第二話 絵描きとモデル、信頼の共鳴
私の返答を受けて、イシバシくんは頬を緩めた。
「じゃあ、完成までよろしく頼む。定期試験も控えているが、予定している製作期間は一月程度だ。ひとまず明日は、五限が終わったらここへ来てくれ。あと、学内では極力話しかけてくるな」
最後の提案について、返事を予想しつつも理由を聞いてみた。「仲良くなったわけじゃない」とか、そういう事を言うのだろうと思っていた。
しかし彼は、驚くような言葉を口にした。
「取り巻きに、恨まれたくないんだよな……アンタ、俺に惚れちまうだろうから」
そう言って、安物のライターで煙草に火を点ける彼の指先はゴツゴツとしていて、何だかとても色っぽかった。
次の日の夕方、私は約束通りにイシバシくんのアパートへと向かった。騒音発生器にならないように、絵の完成まではスニーカーで登校すると決めた。
青空に積乱雲にセミの声という典型的な夏の気配の中、大学の構内を裏門に向かって歩きながら、私はイシバシくんのモデルになるという事の意味を考えていた。
写真の被写体になる事は日常だけれど、絵のモデルになるのは初めての事だ。
もちろんヌードへの葛藤はあった。知り合ったばかりの男の子の家で全裸になるなんて、普通なら引き受けない事くらい、さすがに私だってわかっている。私が親なら、友達なら、やめなさいって叱るだろう。
だけど、イシバシくんは真剣だった。彼は私を本気で嫌っているけれど、だからこそ、私の肉体に対する評価は正当なものであるはずだ。言葉を選ばず毒を吐く彼は、嘘は吐かない人なのだと思えた。
私は、彼の要求に全力で応えなければいけない。もはや子供じみた復讐だなんて、能天気な事を言っている場合ではない。だって私の身体を作品として認めた人が、他の誰でもない私を必要としているんだ。断れば絶対に後悔する。これを逃せばもう二度と、こんな幸福は訪れないに決まっている。
イシバシくんは、自分の内側にある何かを表現したくて堪らないんだ。絵筆を通して、新たな世界を産み落とそうとしている。ならば全力以上の本気を引き出してあげるのが、触媒として選ばれた私の役割というものなのではないか。
似ている、と思う。カメラマンとコスプレイヤー、絵描きとモデル。きっと演出家と役者とか、編集者と作家とか、他にもそういう関係は色々あるんだろう。信頼できる相手と、お互いの誇りをかけて、作品を作り上げていく――そんな喜びを、みすみす手放せるものか。
ブザーを鳴らすと、イシバシくんが私を出迎えてくれた。ガーリーな服にスニーカーを合わせていた私を見て、イシバシくんはふふん、と鼻で笑った。
「いや悪い、アンタ意外と素直だな、って思ってな。それよりどうする、今日は少し話して帰るだけでも構わんぞ。アンタは俺をよく知らんだろうしな」
その気遣いは、嬉しかった。だけど私はもう覚悟を決めてきている、先延ばしにしても余計な迷いが生じるだけだ。
「大丈夫です、やれます」
「そうか、じゃあ、さっさと始めるか」
嬉しそうに目を細めた彼に招かれて、襖の奥の部屋に入る。そこは和室のはずなのに、狭いアトリエのようになっていた。画材や書籍が山積みで、生活感のあるアイテムは殆ど無く、かろうじて丸まった掛け布団がある程度だ。そして敷布団は、ない。
「どうやって、この部屋で生活してるんですか」
「飲食は台所で事足りる。衣類は洗面所のタンス、テレビは見ない。寝るのは床か、そこに埋まってるソファー」
指差した先にはキャンバスが山のように積まれていて、その下にかろうじてソファーのようなものが見えた。健康に悪そうだとか、もっと広い部屋に越せば良いのではないかとか、言いたい事は色々あった。苦学生なのだろうか――目が合うと、うんざりだという顔をされた。
「憐みが顔に出てるぞ、オノミチ。言っておくが、俺は金が無くてボロアパートに住んでいるわけじゃない。画材で汚してもいい物件に住みたかっただけで、このアパートは美術科生の御用達だ」
そう言われれば確かに、少しくらい汚しても今更どうという事はなさそうだった。イシバシくんはキャンバスの山を適当に積み替え、その下からソファーが顔を出した。
「多少は埃っぽいかもしれんが、俺は三日前にこれで寝た。死にはしない」
三日であんなに埋まってしまったのか、という突っ込みはしないでおいた。おそらくこれは日数の問題ではなく、埋まる時はあっと言う間に埋まるんだろう。
「じゃあ、準備してくれ。抵抗があるのなら、今日は下着を着けていてもいい」
裸婦を描くのなら、もちろん全裸に決まっている。思い切り良く服も下着も脱いでいく私を見て、白いシーツをソファーに被せていたイシバシくんが、感嘆の声をあげた。
「度胸がいいな、流石だな。自信があるからか」
「そうですね。私の身体は、私の作品なので」
私が堂々とソファーに腰掛けると、イシバシくんは満足げに頷いた。
「じゃあまずは、アンタが思うようにポーズを取ってみてくれ。引き出しがいくつもあるのなら、全部見せて欲しい……俺は、アンタを知りたい。頼むぞ」
そうか、彼は私を知ろうとしてくれるのか。それなら全てを見せてあげよう――そう覚悟を決めて、私は思いつく限りのポージングをした。
はつらつと遊び、媚びては憂い、拒んでは誘う。
子猫のように甘え、狼のように吠え、そして聖女のように祈る。
私の引き出しの中にある、全てを晒した。
それは、毎晩のように鏡の前で身体を捻り続けた、コスプレイヤー「リコリス」の集大成だった。
「……ダメだな、アンタわかっちゃいない」
やり切ったと思いながらソファーに寝そべった私に、彼はあっさりとダメ出しをした。私の力量では、彼の望むものには届かないのか――そう思った時、イシバシくんは私の両肩をぽん、と軽く叩いた。
「いや、流石だったよ。かなり震えた。だけどアンタのポーズは写真的というか、一瞬を切り取って貰う為のポーズだな……いいか、ちょっと身体に触るぞ」
そう言いながら、イシバシくんは私の身体に触れていく。不快感はない、真剣なのだ。彼の本気を、照れごときで邪魔なんかできない。
「力が入りすぎだ。寝そべったままでいい、楽にしろ……ああ、ここはもう少し捻ってみてくれ。大丈夫だ、オノミチなら、ちゃんとできるからな」
昨日の態度が嘘のように、彼は優しく私を導こうとした。そして遠慮なく私の身体へ触れてゆき、自分が求めるように私の在り方を変えてしまう。
その行為を繰り返すうちに甘い感情が湧いて、昨日の彼の言葉を思い出してしまう――彼が「俺に惚れちまうだろうから」と言った意味。あれは、彼の自惚れなどではなかった。
彼に全てを曝け出さなければ、彼の望むものにはなれないという、一つの真理がそこにあった。そしてあの時のイシバシくんは既に、私が正面から全力でぶつかると信じていたのだ。
たった今、私たち二人の間に、揺るぎない信頼が生まれたような気がした。その事実に、私は本気で興奮した。身体が汗ばみ、頬が熱くなり、胸の鼓動が早まっていく。呼吸の荒くなった私の目を見つめているイシバシくんも、人が変わったように高揚しているのがわかった。
「オノミチ、最高だ。自信持ってそのままでいろ、後は任せてくれ!」
彼は急いで私から離れると、キャンバスに向かってサクサクと鉛筆を走らせていった。
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