第五十二話 姫君は運命を引き寄せる

 次の瞬間、私の口から飛び出たのは、幼い子供のような一言だった。


「やだやだ、絶対にやだっ。ハヤトくんは、会わなくても寂しくないの!?」


 理性的な言葉を選ぶような余裕はなくて、ただ、嫌だと伝えて引き止めたい一心だった。


「俺だって寂しいさ。できることなら毎日だって、朝から晩まで一緒にいたいと思ってるんだからな。嘘じゃないぞ」


 駄々をこねる私を見て、ハヤトくんが諭すように、普段あまり言わないような言葉を届けてくれる。なのに私は、昂ってしまった感情を抑えられなかった。


「だったらなんで、どうして、そばにいてくれないの……!」


 涙声になった私の唇に、ハヤトくんは噛み付くようにキスをした。抵抗してもがく私を半ば無理矢理にベッドへ押し倒し、そしてもう一度、私の唇を吸った。少しずつ丁寧になっていくのを感じて、その唇を受け入れてしまう。

 しばらく深い口付けを交わして、そっと唇が離れても、彼は私に覆い被さったままだった。


「リコが目の前で迷ってたら、俺は、言ってはいけないことを口にしそうなんだ」

「言ってよ……言ってくれたら、私」


 その通りにするのに、と続くはずだった言葉は、彼の唇に邪魔されてしまった。そのキスに、私はもう抵抗できない……再び触れた唇の熱は、愛情なのだと知っているから。

 大人しくなった私の頬に、ハヤトくんはそっと頬擦りをした。


「リコの歩く道は、リコ自身が決めるべきだ。俺の言葉で決めてしまえば、いつかそこから亀裂が入る。そんな別れ方、俺は絶対に御免だからな」


 弱さからくる私の泣き言を、彼はそのまま受け入れたりしない。その場限りの甘い顔など絶対にしない。それが、私の大好きなハヤトくんだ。


「どんな道であろうとも、決めた道なら迷わず進め。俺はそんなリコが好きだし、何があろうとリコの味方だ」


 彼の優しさがわかるから、余計に胸が苦しくなる。堪えきれずに溢れた涙をそのままに、その背中へと腕を伸ばした。


「大好きだよ、本当だよ……私、酷い彼女だけど……!」

「リコは酷くなんかないし、気持ちはきちんと届いてる。何も心配いらない……泣かなくて、いいんだ」


 私たちは、強く抱き合った。肌が直接触れ合わなくても、伝わる体温が愛おしくて、もう一秒だって離れたくない……帰りたく、ない。このままずっと、時間が止まってしまえばいいのに。


「クリスマスには、会えるよね……」


 彼の胸に顔を埋めたままで零した、私の小さな呟き。彼はふふっ、と小さく笑った。


「たとえ答えが出なくても、イブには姫を迎えに行くさ」


 それだけ聞ければ、十分だった。

 石橋イシバシ隼人ハヤトという人は、守れもしない約束ならば、初めからしない人だから。


 終電で帰るつもりだったのだけど、ハヤトくんが私を家まで送ってくれることになった。今日は少しでも長く一緒にいたいんだ、なんて言われたら、もう断れるわけがなかった。

 アパートを出る時、ハヤトくんが私のコートを見て、それかわいいな、と呟いて頬を緩めた。メリージェニーのAラインコート、去年も着ていたのだけれど……と一瞬考えて、コート姿を初めて見せることに気が付いた。私が彼のコート姿を見るのも初めてだ。黒のモッズコートは、背の高い彼に似合っている。


「リコの服はいつも、全力で女の子だな」

「そだよ、女の子だもーん。ハヤトくんだって、もっとお洒落するといいんだよっ」

「はは、ヒマ助と同じこと言いやがったな。じゃあ今度、リコが服選んでくれ」


 その何気ない反論が、私には突き刺さった。彼にしてはお洒落なセレクトのモッズコート、きっとヒマちゃんが選んだんだな……二人はイトコ同士なんだから、嫉妬なんかするだけ無駄なんだけど。


「じゃあ、クリスマスのデートはショップをハシゴするからねっ!」

「一軒二軒じゃなさそうだな……なかなか覚悟がいるな、手加減してくれよ」


 しーらない、とちょっとだけ拗ねてみせた。どうして私が拗ねているのか、もちろん彼は気が付いたりしない。

 私たちにとって初めての冬は、乗り越えなければならないことが多そうだ。


 冷え込んできたからなのか、駅前広場の学生はいなくなっていた。下り電車はそこそこ混んでいて、彼はいつものように私を壁際に寄せ、人ごみから私を守る壁になってくれる。

 少し気の早い強めの暖房で、蒸し暑いくらいになった車内。その片隅で、私は一方的に喋り続けた。暗い顔は、今日はなるべく見せたくない。

 モデルやコスプレの話はしたくなくて、自然と大学の話ばかりになった。ランチ会のお弁当ブーム、羨ましいくらい仲が良いアイリちゃんとカメヤン、学内でも仲良くしているチガヤちゃんとメグミちゃん……話題のうちのいくつかは既に聞いている様子だったけれど、それでも楽しげな顔を見せてくれた。


「ハヤトくんも、早く大学に戻って来て欲しいなー」

「春なんてあっという間だぞ、まずは年明けの試験を乗り切れ。年内提出の課題も山盛りなんじゃないのか」

「あっ、せっかく考えないようにしてたのに!」

「クリスマスは泣きながらレポート書いてたりしてな」


 冗談めかして笑い合いながら、互いに距離を少しだけ詰める。公共の場だけど、もうちょっとだけ……電車の揺れでふらついたフリをして、少しだけ寄りかかる。


「このまま……くっついてても、いい?」

「構わんが、おそらくコートが煙草臭いぞ。これ着たままで喫煙所にいたから」


 彼の胸元に顔を寄せると、黒いモッズコートは、本当に煙草の匂いがした。 


 自宅の最寄駅に着いて、手を繋いで電車を降りる。何だかホームが騒がしい気がして足を止めた時、構内にアナウンスが流れた。


『えー、ただいま車両故障発生の為、上り列車の運転を見合わせています……』


 アナウンスへ被せるように、誰かの「勘弁してくれよぉ!」という叫び声が響き渡った。ハヤトくんは動じることもなく、時刻表の横に設置された時計へ視線を向けている。


「タクシー使うほど手持ちはないし、今から歩くと日付が変わるな。今日中に動くといいんだが」

「歩いたら三時間はかかるじゃない……うちに、泊まっていけば?」


 誘ってはみたものの、何か大それたことをしでかしている、という気分だった。いくら緊急事態とはいえ、勇気がいる……思い切って、握っていた手に力を込めて、軽く引く。


「ね、おいでよ」

「こんな時間に押しかけたら、家の人に迷惑だろ」

「今朝、泊まってもいいし連れて来てもいいって言われたから、たぶん大丈夫」


 まさか、今朝のお母さんの問題発言を受け入れることになるとは、夢にも思わなかった……母サトミ、娘の動向をお見通しにも程がある。実はエスパーかもしれない。


「泊まってもって……お母さんだよな、それ。親父さんはブチ切れるんじゃないのか?」

「出張中だし、こんな時だし、もし怒ってもお母さんが黙らせるから平気」

「それは……平気だと言ってもいいのか……」


 呆れたような彼の表情に、普通はそうだよねぇ、と思う。しかし今はそんな事を言ってる場合じゃない、この人は本当に三時間歩いて帰りかねない。それに正直なところ、少しでも長く一緒にいたいという下心が、全くないわけでもない。


「今日は冷えるし、このままじゃ風邪ひいちゃうし、とにかく来てっ」


 明確な返事を待たず歩き出した私に、彼は黙って歩調を合わせてくれる。そのまま改札を出て、タクシー乗り場に列が出来ていくのを横目に、私たちは住宅街の方へと歩き出した。

 駅から家までは歩いて五分程度で、その間に会話らしい会話はなかったけれど、途中でハヤトくんが「強引な姫君だ」と呟きながら、星の少ない夜空を仰いでいた。


 家に着くと、まだ玄関の明かりが点いていた。鍵を開けて玄関に入り、ハヤトくんを招き入れたところでお母さんが廊下に出てきて、あらあ、と声を上げた。


「こんばんは、夜分にすみません」

「リコを送って来てくれたんでしょう? 遠いのにごめんなさいね」


 下を向いてブーツを脱いでいる私の頭越しに、二人が挨拶を始めた。お母さんの声が完全に浮かれている。


「実は、福海方面の電車が止まってしまいまして……動き出すまでの間、少し寄らせていただければ」

「あら、でももう終電の時間でしょう? 泊まっていってもいいのよ?」

「いえ、泊まりはさすがにご迷惑でしょうし」

「いいのいいの、リコの部屋でいいわよね? ご飯食べた? お風呂入る? 着替えはお父さんのでもいいかしら?」

「えっ、いえ、あの」

「何なら三人でお酒飲んじゃおっか! いぇーい!」


 質問の返事を、一つたりとも待っていない。ハヤトくんの戸惑いも完全に無視だ。顔をあげると、お母さんの目が爛々と輝いている。怒られるよりはいいんだけど……やっぱり普通じゃないよね、うちのお母さん。


「ねぇ、連れて来た私が言うのも変だけど……普通は時間を考えなさいとか言って、私を叱るものなんじゃないの?」


 朝にも言ったけど、きっと普通の親はそうすると思う。信じてくれるのは嬉しいけど……私の常識が間違ってるのか、不安になる。


「叱ってる場合じゃないわよ! だって娘の彼氏が泊まりに来たのよ? お母さん、今からお赤飯炊いたっていいわ!」

「意味わかんないんですけど!?」


 ダメだ。母サトミ、完全におかしくなってる。これは放っておいたら、ハヤトくんをスマホで撮影し始めそうだ……釘、刺しとこう。何をするかわかったものじゃない。


「お願いだから、動画とか撮らないでよ? お父さんじゃないんだからねっ」

「えー、お父さんに送って自慢しようと思ったのにー!」

「ちょっとー! 絶対に拗ねるからやめてよー!」


 私たちのやり取りを真横で見ていたハヤトくんは、平静を保てなくなったらしく急に屈み込み、肩を震わせながら必死に笑いを噛み殺していた。

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