s1 ep2-3

 一体、何のつもりだ──? そう一瞬考え、次の一瞬で断ろうと思った。

 しかし奢る理由もない代わり断る理由も別にない。それに酒の一杯を渋るのはアラフォーリーマンの沽券にも関わる気がして、中野は素早く笑顔を作った。

「喜んで」

 すると女はカウンターの向こうのマスターに妖艶な笑みを投げ、躊躇いもなくこう言った。

「ロイヤル・ハウスホールドを」

 待て、ソイツは一杯二千円以上するヤツだよな──?

 ついさっき隣に座ったばかりの見知らぬ赤の他人に奢らせるには、ちょっとお高いんじゃないのか。

 中野は思ったが今さら撤回するわけにもいかず、撤回しないのなら考えてたって仕方がないから、そっと息を吐いて諦めた。

 救いは、女は無茶ぶりのわりに妙に知識が広く話術に長けていて、幸い退屈はしなかったことか。

 が、だからって二杯目を求められたら、きっといい気分はしないに違いない。

 そう己を予測分析して、早々に退散することに決めた中野の心は当然、帰り際にこんな誘いを受けたって動かされようがなかった。

「ねぇ。良かったらこのあと、うちに来ない?」

 囁いた彼女の唇は十分に肉惑的で、眼差しはたっぷり色気を孕んでいた。

 それでも1ミリたりともグラつかなかった理由は、坂上のほうがそそるというのもあるけど、単純に好みのタイプじゃなかったことも大きい。

 一般論で言えば、形が整ってる女は鑑賞に値するし、セクシャルであればあるほど眼福なんだろうとは思う。

 だけどそれとこれとは全く別の話で、しかも彼女は、そう──ロイヤル・ハウスホールドだ。

「せっかくだけど予定があるから」

「残念ね。じゃあ、せめて連絡先を教えてもらえないかしら?」

 中野は少し考えてから答えた。

「もしも再会できたら、そのときに教えるよ。二度目があれば、きっと何かの運命だからね」

 我ながらそこそこ上出来な回答だったと思いながら店を出て、中野は歩き出した。

 が──

 大して時間が経たないうちに、前方の角からさっき振り切ったはずの女が姿を現した。

「あら、もう再会できるなんて。これって何かの運命よね?」

 艶然とした美しい笑みを中野は数秒眺め、深く抉れた胸元から覗く豊満な谷間、折れそうに細いウエスト、短すぎるスカートからスラリと伸びる脚線美を順に目で追って、最後に右手が構える小振りの拳銃を見た。

 坂上が振り回してる鉄砲と比べたらオモチャみたいに頼りなく見えるけど、本当にオモチャなら見知らぬ赤の他人をわざわざ追いかけてきてソイツを向けたりはしないだろう。

 もしそんな人物がいたら頭がイカレてるか、相当な変わり者か……まぁ、どっちにしろイカレてるってことだ。

 だからとりあえず銃は本物だと仮定して、中野は背後を振り返った。

 バーからここに至るまでの道のりは、知る限りでは最短ルートのはずだった。もちろん周囲に神経を尖らせながら歩いてたわけじゃないから、追い越されたことに気づかなかった可能性を完全に否定はできない。

 でも、わざわざ一旦追い越して前方の角から現れるなんてやっぱりイカレてるし、きっと何らかの便利な移動手段でもあるんだろう。

「安心して、私だけよ。今はね」

 女の声に顔を戻した。どうやら仲間がいることを警戒したとでも勘違いされたらしい。

 面倒だし必要もないから訂正はしなかったけど、代わりに中野はこう尋ねた。

「ひとつ訊いていい?」

「何かしら?」

「どういう理由で俺を追ってきたのかな」

「もちろん、あなたがとっても素敵だからよ──って言いたいところだけど。あぁ、誤解しないで? これが仕事でなきゃ、私だって本心からそう言いたいわ。でも残念なことに、目的はあなたの同居人なの」

「──」

「何のことだかわからないって顔をしてもダメ。全部知ってるんでしょ? じゃなきゃ、あの男が自分のテリトリーに他人を入れるわけないもの」

「──」

「それにしても、こんなに呆気なく切り札が手に入るなんて予想外だったわ。さぁ、一緒に来てもらうわよ。彼の反応が見ものね」

 中野は慎重に女の表情を伺い、探るような声にならないよう努めて言った。

「悪いけど、人違いじゃないかな?」

「いいえ、人違いなんかじゃない。あなたが普段どの名前で呼んでるのかは知らないけど、そうね。この名前なら私たちも話が通じるかしら? 通称……」

 女の額に黒い穴が空いた。

 銃声を聞いた気がしないのは、ちょうど表通りを駆け抜けて行った改造車のバックファイアに紛れたせいか。

 アスファルトに崩れ落ちた身体と、その手から転がったオモチャみたいな拳銃。それらを一瞥して中野は思わず舌打ちを漏らした。

 あとひと息だったのに──

 そうね、だ。

 あの取り澄ました一語が余計だった。

 名前なんて、あり得ないほど長ったらしくない限り「そうね」と同じくらい短いはずだ。

 つまり、それさえなければ坂上の通称ってヤツを聞けてたのに。

 全く、もったいぶるからだよな──?

 角の暗がりから人影が近づいてきた。シンプルな白無地のTシャツと細身のジーンズ、深めに被った紺色のキャップ。

 帽子を被った姿は初めて見た気がするけど、たったいま話題に上っていた当人だ。

「このタイミングってさ……ないよなぁ」

「何が?」

「いや、何でもない」

 まぁ、本名でもない通称ひとつを知ったところで何がどうなるわけじゃない。せいぜいささやかな好奇心の、ほんの一部が満たされる程度だろう。

 それにしても、いくらド平日の夜更けの人通りが少ない界隈で、雑居ビルに左右を挟まれたロケーションだとは言え、よく通行人が現れなかったものだ。

「彼女、あのままにしといて大丈夫?」

 促されて歩き出しながら一応訊いた。

「心配ない、そのうち片付けにくる」

「誰が片付けんの? 朝から街の浄化に勤しむゴミ収集車の作業員が不幸にも発見しちゃうとかじゃないよね?」

 答えはない。

 遠回りして帰るという坂上の隣に並び、中野はブラブラ歩きながら今夜の出来事を反芻した。

「彼女の一番の失敗は、ロイヤル・ハウスホールドかな」

「何の話だ?」

 バーで高い酒を奢らされたこと、店を出る際に誘われて断ったことを説明すると、坂上は気のない横顔を見せたままこう言った。

「じゃあ奢らされたのが安酒だったら、ついてってたかもしんねぇってことか?」

「行かないね」

 中野は笑った。

「そんな時間の使い方をするぐらいなら、さっさと家に帰るよ。あんたがいるなら尚更ね」

「──」

「遠回りの散歩、近道に変更する?」

 相槌すらない完全な無反応ではあったけど、数歩進んだ坂上の足が不意に向きを変えた。

 彼らが暮らす、古びた建物のある方角へと。

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