s1 ep2-3

 救いは、初手の厚顔っぷりはともかく知識が広く話術に長けた女で、決して退屈はしなかったことか。

 それでも二杯目を求められたら、きっといい気分はしないだろう。そう予測して早々に退散することを決めた中野の心は、だから帰り際にこんな誘いを受けたって、もちろん動かされるはずがなかった。

「ねぇ。よかったらこのあと、うちにこない?」

 酒をねだったときよりも熱っぽく囁いた彼女の唇は十分に蠱惑的で、眼差しはたっぷり色気を孕んでいた。が、残念ながら、この手のステレオタイプな武器に魅力を感じるは中野の裡に存在しない。

 しかも彼女は、そう──ロイヤル・ハウスホールドだ。

「せっかくだけど予定があるから」

「残念ね。じゃあ、せめて連絡先を教えてくれないかしら?」

「何のために?」

「もちろん、連絡するためよ」

「もしも再会できたら、そのときに教えるよ。二度目があれば、きっと何かの運命だからね」

 我ながら上出来な回答だったと満足して、中野は店をあとにした。

 ──が。

 山手通りを北上して信号を渡り、住宅地へと潜っていく階段を下りたところで、振り切ったはずの女が何故か前方の角から現れた。

「あら、もう再会できるなんて。これって何かの運命よね?」

 中野は数秒、美しい笑みを無言で眺めた。

 深く抉れた胸もとから覗く豊満な谷間、折れそうに細いウエスト、膝上のドレスからスラリと伸びる脚線美までを順に目で追い、最後に背後を振り返る。

 バーからここに至るまでの道のりは、中野の知る限り最短ルートだった。

 もちろん、地下駐輪場経由で猛ダッシュしてくるとか、山手通りの中央分離帯の柵を乗り越えて横断禁止区域を渡ってくるとか、先回りする手段が皆無とは言わない。

 しかし彼女のアンクルストラップ付きの黒いサンダルは、十センチくらいありそうな細いヒールに支えられている。最低でもソイツを脱がなければ、自力のアクションは不可能に思える。

 となれば乗り物を使うのが現実的だけど、クルマではルートが難しい。かと言って、チャリンコで全力疾走してきたわりには服装の乱れがないし、それらしき自転車も見当たらない。

「安心して、私だけよ」

 女の声に中野は顔を戻した。どうやら、仲間がいることを警戒したとでも勘違いされたようだ。

「ひとつ訊いていい?」

「何かしら?」

「どういう理由で俺を追ってきたわけ?」

「あなたがとっても素敵だからよ」

「へぇ」

「と言いたいところだけど、残念なことに目的はあなたの命。あぁでも、誤解しないで? これが仕事じゃなきゃ、私だってこんな無粋なことは言わずにベッドに誘いたいと思ってるわ」

「まぁ、その最後のとこはどうでもいいよ。で、俺の命がほしい理由は?」

 いちいち確認しなくても、アパートの事件の目撃者だからだろうと見当はついた。そのせいで不便な生活を余儀なくされているわけだから。

 それでも一応尋ねて、中野は女の右手にある小振りな拳銃を見るともなく眺めた。

 坂上の武器と比べたらオモチャみたいに頼りない。だけど本当にオモチャなら、出会ったばかりの赤の他人をわざわざ追いかけてきてソイツを向けたりするなんて相当イカレている。

「そうやって無知な一般人みたいな顔をしても駄目よ。何もかも知ってるんでしょ? じゃなきゃ、彼が自分のテリトリーに踏み込ませるわけがないもの」

「彼って?」

「あら、質問攻めにして時間稼ぎでもしようっていうの?」

「別に、そんなつもりじゃないけどさ。誰の話をしてんのかわかんないし、俺を追ってきたのは人違いじゃないかな」

「いいえ、人違いじゃないわ。あなたが彼をどの名前で呼んでるのかは知らないけど、そうね。これなら私たちも話が通じるかしら? 通称──」

 女の額に黒い穴があいた。

 銃声を聞いた気がしないのは減音器サプレッサー付きだったからなのか、それとも表通りを駆け抜けて行った改造車のバックファイアに紛れたのか。

 アスファルトに崩れ落ちた黒いドレスと、頼りなく転がったオモチャみたいな拳銃。それらを一瞥して中野は内心で舌打ちした。

 あとひと息だったのに──

 そうね、だ。

 あの取り澄ました一語が余計だった。

 名前なんて、あり得ないほど長ったらしくない限り「そうね」と同じくらい短いはずだ。つまり、あの「そうね」さえなければ、いまごろ坂上の通称というヤツを聞けていたってのに。

 全く、もったいぶるからだよな──?

 ついさっき中野が下ってきた階段から、影のような人物が現れた。黒無地のTシャツに細身のブラックデニム、目深に被か ぶった黒いキャップ。

 左手にミネラルウォーターのペットボトルをぶらさげたまま、右手で腰の後ろに鉄砲を仕舞いながら近づいてきた同居人は、そばに立つなり挨拶もなく水のボトルを放って寄越した。

「血の跡を流しといてくれ」

 それだけ言って路上の女を抱え上げ、階段と左手に建つマンションとの間のデッドスペースに入っていく。中野より十五センチ低い上に細身の彼は、屁でもない風情でを奥に下ろしてこちらへ戻ると、そばにあった放置自転車撤去の警告看板をずらして無造作に入口を塞いだ。

 中野は言われたとおりにアスファルトの染みを水で流し、ペットボトルの蓋を締めながら立て看板の向こうにチラリと目を遣った。

「彼女、あんなとこに置いといて平気?」

「すぐ片づけにくるから心配ない」

 誰が、という主語はなかった。少なくとも、朝から街の浄化に勤しむゴミ収集車の作業員じゃないのは確かだろう。

 遠回りして帰るという坂上とともに階段を上って山手通りに引き返し、駅のほうへ向かって歩く途中、コインパーキングの脇に置かれた自販機のゴミ箱に空のペットボトルを捨てて中野はふと漏らした。

「彼女の一番の失敗は、酒のチョイスかもな」

「何の話だ?」

 訊き返されて、バーで高い酒を奢らされたことや店を出る際に誘われて断ったことを説明すると、坂上はチラリと横目を寄越した。

「じゃあ、奢らされたのが安酒だったら家までついてったのか?」

「俺は行かないけど、獲物を懐柔して誘い込みたいなら心証を良くしないとね」

 中野は言い、続けた。

「それはそうとさっきの場所さ、いくら平日の夜で人通りも少ないからって、よく誰も通りかかんなかったよな」

 そこでハッとした。

「待った。誰もいなかったのは幸いだとして、いまどきどこにでも防犯カメラがあるだろ? あそこもどっかに……」

「その心配はない」

 素っ気ない即答が遮る。

「根拠は?」

「そんなもの知ってどうするんだ?」

 別にどうするつもりもなかったから無言で肩を竦めると、相変わらず熱のない口ぶりがポツリと続いた。

「──あんたは、何も知らなくていい」

 その先は会話もなく、二人はブラブラと駅前の交差点まで辿り着いた。どういうルートで帰るつもりなのか、ちょうど青信号に変わった青梅街道の横断歩道を坂上はさっさと渡りはじめる。

「随分と回り道するんだね」

「腹が減ったからメシを食って帰る」

「なんだ、遠回りって夜ごはん? もしかして、食べにいく途中でさっきの現場を通りかかった?」

「ミネラルウォーターと銃を持ってか?」

「銃はともかく、たまにいるだろ? 飲食店にペットボトル持ち込んで飲んじゃうヤツ。しかも空にして置いてったりとかさ」

「そんな非常識と一緒にするな」

 銃を持ち歩く自称常識人は、道路の対岸に渡り切ると駅の出入口から地下に降りていく。これはどうやら、お気に入りの椎茸そばでも食うつもりらしい──と思っていたら、彼は中華料理屋の方向ではなく、ビル内の飲食店街に足を向けた。

「なんだ、中華じゃないのか」

「そのつもりだったけど焼き鳥にする」

「焼き鳥なら、さっきもあったのに」

「いま思いついたんだから、しょうがねぇだろ」

 焼き鳥と言ったわりに、坂上はチェーン居酒屋の席に落ち着くなり中野の意向も訊かずに生ビール二丁と明太子おにぎりをオーダーした。

 ところが、これが俯き気味にボソボソ言うものだから二度訊き返されてもまだ伝わらず、三度目は見かねた中野が代わりに伝えて、ようやく店員が去った。

「もうちょっと大きい声で言いなよ」

「言ってる」

 意固地な主張に、反論はしないことにする。

「初っ端からおにぎりなんて、よっぽど腹が減ってたんだね」

「だから減ってるって言っただろ」

 すぐにジョッキ二丁がやってきた。蒸し暑い夜、アクシデントに見舞われたあとの冷えたアルコールは格別だった。殊に、バーでの酒が旨くなかったこともあり──決して店の責任じゃなく、隣にいた客のせいで──こうして同居人とサシで飲む時間が、いつにも増して贅沢に感じられた。

「で、ほかは何を食べんの?」

 ビールを一気に減らした中野がメニューを眺めて尋ねると、頰杖を突いた坂上が抑えた声を寄越した。

「あんた、あんなことがあったばっかりでよく平気だな」

「うん? 平気じゃないよ。彼女が回収される前に無関係の通行人に発見されたり、どこかに映像が残ってたりしないか大いに心配してるよ。でも、大丈夫って言われたら気にしてもしょうがないしね」

「そういうことじゃなくて……前のアパートのときもそうだったけど、動じなさすぎじゃねぇか?」

「いまさら、あんたがそれを言う?」

 中野はメニューから目を上げて、こう続けた。

「まぁ、そういう人格を選んで生まれたわけじゃないからどうしようもないな。けど、前にあんたも言っただろ? 他人は代替可能なパーツでしかない、みたいなこと」

 坂上は無言で聞いている。

「自分の命を狙いにきた殺し屋なんて、俺にとっちゃパーツですらない。それが目の前でくたばったところで、いちいち──」

 言いかけて正面の表情に気づいた。妙に硬い色合いがそこにあった。

 あの女と同業の匂いがする坂上を前に、殺し屋はパーツ未満だなんて発言は不適切だったかもしれない。中野は思い、素早く話の軌道を調整した。

「あんたの仕事が何であれ、そういう出会い方をしたわけじゃないんだから別だよ? あんたはパーツなんかじゃないし、交換可能でもない」

「そんなこと訊いてない」

 坂上は短く言って、この話は終わりだとばかりに呼び出しボタンを押した。

 最初のオーダーも中野が代役を務めたくらいなのに、店員なんか呼んで一体どうするつもりなんだろう?

「今度はちゃんと聞こえるように言えるかな?」

 ニヤニヤ笑って首を傾けた中野めがけて、射殺しそうな視線が飛んでくる。

 そのくせ店員が登場すると、坂上はやっぱりシャイな風情たっぷりの面構えでヘルプを求める無言の目を寄越した。

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