生だった。

「置き去りにされる子供と大して変わらないだろ?」

 新井がステアリングを操りながら、非難するような声を投げ返してくる。

「どんなにセキュリティを完璧にしたつもりでも、不測の事態ってのは必ず起こり得ると思っておくべきじゃないか。ひとりであそこにいて何かあったら──」

「代わりに誰か置いてくみたいだよ?」

 中野が遮ると、新井は無言を一拍挟んでからトーンを鎮めた。

「誰か……?」

「うん。誰にするかは、まだ決めてないみたいだけどね。普通に考えたら新井かヒカルあたりかなぁとは思うけど、母さんの仕事仲間っていうか、叔父さんの会社のメンバーも選択肢に入ってるかもしんないしね」

 回復途上のコウセイは無理だとしても、彼には現在の相棒も一応いるらしい。ただし正確には相棒というより、お目付役的なポジションのようだ。

 これがまた、穏やかな風貌の優男でありながら──と言っても、中野は面識がないから母の言によれば、だ──仏のような笑みを浮かべて問答無用で鉄砲をぶっ放す、大層有能なエージェントって話だった。

 有能の基準が中野にはよくわからなかったが、とにかく母はそのとき、コウセイの新たな相棒についてこう語った。


「あんたの叔父さんがウズベキスタンで意気投合してスカウトしてきた子なんだけどさ」

 イギリス人の次はウズベキスタン人だなんて国際色豊かだね、そう中野が言うと彼女は軽く首をひと振りした。

「ううん、日本人よ。コウセイくんと同い年の」

 一体どんな経緯があれば、ウズベキスタンなんていう地でそういうスキルを持つ日本人の若者と出会うのか? 中野にはちょっと想像がつかなかった。

 息子の顔面に漂う疑問には構うことなく、母は続けた。

「毎朝、コールドプレイの『Viva La Vida』で目覚めるのが彼のルールでさ。うっかり欠かした日は別人みたいに一日中ギスギスしちゃって、普段にも増して容赦がなくなるのよね。だけど、それさえなければ見た目通りの、すごく感じがいい子よ?」

 どうやら、柔和なアルカイク・スマイルで死体の山を築きながら『美しき生命』で朝を迎えなければ気が済まず、そのルーティンが崩れた日には残忍さを増すらしい。どういう神経の持ち主なんだろうか。

 別に非難がましく感じたわけじゃない。純粋に理解できなかっただけだ。普段どれほど「感じがいい子」だろうと全く意味がない気がするのは自分だけなんだろうか?

 それから、こうも思った。今度、試しに『Viva La Vida』をダウンロードしてアラームに設定してみようか。

 だけど、もしもその美しき生命氏が坂上の後釜にキャスティングされた場合、わざわざダウンロードしなくたって嫌でも毎朝聴かされる羽目になるわけだ。

 ただまぁ、一風変わった人物というなら、その彼に限らず周囲にいくらでもいる。

 坂上の協力者たちなんか粒揃いで、彼らに比べたら新井は勿論ヒカルですら『平凡過ぎて退屈』の箱に放り込まざるを得なくなる。

 一概には言えないんだろうけど、その差がフリーランスとサラリーマンっていう働き方の違いに顕れてるのかもしれないな……?

 どうでもいいことをぼんやり考える中野の正面で、母が手にしていたボトルビールをひと口呷ってこう締め括った。

「ま、けどコウセイくんの相棒ったって今は別件にかかりっきりだし、湊と対面したこともないしね。あの彼がいきなり住み込みで湊に張り付くって可能性は、やっぱないかな」

 肩を竦める彼女の顔を見るともなく眺めながら、ふと気づいた。

 そういえば忘れるところだった。

 一風変わった人物というなら、最たる存在が己の最も身近なところにいる、という事実を。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る