第四十九話 悪意まみれの世界の中で
私たちを見るザイツさんの表情が、一気に険しくなった。
「それは……どういうこと?」
「リコは人が良すぎて、向いていないと思うの。私が意地悪した時だって、逆に私の心配しちゃうんだもの」
チガヤちゃんは申し訳なさそうに、ごめんね、と私に言った。
「私、大学でリコの悪口を言い触らしてたのよ」
「チガヤちゃん、それは言わなくても」
「いいのよ、事実なんだから」
止める私を軽くいなして、チガヤちゃんは懺悔するように目を伏せた。ザイツさんが眉間に皺を寄せて、シグマさんは腕を組んで目を閉じた。
「あの、違うんです。それは友達に騙されてたせいで、チガヤちゃんが悪いわけじゃなくて……」
「ほら、この調子なのよ。何かあったら全部飲みこんで、すぐ無理するの!」
言いたいことを言い切ると決めたらしいチガヤちゃんが、強い口調で言葉を投げた。
「違うよ、チガヤちゃん」
「違わないから!」
即答で否定されて、私は言葉が出せなくなってしまった。
本当に、違うんだ。私がなるべく怒らないのは、無理に飲み込んでいるわけじゃない。きちんと理由を知りたいから、責めるよりは解り合いたい。
謝られるとすぐに許してしまうのだって、別に優しいからじゃない。許せるはずの人を許さないままでいるのは、辛い思いを抱え続けるということでもある。私自身の為でしかない。
こういう気持ちは、きちんと伝えた方がいいのだろう。わかってはいるけれど、私にとって簡単なことではなかった。
普段の私は、女の子が怖い。ミキちゃんのことを、そしてあの子を信じたクラスの女子たちを、どうしても思い出してしまう。ヒマちゃんたちのおかげで大分慣れてはきたけど、隠した本音であればあるほど、打ち明けるのには勇気がいる。
ハヤトくんやメイくんにだったら、どんなことだって言えるのに……と、情けない事を考える。
信じなきゃ。チガヤちゃんだって、私を信じてくれたんだから。
「チガヤちゃん、聞いて……私、許せることしか許してないよ。無理なんか、してない」
緊張しつつも反論してみると、チガヤちゃんはよっぽど驚いたのか、切れ長の目が真ん丸に見開かれた。
「心配しないで。衣装を着た私は、ちゃんと強くなれてるでしょ?」
「えっと……それは、そうね。だけど……お仕事になると、話は全然違うのよ?」
「わかってるよ」
「本当にわかってるの? こっちは本気で心配してるんだからね?」
まるで親子みたいなやり取りになってしまった私たちを見て、ザイツさんとシグマさんがほぼ同時に大声で笑い出した。
「ははは、チガヤちゃん、それじゃまるでお母さんだよ」
「あーあ、よっぽどリコちゃんのことが心配なんだなぁ!」
シグマさんが、さらっと私を名前で呼んだ。距離を詰めるのが早いのか、チガヤちゃんと同じカテゴリに入れられたのか……深い意味はないのだろうと思っても、やっぱり反応に困ってしまう。
「オノミチさん、ちょっと内緒のお話をしますね」
ザイツさんは変わらず私の名字を呼び、そして声をひそめた。
「きっと僕は、心配ないと言うべきなのですが……今のシグマでも、嫌がらせを受けることはあります。称賛を受ける人がいれば、妬む人は必ず出てきます」
その淡々とした口調は、よくあることだと言っているようだった。もしかしたらチガヤちゃんも、そういう話を聞いたことがあったのかもしれない。
「うお、契約前にそれ話しちゃうの? バレたらシャチョーにガチで怒られんじゃね?」
笑いながら茶々を入れるシグマさんは、それでも本気で心配しているのか、背筋を伸ばしてパーティション越しにフロアの方を確認していた。
「甘いことだけ言って契約させたって、後から揉めるだけだろ。判断材料を与えるのはこっちの義務、嘘をついても長くは持たないよ。俺たちだって最初さんざん脅されたじゃないか」
「あー、まあねー。俺はアレ聞いて、ますますやる気になっちゃったけどなっ」
「それはお前が自分に自信を持ってるからだろ」
呆れるザイツさんをよそに、シグマさんはご機嫌だ。その屈託のない笑顔こそが、彼の強さを示していた。
全国的には無名であろうと、私たちの住むこの街では、ローカルタレント「宮路シグマ」は完全に勝ち組だと言っていい。妬み嫉みを乗り越えて、県内では知らない人がいないほどの知名度と好感度を獲得したこの人は、おそらくイメージ通りの無邪気な人ではないんだろう。
「リコちゃん、やっぱ怖い?」
シグマさんが、笑顔のままで私に問いかける。虚勢の一つも張るべきだろうかと一瞬迷い、そしてすぐに思い直す。
「怖い、です」
私の素直な感想だった。ザイツさんは正直に話してくれたのだから、私も本音で話したかった。
「やっぱそれが普通だよなぁ、女の子は特になぁ。じゃあ、こういうお仕事はやめとく?」
「いいえ……このまま何もしないでいるのは、嫌なんです。将来の夢なんてなかった私が、初めて興味を持った世界なんです」
情けない自分を、自分の言葉で晒していく。ザイツさんもシグマさんも、私のこんな事情を聞かされたって困るだけだろう。それでも、きちんと伝えておくべきなんだ。嘘をついても長くは持たない――私も、その通りだと思うから。
「だから怖くても、私は……逃げたく、ないです」
変わりたいんです、と私が言うと、ザイツさんはただ頷いた。
「脅かすようなことを言って、すみませんでした。僕たちが取れる手段の全てを使って、精一杯支えていきますので、何かがあればすぐに相談して下さい」
「どっちかってーと怖いのは、業界よりもネットかもなぁ。でっち上げてでも悪評バラ撒くやつとかいるし……ま、見なけりゃどうってことはないけど」
シグマさんの言葉で、私はネットに撒かれた噂のことを思った。チガヤちゃんもきっと同じだったのだろう、渋い表情で私の方を見た。
「ん、何かそーゆーの、あった?」
笑顔のままのシグマさんが、私とチガヤちゃんの顔を交互に覗きこんだ。
そうだ、コスプレイヤー「リコリス」が流された悪い噂は、絶対に話しておいた方がいい。私がこういう仕事を始めれば、きっとあの書き込みをした犯人は、放っておいてはくれないだろう。
「実は私、趣味でコスプレをしてるんですけど……」
「私がやってるようなやつね、ミニスカサンタとかじゃないやつ」
「ああ、アニメとかの方」
チガヤちゃんが説明に加わってくれたおかげで、ザイツさんたちの理解は早かった。
そして、コスプレイヤーとしての活動のことや、ネットに撒かれた噂のこと――抱えた事情を一通り話した結果、私の決意は大きく揺らぐことになった。
チガヤちゃんと二人で事務所を出た後、私たちは定食屋で食事をしてから、福海駅の前で別れた。バスに乗るチガヤちゃんを見送った私は、家に帰る前にハヤトくんのアパートへ寄ろうと決めた。
遅い時間になってしまうけれど、ハヤトくんの顔が見たくてたまらなかった。
自宅とは逆方向の電車に乗り、朝のように大学前駅で降りる。空はもう暗くなっているのに、駅前はまだ学生たちで賑わっていた。今日は冷えるのに、みんな元気だ。
その中に、私を指差して笑っている集団がいるのに気付いた。ちょっと派手めなグループ、男女合わせて五人。
どうせまた「オタサーの姫が来た」とか言ってるんだろう。慣れてはいるけど、苛々する。
オタクで何が悪い、姫を演じて何が悪い。私はみんなが大好きだったし、大切だった。他人に笑われるようなことをした覚えはない。
そのうち一人と視線が合ったので、微笑みながら近付いて行く。こんなところで無作法に絡んでくる方が悪い、今の私は虫の居所が悪いのだ。
「何かご用ですか?」
イメージと違う行動に面食らったのか、引きつった笑顔で顔を見合わせた彼らは、ごめんと口々に言い捨てながら、逃げるように駅の構内へと入って行った。
逃げるくらいなら、いちいち笑ったりしなければいいのに……私が一人でいる時にしか、そんな視線は向けないくせに。
いくら見た目がお洒落でも、心の底から格好悪い。サークルのみんなの方が、あいつらよりもはるかに素敵な人たちなのに、オタクと呼ばれて笑われるんだ。
この世界は、他人を引き摺り下ろそうとする人ばかりなのだろうか。
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