第九十八話 崩れゆく誓いを前にして

 イシバシくんは、私を連れて福海駅へと向かった。

 真っ先にキャリーバッグをコインロッカーへ預け、そのまま切符売り場へ歩いて行く。こんな時間からどこへ行くと言うのだろう、家まで送る、なんて言い出さないだろうか……実家を出たことを知っているのか、私はそんな些細なことすら聞けずにいる。

 今のイシバシくんは、とても遠い存在に見えた。心だけはいつも一緒だなんて、そんな綺麗事では埋められないほどの距離を感じた。

 ずっと逃げ回っていた私には、それを寂しがる資格すらないのかもしれなかった。


「ねぇ、どこに行くの?」

「どこだろうな、お楽しみだ」


 そう言いながら、彼は券売機で切符を一枚だけ買った。私もICカードくらい持ってるんだけど、それを確かめようともしない。


「私、Fuchicaフチカ持ってるのに」

「俺が付き合わせるんだから、俺が出すのが道理だろう?」


 その言い回しが彼らしくて、懐かしさを覚えて、自分の頬が緩むのがわかった。

 手を引かれることもなく、それぞれにホームへと歩いていく。渡された切符に書かれた運賃を見て、きっと福海大へ行こうとしているのだと思った。実家の最寄駅には四十円足りないし、他に用事がありそうな場所もない。

 公共交通機関を使うのは久しぶりだった。東京みたいな都会なら、誰も私など見向きもしないだろうけど、福海の街では目立ってしまう。特に電車は車内広告に自分が起用されていたりすることもあるから、うっかり並んで立とうものなら「私です!」と言っているようなもので、何となく利用を避けてしまうのだ。

 普段は使わない黒縁眼鏡をかけると、イシバシくんが「本当に何でも似合うよな」と言って笑う。この人はいつだってそう言うんだ。お別れの日、いきなり小学生みたいな髪型になって空港へ戻ったのに、この人は「何だって似合う」と言い切ったのだから。

 乗り込んだ電車のドアが閉まり、一度だけ大きくがこんと揺れて、少しずつ身体に圧がかかる。

 私たちは言葉を交わさなかった。六年ぶりなのだから、話題なんて山ほどあるはずなんだけど、何から伝えればいいのかもわからない……イシバシくんも、同じように迷っているのだろうか。

 それでも彼は昔のように、私を壁際に寄せて人ごみからガードしてくれた。そういうところは変わらないのだと気付いて、少しずつ実感が湧いてくる。

 いま目の前にいるのは、本当にイシバシくんなんだ。


「ここで喋っても、平気か?」


 周囲を気にするように、イシバシくんの視線が車内へ向いた。混んではいるけれど、私を気にしているような人は見当たらなかった。


「大丈夫だよ」

「そうか。じゃあ、よければ話を聞かせて欲しい。離れていた間のこと」


 離れていた六年間に起こったことで、彼に伝えたいこと……何があるだろう。友達の近況は直接聞いていそうだし、仕事のことくらいしか話すことはないけれど、それこそ周囲に聞かれるのには抵抗があった。

 何を話せばいいのか悩んでいると、イシバシくんはフフン、と鼻で笑った。


「あれこれ考えるのは、変わらないんだな……じゃあ、ずっと気になっていたことを聞くぞ。匿名掲示板の話は、結局あの後どうなったんだ?」

「あっ、聞いてないんだ?」


 てっきりメイくんかヒマちゃん辺りから聞いていると思っていたので、すっかり話題から外していた。決して楽しい話ではないし、久しぶりの再会でこんな話をするのもどうなのかな、という気持ちもあった。できれば軽く流してしまいたい。


「ええと、結局あの書き込み、レミナさんの取り巻きの三人だったの」

「やっぱりか。それで? あんなことをしでかした理由は何だったんだ?」

「それは……」


 この先を口にするには、少しの躊躇があった。本当に馬鹿馬鹿しい、被害者側としても情けなくなる理由。

 それでも彼には、真相を話しておくべきなのだろう。


死ぬほど嫌いだったから」

「は?」


 何を言い出したんだ、と言わんばかりの顔をされた。そう思うのはわかるのだけど、彼女たちの言った理由は本当に、このままの言葉だったのだ。


「レミナさんに好かれてるミキちゃんが気に入らなくて、チームから追い出そうとして、濡れ衣を着せる計画を立てたんだって。わざわざ私に書き込みのことを教えたのに、ミキちゃんの悪口を言い触らさなかったから、再投稿を繰り返したみたい」


 私の口からは、えへへ、と謎の笑いがこぼれた。この件について話す時はいつも、笑うしかないという気持ちになってしまうのだ。私は完全に巻き込まれただけの、いわば貰い事故だったのだから。


「あれくらいで訴えるなんて大げさだとか、わざわざ自分たちでやったことを触れ回って、福海のコスプレイベントは全部出入り禁止になってね。それも私が捻じ込んだんだって言い出したから、結局まとめて弁護士さんにお願いすることになって……せめて素直に謝ってくれたら、大事にしないで済んだんだけどなぁ」

「……まぁ、手のつけられないバカにはきちんとわからせておいた方がいい。本当に災難だったな、お疲れさん」


 イシバシくんは呆れたような顔で、車窓の外へと視線を投げた。

 こんな雰囲気で会話が途切れるのは気まずかったので、明るいオチをつけておくことにした。もしかしたら、とっくに誰かから聞いてるかもしれないけれど。


「でね、それがきっかけでコスプレをやめちゃったレミナさんは、二年後にミヤさんと結婚したのでしたっ」

「おっ、マジか。収まるところに収まった感じだな、めでたいな」


 どうやら知らなかったらしいイシバシくんの表情が、明るくなる。

 あの二人が結婚を決めた時、私たちはみんな心から祝福したのだ。レミナさんは人が変わったように優しくなったし、ミヤさんも本当に幸せそうだったから。

 ミキちゃんたちが最初に見ていた「優しいレミナさん」も、偽りのない彼女の一部だったのだ――そう思うことができたから、今の私は彼女を許している。


「でね、ムスメちゃんが一人いるんだけど、レミナさん似ですっごく可愛いんだよ。サークル全員デレデレしてるの、親戚みたいな顔してるオジサンとオバサンがいっぱい! もちろん私もなんだけどね?」

「ははは、その子に姫の座を奪われたな?」

「仕方ないのっ! 子供と動物には勝てないって言うじゃない?」

「そうかそうか。オノミチにも、勝てないものがあったか」


 イシバシくんは楽しげに、そしてちょっとだけ意地の悪い笑みを浮かべて、私の顔を覗きこんだ。


 電車を降りたのは予想通りの大学前駅で、プライベートで来るのは久しぶりだった。駅周辺はあまり在学中と変化はなく、大きく変わったことと言えば、駅前広場の灰皿が撤去された代わりに花壇が置かれた程度だ。


「あれから、この辺りには全然来てないの?」

「ん……まあ、な」


 イシバシくんは私の問いをはぐらかすように、曖昧に返事をした。

 思えば彼は復学の手続きを取った後、一度も講義を受けることなく辞めてしまったのだ。教授たちが熱心に引き止めていた人だから、大学周辺へ立ち寄るのは避けていたのかもしれない。

 彼の足は、住んでいたアパートの方へ向かっていた。大学のキャンパスには入らず、住宅街を歩いて行く。駐車場だったところに住宅が建っていたりはしたけれど、町の空気は変わっていない。古くて小さなアパートもそのまま残っていて、イシバシくんは敷地の入口に立ち、懐かしそうに「美術科の巣」を見つめていた。


 イシバシくんが出て行った後の二〇四号室には、卒業までの二年間はニッシーが住んでいて、メグミちゃんが合鍵を持っていたこともあり、すっかり仲間内の溜まり場になっていた。「お兄ちゃんはちゃんと青春して!」と言い残して学校の寮に入ったユズカちゃんは、週末だけニッシーの部屋に帰って来る生活だった。

 実質二人暮らしの部屋は生活感に溢れていて、イシバシくんが置いていったシングルベッドは二段ベッドに取って代わられ、油絵関連のものよりも漫画の単行本やアニメのDVDが多く並んでいた。ニッシーが室内での喫煙禁止を言い渡し、チガヤちゃんが禁煙に踏み切ったりもした。

 それでも、私の心の中にある二〇四号室は、画材と煙草の匂いがする部屋のままだった。

 本来は和室だったはずの、フローリングに改装されている部屋。

 床にこびりついた油絵の具、本棚から溢れる画集や技法書、ありとあらゆる場所に山と積まれたキャンバスやスケッチブック。

 窓から射し込む陽の光が日溜まりを作って、シーツのかかったソファーの上に全裸で寝そべる私の輪郭を確かなものにする。

 そんな私を、頬を紅潮させたイシバシくんがキャンバスへ写し取っていく。

 まだ毒気のある態度で自分を守っていた彼も、私を描く時は本当に優しかった。

 愛を届ける言葉は無くても、その表情が、声が、私を大切に想っていると伝えてくれた。

 瞬きのように短い時間だったけど、彼の世界は確かに私を受け入れてくれていた。

 幸せな記憶に浸っていると、イシバシくんが寂しげに「見納めだ」と言った。


「建て替えが決まったらしい」

「……そうなの?」

福芸堂ふくげいどうの店長に聞いた話だから、間違いないと思う。美術科絡みのことなら何でも知ってる人だからな」


 福芸堂は、イシバシくんがバイトをしていた画材屋さんだ。今も付き合いがあるというのも驚いたけど、美術科ネットワークにもびっくりする。英語学科うちではまず考えられない。

 時代に合わなくなったんだろうな、とイシバシくんは言った。


「俺にとっては、これ以上ないくらいに居心地のいい棲家だったんだがな……二年しか暮らさなかったのに、故郷が無くなるみたいな気分だよ」


 イシバシくんは私の手を取り、そっと指を絡めてきた。


「もう一度、一緒に見ておきたかったんだ」


 私の気持ちを確かめるように、繋いだ指へゆっくりと力が込められていく。

 それは、初めて手を繋いだ時と同じだった。あの夜の切なさや愛おしさを、私は今もはっきりと思い出せる。

 彼と同じ月を見て、同じ気持ちになりたかったことも。


「オノミチさえ良かったら、なんだが……海を、見に行かないか?」


 いいよ、と返事をした。私たちが「海に行こう」と言ったら、行き先は一つしかなかった。

 わざわざ確かめることもなく、手を繋いだまま歩き出す。会話はなかったけれど、不安もなかった。指先から伝わる温もりが、今の私たちを繋いでくれているから。


 試験明けになれば学生だらけになる砂浜も、今はまだ人影はなく、夜の海は寂しげだ。吹いてくる風はひんやりとしていたけれど、どこか日中の熱が残っている。

 静かな海を見ながら飲み直すことにして、近くのコンビニでお酒を数本ずつ買ってきた。

 披露宴帰りのフォーマルな服装なのに、イシバシくんはそれを気に留める様子もなく、砂の上へと座りこむ。躊躇する私に気付いた彼は当然のように自分のジャケットを敷き、高そうな黒いスーツはあっという間に砂まみれになった。


「立ったままだと飲み辛いだろ。それとも俺の膝の上に座るか?」


 すごい言葉で促され、申し訳ない気分でジャケットの上に腰を下ろす。彼はポケットからライターを取り出して、コンビニで買った煙草に火を点けた。懐かしい匂いがする。

 乾杯をした後は、月明かりで輝く海を眺めていた。

 イシバシくんは、一口しか飲んでいないビールの缶を砂に挿したまま、ひたすら煙草を吸い続けていた。この沈黙すらも懐かしくて、うっかり寄りかかってしまいたくなる。私は軽く姿勢を正し、黙ったままで缶チューハイを飲み続けた。

 私が二本目の缶チューハイを飲み終える頃、煙草の吸殻を携帯灰皿に捻じ込んだ彼は、急に自分の頭をわしわしと掻いた。そうやって派手に髪型を崩すと、そのまま流れるような動作でシルバーグレーのネクタイを外し、白いシャツの袖を乱雑に捲る。

 そうして目の前に現れたのは、ボサボサ頭で野暮ったい「美術科のイシバシくん」だった。


「オノミチは、バレンタインの夜のことを覚えているか?」

「覚えてるよ……忘れたり、しないよ」


 イシバシくんは、愛おしいものを見るように目を細めた。

 あの日の出来事は、深く傷付いた記憶のはずだ。それでも彼は、私との思い出を大切にしてくれている。


「俺は、死ぬまでオノミチを愛してると言ったよな。大声で、恥ずかしげもなく叫んだな……本気だったよ。あれは、俺の誓いだった」


 この六年で自分がしてきたことを思えば、絶対にありえないことだとわかるのに、期待する気持ちが止められなかった。


「オノミチ。俺はあの夜のことを、約束の言葉を、一日だって忘れたことはない」


 その言葉が、私の期待を確信に変えてしまう。

 イシバシくんは今でも、私を愛してくれている――それは嬉しいことだったけど、同時に苦しいことでもあった。

 この六年間、連絡さえ取らなかった。福海へ帰ってきた彼を、出迎えることすらしなかった。そんな私を、この人はどう思っているのだろう……逃げ回ってたことなんてお見通しのくせに、恨み言の一つも言わないままだ。


「私も、忘れてない。あの言葉が、ずっと私の支えだったよ」


 どの口がそれを言うんだ、と我ながら思う。それでも伝えたかった。私にとっても、あの誓いは大切なものだったのだと。


「だったら、どうして俺を避けていた?」


 イシバシくんの表情は曇り、寂しげに問いかけてくる。私が返事をする前に、彼はゆっくりと頭を振った。


「オノミチ、嘘はつかなくていい。待たなくていいと言ったのは、俺の方だ」


 そう言って、イシバシくんが力無く微笑む。私が待てなかったと思っているのだ。

 それは当然の結果だった。

 何年も音信不通のままで、あんな約束を信じ続けるなんて、いくら彼でもありえないに決まっていた。

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