s1 ep7-2

 その夜、中野は会社を出てから同居人に電話した。

 今朝聞いたばかりの番号をコールしたら、呼び出し音が七回鳴ったあと無事本人に繋がった。

 が──平素よりも抑えた声と押し殺した息遣いから、何やら緊迫した状況らしいことが伝わってきた。

「取り込み中?」

「まぁな」

「じゃあ切るよ」

 中野はそれだけ言って通話を切った。

 心配じゃないわけはない。むしろ場所さえわかれば飛んで行きたい。

 だけど危惧するような状況なんだとしたら、どうした? だの、どこなんだ? なんて電話口で質しても坂上を危険に晒すだけだし、所在がわかったとしても何もできない中野が飛んで行ったところで足手まといになるだけだ。

 回線が途絶えたスマホを手にしばし立ち尽くしていると、後ろから聞き慣れた声が名前を呼んだ。

 振り向いた先には鞄を提げた新井の姿があった。

「何やってんだ、こんなとこで?」

「うん、ちょっと。なぁ新井」

「うん?」

「GPSなんかはオフになってるかもしれないプリペイドのSIMでも、今すぐ相手の所在地を特定できたりする? 本業のほうの会社でさ」

 新井は数秒沈黙して中野を眺め、慎重な口調でこう投げ返してきた。

「どういう事情なんだ?」

「いや全然わかんないんだけど。遅くなったから外でメシでも食わないかと思って同居人に電話してみたら、どうも取り込み中みたいだったからちょっと心配で」

「取り込み中なのはいつものことなんじゃないのか?」

「それはそうなんだろうけど、まさにいま、どっかでリアルタイムにそういうシチュエーションらしいっていうパターンは初体験なんだよ、俺」

「心配しなくても大丈夫だと思うけどな」

「まぁ、だといいよねぇ。で、調べられない? 現在地」

「──」

 新井は息を吐いて手を出した。

 スマホを渡すと呆れ顔で首を振りつつ、どこかに電話をかけていた。

 それを待つ間、中野はガードレールに腰を引っかけて車道を流れるテールランプの河を見るともなく眺めた。

 こうしてるうちにも、坂上の命は呆気なく消えてしまうかもしれない。本人の言を借りれば、人間ってのは心臓か脳味噌が働くのをやめたら終わりだ。そうなれば自分にはきっと、坂上曰く時間の無駄でしかない、稼働できないブランクってものが発生するだろう。

 だけどそれが交換できず、修繕が不可能な故障だとしたら、無駄とは言えないんじゃないか?

 最終的に直るのであれば、確かにブランクは時間の無駄かもしれない。じゃあ壊れたままなら──

 中野、と呼ぶ声に思考を遮られた。

「場所がわかったけど、どうする? 行くのか?」

「行くよ。何もできなくても、知らないところで消えられるよりは全然いいしね」

 答えた中野の顔を見つめたあと、新井は車道に向かって手を挙げた。

 近づいてきたタクシーが停まってドアが開く。背中を押されるようにして乗り込んだ中野の後ろに新井が続き、シートに収まるなり運転手に行き先を告げた。目的地は湾岸エリアのようだった。

「言っとくけど手伝うわけじゃない。俺は俺の仕事をするだけだから」

「仕事って?」

「お前を護る」

 運転手はリタイア後に再就職したようなシニアだったけど、急いでいることを伝えると、こちらが呆気に取られるような違法スレスレのドライビングテクニックで目指す場所まで速やかに運んでくれた。

 釣りは要らない、と万札を渡した新井は、遠ざかるテールランプに目を投げて呟いた。

「スカウトしたい」

「もし何だったら、名前見といたよ」

 だけど今は他に優先すべきことがあった。

 どこかから送信されてくる情報を新井がスマホの画面で確認し、中野を促して移動を始める。

 やってきたのは煤けた倉庫が建ち並ぶ、いかにもって感じの埠頭の片隅だった。こんな場所なら、日本国内らしからぬアクシデントが勃発しても違和感はない。

 ただ、予想に反してやたら静かだ。

「ほんとにここで合ってる?」

 場所が違うんじゃないのか。若干の不安をおぼえて中野が尋ねたときだ。

 突然どこかで野太いエンジン音が吹け上がり、けたたましいスキール音と混ざり合って倉庫の谷間に反響した数秒後、前方の建屋の陰から黒光りするSUVが弾丸のごとく飛び出してきた。

 分厚いフロントフェイスを引っ提げた黒光りする車体が、尻を振って後輪を引き摺りながら体勢を立て直し、猛々しいエンジン音とともに二人のいるほうへ肉薄する。新井に突き飛ばされて転がった中野の数メートル先を鉄の塊が駆け抜け、光跡を残して流れ去るテールランプを五発の銃声が追った──次の瞬間。

 SUVが大きく蛇行したかと思うと倉庫の壁に脇腹から突っ込み、弾かれて横転し、勢い余って三回転半した末、屋根を下にしたまま路面で火花を散らして数メートル滑り、ようやく停止した。

 あっという間の出来事だった。

 アスファルトの上で跳ね起きた中野の脳天に、すかさず同僚の声が降ってきた。

「安心しろよ、彼なら乗ってない」

「窓が真っ黒だったのに、なんでわかるんだよ?」

「あれに乗ってないことはGPSでわかってた」

「クルマを引っくり返す前に、悠長にGPSなんか確認してた?」

「──」

 新井はスマホの画面に目を落とし、何食わぬ面構えで頷いて寄越した。

「大丈夫だ」

「いま見たよな、GPSの情報……?」

 疑念への答えはなく、彼はSUVのほうへ顔を向けた。誰かが出てくる気配は、いまのところまだない。

 新井が歩いていって、クルマが最初に横転した辺りで足を止めた。その左手の先で銀色のライターみたいなものがキラリと光り、煙草も吸わないのにそんなものを持ち歩いてるんだな──と微かな違和感をおぼえた直後、ポッと点った炎が無造作に地面へ放られていた。

 彼の足もとからSUVまで一直線に伸びる、濡れたような黒い筋。さっきの銃声のどれかがタンクに穴をあけたのか。静かに燃え上がった火の手が、這うように液面を辿りはじめる。先陣を切る反応帯の青い縁取りがドレスの裾のようにガソリンを舐め、目映い炎を従えてSUVへとゆっくり近づいていく。

 時折吹きつける海風に煽られ、次第に火勢が増すのを見物していたら、引っくり返ったクルマのリアドアが勢いよくひらいた。

 車内から這い出てきた坊主頭が、こちらの二人を素早く見比べるなり新井に向かって銃を向けた。まずは武器を持ってるほうから片づけようという肚だったんだろう。

 が、その銃口が完全に持ち上がるよりも早く、新井の弾がソイツの胸倉に撃ち込まれていた。立て続けに二発。

 その間にも炎が前進を続ける一方、クルマに次の動きはない。中にいたのは坊主頭ひとりだったのか、それとも残りの乗員は既にくたばったのか。本当に新井の言うとおり、同居人は乗ってなかったのか──

 引き返してきた同僚に念押しで確かめようと中野は口をひらいた。

 と同時に一発の銃声が倉庫の谷間に木霊し、SUVの向こう側に男が倒れ込むのが見えた。どうやら、まだ生き残りがいたらしく、ここからは死角になってるドアをそっと開けて出たようだ。しかし、撃ったのは新井じゃない。

 無言で目を交わした二人は、示し合わせたように同じ方向に顔を向けた。

 最初にクルマが飛び出してきた角の辺りから、こちらに向かってくる人影があった。急ぐでもなく、遅すぎもしない、特徴のない歩き方。右手の先に拳銃をぶら提げたシルエットは、服装や背格好で遠目でもそうとわかる。坂上だ。

 中野は二番目にくたばった男へと目を戻した。彼が登場したポイントからは、目測でおよそ五十メートル。オリンピックの射撃競技並みの距離感だけど、同程度の種目はハンドガンではなくライフルじゃなかっただろうか。

 考えるともなく思った直後、視線の先でSUVが吹っ飛んだ。

 炎が迫っていくのを他人事みたいに眺めてた中野たちも、本当なら念のために避難しておくべきだったのかもしれない。が、幸いなことに、被害はここまで及ばなかった。

 爆発には見向きもしなかった新井が、近づいてくる人物から中野に目を移した。

「あれがお前の同居人だろ?」

「まぁ、そうみたいだけど。でも、あのクルマに乗ってなかったっていう新井の根拠はGPSだったけどさ、誤差とかスマホが別のところにあったとか、いろんな可能性はあったよな?」

 答えはなく、新井は一見温和な草食男子面を向けて寄越しただけだった。

「一応言っとくけど、彼が死んでも自分の任務に差し支えないとか思ってたら大間違いだからね? 彼が消えたら俺も死んで、新井が責任を問われることになるかもしんないよ?」

「お前にそんな情熱があるなんて思ってないよ、中野」

「優しげな顔でディスんのやめてくんない? 実はみんなの度肝を抜くようなポテンシャルを秘めてるからね、俺」

 その頃にはもう、顔が判別できるくらいの距離に坂上がいた。

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