第八十七話 真実の向こう側へ(一)

 春分の日、コスプレイベントが開催される日の朝。

 私は自宅の最寄駅前で、ハヤトくんと一緒に、メイくんが運転するハイエースへ乗り込んだ。お父さんが「月末まではうちに泊まるといい」と言ったから、今もハヤトくんは毎日、私の家で夜を過ごしている。


「みんなおはよー! 今日もよろしくねっ!」


 私が声を掛けると、サークル全員が挨拶とも奇声ともつかない声を出し、一気に車内が騒々しくなった。何となく、これをやらないと「リコリス」のスイッチが入らない。

 車内には、サークルのみんなと一緒にチガヤちゃんがいた。最後列の真ん中に一人で座っている彼女は緊張している様子もなく、私たちに手を振っている。私がチガヤちゃんの隣に座ると、ハヤトくんは適当に空いている席へ腰を下ろした。


「よかったー、会場まで一人かと思っちゃった。誰も隣に座ってくれないんだもん」

「ごめんね、みんな照れ屋さんなの。女の子の隣は恥ずかしいみたい」


 そう、チガヤちゃんが一人で座っていたのは、みんな照れてしまって女の子の隣に座ろうとしないからだ……私の隣にだって、いつもメイくんとミヤさんしか座らないのだ。何それピュアすぎるんだけど、とチガヤちゃんが小声で笑った。


「いやー、リコちゃんは今日も最高に可愛いなぁ! あっ、もちろんイシバシも男前だぞ!」


 助手席に陣取っていたミヤさんが謎のフォローを付け足してしまい、みんなが声をあげて笑っている。車内を見渡すと、トッキーがこちらを振り返りながら「ショウカさんとご一緒できるなんて緊張するッス」と頬を赤らめていた。私の視線に気付いたテルくんは、帽子を取りながら「見て見てリコちゃん、ケガのせいで毛がない!」と先日の傷痕を見せてきて、カンジくんがくっだらねぇなと笑い転げている。

 そんな中、ハヤトくんはクキちゃんの隣に座っていた。


「イシバシさん、お久しぶりです……あの、今日は、よろしくお願いします」

「こちらこそ。俺、初めてで何もわからないんだ。頼りにしてるよ、クキタ先輩」

「先輩だなんてそんな……でも撮影のことでしたら、少しはお役に立てるかもしれません」

「じゃあ、リコリスの足を引っ張らないポーズの取り方、教えてくれたら助かるよ」

「僕で良ければ」


 夏の出来事など忘れてしまったように、二人は親しげに喋っている。

 私の大好きな人たちが、みんな仲良くなってくれたら、そんなに嬉しいことはない。


「そろそろ行くよー、ミヤさんお願い」

「よし、それじゃみんな! 今日もマナー重視で楽しく撮ろう!」


 メイくんの合図でミヤさんが声を出し、みんながイェッサー、とそれに同調する。いつもの儀式を経て、車はゆっくりと動き出した。

 今日も、素敵な撮影ができますように……チガヤちゃんとハヤトくん、半笑いのような気もするけど。こういうことは慣れだよね。


 会場は福海市内のイベントホールで、地下駐車場から荷物を抱えて入場受付まで歩く。同人誌即売会の一部ではない単独イベントなので、お客さんのほとんどはコスプレイヤーかカメラマンだ。

 時折、こちらを見ながらヒソヒソと何かを話す人たちもいる。そこには悪い噂だけではなく、良い噂もある。私を見て眉をひそめる人もいれば、羨望の眼差しを向ける人もいるのだ。

 そもそも悪口だって、興味があることの裏返しだ。だからこういう場所で聞こえる言葉は気にならないし、基本的には聞こえないフリをしている。だけどさすがに大声で「デキてたりして!」と聞こえた時は笑ってしまった。噂の相手が、まさかのチガヤちゃんだったから。

 こんな状況を初めて目の当たりにしたハヤトくんが、心配そうに「大丈夫か?」と私に囁いた。だから「注目されてる証拠なのっ☆」と囁き返すと、彼は苦笑しながら「流石だな」と言った。

 入場料を払って通行証を貰い、男の子たちと別れて女子更衣室に入ると、そこは既に戦場だった。

 所狭しと散らかるバッグや衣類、衣装、メイク道具。一人でとんでもない面積を占有するような子もいて、十分な広さはあるはずなのに、スペースに余裕がない。

 私とチガヤちゃんは、部屋の中央付近の隙間に陣取って、なるべく荷物を広げないように着替え始めた。

 ハロウィンの時に着用した「まほペン」の魔法使い養成所の制服から、ハロウィン用デコレーションを外した通常版。男子も女子も同じ黒のローブとマントだから、小道具や髪型でキャラクターの個性を演出していく。

 私はヒロインの「サリエット」なので、彼女が使う魔法杖ロッドに似せて作ったステッキを用意して貰った。ちなみにメイくんも、主人公「エヴェン」が使う魔法短杖ワンドを作って貰っているはずだ。

 この手の小道具は、いつもミヤさんが作ってくれる。硬さのある小道具は危険物として運営預かりにされてしまうイベントもあるので、ミヤさんが使う素材はだいたいウレタンか紙類だ。今回はウレタン製。

 制服を綺麗に着付けたあとは、キツい三つ編みにした赤毛のウィッグを被れば出来上がり。

 チガヤちゃんは主人公のライバル「ルベラス」のコスプレで、銀の長髪を後ろで一つに結んだウィッグを被っている。小道具は決闘の時に装着していた腕輪と、愛用する魔法長杖スタッフを用意していた。まさかの三つ折状態でバッグから出てきた杖は、どう見ても布系の素材だ。


「スポンジ製?」

「うん。ちょっとチャチだけど、長さがあるからウレタンも怖くて」

「作りはいいと思う。撮影の時、折りジワどうする?」

「それよー。もう構えるフリして引っ張るしかないかなって」

「あはは、引っ張っちゃうかぁ!」


 笑いながら着替えて、いざウィッグを着用しようとすると、私のバッグの中からウィッグの入った袋だけが忽然と消えていた。


「えっ、どうしてないんだろう……さっきまでここに入ってたのに」

「ええ? あんな大きさの袋、そう簡単に失くさないでしょう?」

「バッグ開けっ放しで置いてたから、誰かの小道具に引っ掛かっちゃったのかな」


 チガヤちゃんと二人で周囲を見回していると、隣で着替えていた高校生くらいの二人組が、小さな声で「あの……」と声をかけてきた。


「ピンクの袋でしたら、青いウィッグ着けた男装のひとが持って行きました」

「普通にバッグから取って行ったから、てっきり知り合いなのかと思って……」


 声をかければ良かったと半泣きで謝る彼女たちをなだめて、私たちは荷物をまとめて外へ出た。

 更衣室の前に設置されていたゴミ箱の中に、見慣れた袋が入っていた。


 袋は少し汚れていたけど、内側にビニール袋を重ねていたので中身は無傷だった。型崩れもなくそのまま使うことができて、二人揃って胸を撫で下ろす。

 床に放置していたわけではない、私のバッグからはみ出していた袋を持っていったのだから、誰かが故意に捨てたということになる。

 青いウィッグを着けた、男装のレイヤー。私もチガヤちゃんも、おそらくミキちゃんだろうという意見で一致した。あの子が最近よく着ている衣装は「もんすたー☆あいどる」という乙女ゲームの人気キャラ、イェティラだ。私はあまり詳しくないけど、雪男と吸血鬼のハーフとかなんとか……ええと、つまり、髪が青い。

 あの子ならウィッグを盗む前に見つかっても、何なら勝手にバッグの中へ手を入れた現場を見られても、特に悪びれもしない気がする。だけどまさか、盗んで捨てるとは思わなかった。

 そこまでするのかと思うと、今更とはいえ悲しかった。親友だと信じていた頃のミキちゃんは、本当にいい子だったから。いつも強気で明るくて、時にはハチャメチャだったけど……私はずっと、そんなあの子が好きだったのだ。


 ウィッグの件は黙っていることにして、私たちはフロアに出た。この瞬間から、私は「小野道オノミチ理子リコ」じゃない。コスプレイヤーの「リコリス」なのだ。


「行こう、リコリス」


 チガヤちゃんは「ショウカ」の顔になって、私をエスコートしてくれる。男装の時は男性的に振る舞うのがショウカ流だ。


「うん、ショウカちゃん」


 並んで歩く私たちに、周囲の視線がちらほら向いた。壁際にいる男の子たちを見つけて手を振ると、サークルのみんなが振り返してくれる。コスプレに不慣れな男子二人は、着付けから髪のセットまでクキちゃんが手伝ったらしい。

 合流して早々、ミヤさんから四人で壁を背に並ぶよう指示が出る。混み合う前に集合写真を撮るという「副代表」の判断だ。


「リコリスは健在だって、見せつけてやろうぜ?」


 ミヤさんが、私を見つめてニヤリと笑った。舌なめずりでもしそうな笑顔は、普段の彼とは全く違う。

 うちのカメラマンたちは、撮影になると人が変わってしまう。そんな彼らのことを、私は心の底から愛しているのだ。


「それでは、よろしくお願いします!」


 ミヤさんの合図。私とチガヤちゃんがポーズを取ると、少し遅れてメイくんが倣う。ハヤトくんだけは小道具がないので、作中に出てくるフクロウのぬいぐるみを抱きかかえた。

 私たちを囲むカメラが光り、シャッター音が降り注ぐ。カメラマンだけじゃなく、周囲にいる人たちの全てが、私たち四人へ注目している。久しぶりに浴びる視線が気持ちいい――ああ、私の大好きな時間だ!

 高揚する自分を抑えながらポーズを取り、ふと隣を見ると、メイくんが完全に固まっていた。


「メイくん、こっち向いて☆」


 小声で囁き、恋人同士のように見つめ合った。視界が見慣れた顔になって落ち着いたメイくんは、どうにか普段通りの笑顔を作る。本当に主人公そっくりで、作中のイメージ通りな私たちを見て、ギャラリーの女の子たちがきゃあきゃあ騒いでいる。

 チガヤちゃんは流石の安定感で、私たちが映えるように立ち回っていた。割り込むようで割り込まない、引いてるようで惹きつける。彼女は周囲を引き立たせるのが抜群に上手い。常に人気のないキャラばかりを押し付けられて、それでもコスプレを続けてきた「ショウカ」の意地だ。

 ハヤトくんは私が大改造した衣装を着て、主人公たちの兄弟子だ。立っているだけで良かったのだけど、キャラそのままに絡んできた。クキちゃんから叩き込まれたに違いない。


「リコリス、最高に綺麗だ! こっちに視線!」

「ショウカさーん! リコさんとの絡み下さい!」

「メイはいつまでも照れてんじゃねー!」

「イシバシさんいいですよ、そのまま三秒止まって下さい!」

「次はこちら側を正面で!」


 カメラのファインダー越しに私たちを見ている彼らが、矢継ぎ早に指示や賞賛の言葉を飛ばしてくる。その表情はとても嬉しそうで、みんな本当に楽しそうで、私もどんどん楽しくなってくる。

 この幸せな時間が、ずっとずっと続いてくれたらいいのにな――そんな気持ちが溢れ出して、うっかり表情を崩してしまいそうだった。

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