旅立ちの春、それぞれの選択

第七十八話 折れた心、止まった絵筆

 三月に入っても、壊れてしまった私たちの関係に、回復の兆しは見えなかった。

 ヒマちゃんはメッセンジャーのグループを脱退してしまい、困惑するみんなにどう説明すればいいのかわからずにいると、普段はほとんど発言をしないメイくんが「僕とケンカ中、すぐ戻ってくるから待ってて」と投稿してくれた。

 実際はメイくんだけが連絡を取れている状態で、それでも会っては貰えないのだと困り果てている。直接家に押しかけても、あのマンションは要塞みたいなものだ。ちなみに私からのメッセは既読こそ付くものの、一度も返信が来たことはない。

 そんなヒマちゃんとの膠着ぶりとは裏腹に、ハヤトくんと私の日常は、すっかり様子が変わってしまった。


 三月最初の週末は、たまたまバイトがお休みだった。それでも私はいつもの時間に、ハヤトくんのアパートへと顔を出す。

 説得の甲斐あって、ハヤトくんは即座にアパートを引き払うことだけは思い止まってくれた。それでも東京へ行くという意思は固いようで、少しずつ部屋の荷物を片付けたりしている。

 私と二人で選んだベッドは、真っ先に処分してしまった。

 バレンタインの夜、冷えた身体で部屋へ戻った私たちは、あのベッドで眠ろうとしたのだ。シーツを替えれば平気だろう、ぐらいの気持ちで。だけどハヤトくんは、ベッドへ横になるなり吐いてしまった。

 その日は二人で毛布に包まって、アトリエの床で眠った。真っ暗な部屋が嫌だと言うので、明かりは一晩中消さなかった。

 翌日スガ先輩に相談すると、どこかからシングルベッドを運んで来てくれて、入れ替えまで手伝ってくれた。

 ベッドで眠れるようになっても、部屋の明かりは消せないままだ。


 鍵を開けて、通い慣れた部屋へと入る。台所は冷え冷えとしていて、煙草の吸殻が灰皿の中で大きな山を作っていた。

 アトリエの明かりは点いたままで、彼はまだベッドで眠っている。私はカラーボックスへバッグとコートを入れると、ベッドの脇に座り、そっと彼へ寄り添った。


「リコ……」


 彼の唇から、私の名が零れる。そのまま口付けてしまいたかったけど、私は彼に声をかけた。


「おはよう、ハヤトくん」


 彼の目が開いて、じっと私を見つめる。本当に私なのかを確認するように。ようやく口の端が緩んだところで、私は彼にキスをした。

 キスする前に、工程が一つ増えただけ。たったそれだけのことだ。


「ねぇ、する?」

「したい……」


 甘えた声を発した彼が、身体をベッドの端に寄せた。私は手早く自分の服を脱ぎ、下着姿で空いた隙間へ潜り込み、彼と一緒に毛布を被った。

 ハヤトくんは、時間さえあれば私を求めるようになった。体力が尽きても、繋がったままで眠りたがった。動きが荒々しい時もあるけど、決して何かを無理強いすることはない。そこには確かに愛があるのだと、いつだって私は信じている。

 片時も離れていたくない、そう言われているような気がした。

 ハヤトくんはベッドで私を抱く時、必ず一度は全身にくまなくキスをしてくれる。今も私の下着を脱がせて、身体の全てを確かめるように、唇で丁寧に触れてゆく。


「ごめんな、リコ……もう二度と、間違えないから……」


 優しい声色の、哀しい言葉だった。彼の心の奥底には、簡単には癒えないであろう傷が、こんなにもはっきりと残っているのだ。

 ハヤトくんはゆっくりと私の中に入って来て、耳元で「声が聞きたい」と囁いた。以前はいつも「声は我慢だ」と言っていたのだけれど、今は目を閉じると混乱してしまうらしい。

 壁の薄いアパートだから、スガ先輩には聞こえてしまう。だけど私は応じることに決めていた。


「ハヤトくんっ、好き……っ!」

「俺も好きだっ、リコっ」


 出来るだけ抑えた声を出す私を、煽るように激しく揺さぶってくる。軋むベッドの音は、まるで苦しさを訴える悲鳴みたいだった。


「俺はっ、リコだけなんだっ……!」


 誰に聞かれても構わないとでも言いたげに、ハヤトくんが吠える。

 彼の全てを、受け止めたかった。


 ハヤトくんが落ち着いてから、ごはんにしよっか、と声をかけた。この部屋での朝食の支度は彼の担当なので、私は先にシャワーを浴びた。

 本日は、サバマヨトーストが初採用になっていた。玉子焼きは少し焦げている。他愛もない話をしながら、温かな朝食を笑顔で食べた。何故か食事の時だけは、彼の表情はとても穏やかだ。

 食事が終わるタイミングで、私好みのカフェオレを目の前に、ひとつ深呼吸をする。どうしても言いたいことがあって、ぐっと気合を入れた。


「ねぇ、ハヤトくん! 今日は、私の絵を描いて欲しいな!」


 明るく言ったつもりだった。顔は引きつっていたかもしれない。

 一番大きな彼の変化は、全く絵を描かなくなったことだった。あの日から絵筆どころか、鉛筆を握る姿すら見ていない。このままでは、彼が二度と絵を描かなくなってしまいそうで、私はとても怖かったのだ。

 ダメかなと畳み掛けると、ハヤトくんは目を閉じて少し考えた後、わかった、と言った。


「リコの願いなら、叶えないとな」


 彼は笑って立ち上がり、そのままアトリエへと入って行った。しかし、準備をしようとイーゼルへ手をかけた途端にううっと呻き、口元を押さえてお手洗いへ駆け出して行った。


「えっ……大丈夫!?」


 慌てて後を追うと、彼はお手洗いの床に膝をついて、食べたばかりの朝食を全て吐き出していた。


「すまん、駄目なんだ……すまん……」


 ハヤトくんは、切れ切れの声で何度も私に謝り続けた。 


 ダイニングチェアに腰掛けた彼は、真っ青な顔をしていた。何も言わずに、ただぼんやりと俯いている。

 コーヒーの代わりにお白湯を注いだマグカップを置いて、彼の言葉を待ったけれど、何かを言おうとする気配はなかった。

 話を聞くのが怖かった。だけど、聞くしかなかった。あのタイミングで具合が悪くなったのは、絶対に偶然なんかじゃない。


「描けないの……?」


 私の問いに、ハヤトくんは軽く唇を噛んで目を閉じた。


「ああ……描けない。描けないんだ」

「どうして」

「ヒマ助を、思い出すからだ」


 目を開けた彼は、幼い子供のように、泣き出しそうな表情をしていた。


「俺にとって……絵を描くということは、ヒマ助と生きてきたってことと、ほとんど同じことなんだよ」


 意味を掴みかねた私に、困ったような笑みを浮かべる。聞いてくれと言う彼の手が、私の手をそっと握った。


「俺たちが子供の頃、母さんは公民館で絵画教室を開いていた。俺とヒマ助は、そこで絵を描くということを教わった」


 オリエさんの、綺麗な笑顔を思い出す。もし今の状況を知ったら、いったいどんな言葉をくれるだろうか。相談なんてできないけれど、何だか無性に会いたくなった。


「それからずっと、一緒に描いてきたんだ。離れていたのは高校だけで、それでも画塾は同じところに通ってた。そして、二人で福海に出てきて――」


 私の手を握る彼の手に、力が篭った。


「いつも一緒だったんだ。授業が終わればこの部屋で、俺と、アイツと、ニシと、カメと……課題やったり、公募用の絵を描いたり。一緒にメシ食って、たまにスガさん誘って酒飲んで、床に転がって雑魚寝して、アイツ平気で俺らに混ざって」


 彼の目からは、涙が零れた。手が震えて、さっきまで青かった顔は、すっかり紅潮していた。


「だってハヤトは私がいなきゃ、すぐ誤解されてケンカになっちゃうでしょって、偉そうに胸張ってさ……描こうとすると、そういうのを思い出すんだ。それだけじゃなく、余計なことまで……!」


 そこまで言ったところで、再び彼の顔は真っ青になった。慌てて私の手を離し、もう一度お手洗いへ駆け込んでいった。


 結局そのまま絵を描いてもらうことなどできるわけもなく、かといってアパートに篭ることが良いことだとも思えず、とにかく出掛けよう、ということになった。

 外へ出ると目の前には青空が広がり、この時期にしては暖かな日だった。私はスプリングコートを着ていたけれど、ハヤトくんは未だに紺色のピーコートを羽織った。


「ああ……今日は、暖かいんだな」


 ハヤトくんは歩きながら、気持ち良さそうに背伸びをした。明るい時間に外へ出るのは、久しぶりなのではないかと思う。


「こんな日は、外の空気を吸っていたいな」

「そうだね、お天気いいもんね。福海神社なんてどう?」


 楽しい時間を演出したくて、私はわざと、普段なら行かないような定番コースを挙げた。大学から少し歩いたところにある神社は、福海大生のデートスポットだ。初詣や合格祈願のピークを外した今の時期なら、それほど人は多くないはずだった。


「お昼、コンビニで買って行く? どこか近くのお店で食べてもいいけど、久しぶりのお外デートだもん!」


 私が笑ったのを見て、ハヤトくんは足を止めた。リコ、と小さく私の名を呼ぶ。


「海に行こう……スケッチブックを取ってきて、いいか?」


 彼の表情は硬かった。いいよと返事をするが早いか、彼は部屋へと駆け出して行く。

 もしかしたら、描けるかもしれない。私との思い出が詰まった、あの砂浜なら――その可能性を、信じたかった。


 私たちしかいない砂浜で、彼は汚れるのも構わず座り込み、キャンバスバッグからスケッチブックを取り出した。

 深呼吸をひとつして、私の顔をじっと見つめる。


「ここで、描きたい」


 私は返事の代わりに微笑んで、パンプスとフットカバーを脱ぎ、裸足で波打ち際を歩き始めた。彼の中にある私との出会いを、目の前で再現してあげたかった。

 三月の海は冷たくて、爪先はあっという間に痺れてしまう。それでも私は絶対に、この歩みを止めたりしない。

 彼の鉛筆は走り、そして会話はなかった。

 私たちが久しぶりに過ごす、やわらかで愛おしい時間だった。

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