初めての恋にお別れのキスを

水城しほ

恋に落ちた夏、お手紙騒動

第一話 復讐心に満ち満ちているのだ

 私がイシバシくんと出会ったのは、大学二年生の夏だった。


 その日、私はコスプレの撮影会をしていた。被写体は私だけ。キャンパスの隅の方にある小さな日本庭園で、大学側の許可も取ってある。非公認の写真愛好サークル「リコリス」として届けを出した、正当なサークル活動だ。この「リコリス」という名前は私のコスプレネームでもある。サークルには私の他に、六人のカメラマンの男の子。みんな仲良しだ。


「リコちゃん今日も可愛いよ!」

「あひる座りで上目遣い、貰っていいすか?」

「いいよぉ、こんな感じかなー?」


 私がポーズで応える度にみんな喜んでくれて、私をとびきり綺麗に撮ってくれる。お互いが幸せになれる、私たちにとっては至福の時間。

 しばらく要求されたポーズを取り続け、時折はちょっとした露出をサービスしてあげたりもして、装填分のフィルムが尽きたところで休憩することにした。庭園そばの東屋で、デジカメ撮影分の出来栄えをチェックしていく。


「リコちゃんエロいよ!」

「いいんすか、コレ?」


 全員が、真っ先にサービスショットの感想を口にする。別に局部が見えているわけではないけれど、かなり扇情的なアングル。


「みんなが気に入ってくれたら、リコ嬉しいな! でもネットには上げないでね? リコ、みんなの為だから頑張ったんだよ?」

「勿論だよ!」


 僕たちだけの秘密だね、とみんなで盛り上がる。こんな時間が、私は好きだ。

 ふと、視線を感じて庭園横の校舎を見た。芸術学部の実習棟、その二階の窓から、こちらを見ている人影があった。

 そこにいたのは、野暮ったくて小汚い、絵の具まみれの男性だった。だけど私は嫌いじゃない、よく見れば凛々しくもある。芸術家のステレオタイプだな、というのが最初の印象だった。

 私の視線に気付いたサークル代表のメイくんが、あれイシバシだ、と言った。気になって聞いてみると、美術科の二年生だと教えてくれた。

 そのイシバシくんは屈んだらしく、しばし私たちの視界から消えた。そして次に姿を見せる時には、スケッチブックをこちらへ掲げていた。真っ赤な文字で、何かが大きく書かれている。


『目障りだ露出狂!』


 ……それを見た瞬間、心底腹が立った。この男は美術科のくせに、露出イコール変態で断じる気だとでも言うのだろうか。そもそもこちらは正当な手続きを踏んで、庭園使用の許可は取っているのに、何でこんな事を言われなければいけないのか。それに、撮影中の私を見ても魅力を感じなかったなんて――様々な思いが混ざり合って燃え上がり、結局その日は家に帰っても気が晴れず、朝まで寝付く事ができなかった。


 私が彼のところを訪ねたのは、その翌日だった。

 オフホワイトを基調にした清楚系コーデ、メイクはナチュラル。髪も普段より気合を入れて綺麗に巻いた。普段は疎遠気味な学部の女子たちにも褒められた今日の私なら、きっと……いや、絶対にイケる。

 イシバシくんの心を、掴んでみせる。そしてこっぴどく振ってやるんだ。撮影会を台無しにされた恨み、許可取りに奔走してくれたメイくんの仇――今の私は、復讐心に満ち満ちているのだ。

 昼休みに芸術学部の実習棟へ向かっていると、タイミングよく校舎からイシバシくんが出てくるのが見えた。絵の具まみれのジーンズと白いシャツ、袖は肘まで捲られている。いかにも美術科という風体で、昨日の印象と大きくは変わらない。そして今、彼は一人で歩いている――チャンスだ。


「イシバシくーん!」


 私は撮影用の笑顔を浮かべ、小さく手を振る。彼は私の姿を認めると、不味い青汁でも飲んだかのような顔をした。

 周囲の視線を気にしたのか、彼はいちおう私の前までやって来た。こうして見ると、思っていたより背が高い。私が百六十四センチだから、彼はそうだなぁ、百八十に近いくらいかな……何か衣装を着せたらきっと格好良いだろうなぁ、と私は惚けた。


「何か用か」


 声をかけられて、我に返った。何なのよ、声まで渋いなんて卑怯じゃないの。声優の誰かに似てるんだけどなぁ……っと、いけない。そうじゃないのよ今は。


「人文学部二年の、オノミチです。昨日は不愉快な思いをさせちゃって、本当にごめんなさいね?」

「はぁ」


 気のない返事。第一印象が最悪なのだし、素っ気無いのは覚悟の上だ。私は両手を合わせて「ごめんね」のポーズを取り、小首を傾げた。


「それでね、お詫びにランチをご馳走させて欲しいんだけどなぁ、なんて……」

「断る。何でアンタとメシ食わなきゃいかんのだ、それなら家で冷や飯食ってた方がマシだ」


 即答で撃ち落とされた。本当に何なのよこの人。昨日だって申請していた時間よりも大幅に早く切り上げたのに……だいたい女の子が誘ってるんだから、ちょっと考える素振りぐらいしたっていいんじゃないの?


「用事がそれだけなら、俺はもう行くぞ」

「あっ……ま、待って!」


 学食の方へ歩き出そうとした彼の腕を、私は思わず掴んでしまった。瞬間、凄い勢いで振り払われた。


「気安く触るな、クソビッチ」

「びっ……」


 リピートするのも憚られ、私は口篭って俯いた。酷い、酷すぎる。あんまりだ。ちょっと気に入らなかったからって、そこまで言う事はないじゃないか……私、まだ、処女なのに。


「……したこと、ないのに……ひどい……」


 この涙声は、演技じゃない。陥れようとか、そういう工作でもない。本気で涙が出てきてしまって、止めたいのに止まらない……イシバシくんはバツが悪そうに周囲を見回し、そっと私の耳元へ唇を寄せる。


「文句があるなら話は聞く。だから公衆の面前で泣くな、正直言って鬱陶しい」

「誰のせいだと思ってるのよおぉ……」


 ――面倒臭ぇ、と呟いたのが聞こえた。


 イシバシくんの「アンタみたいな女と人目に付く場所で話し込むなんざ絶対にゴメンだ」という確固たる意志により、私たちは彼のアパートで話す事になった。

 大学裏門の近くにある、二階建てのアパートはかなり古い。金属製の階段がところどころ腐食していて、七センチヒールのパンプスで上がっていくと、がごんがごんと寝た子も起きるような音が響いた。イシバシくんが呆れたように、騒音発生器と化した私を眺めている。


「あなた、私をバカにしてるでしょう?」

「バカだって自覚はあるんだな」


 ……やっぱりこの人、口が悪すぎる。私の事が嫌いなのを差し引いても、おそらく普段から毒吐き屋に違いない。

 二階の最奥である二〇四号室が、イシバシくんの部屋だった。中に入るとすぐに台所で、手狭なりに整頓されている。奥の部屋は襖が閉まっていて、中の様子は伺えない。彼は律儀にもダイニングチェアを一つ引き、どーぞ、と投げやりに言った。私がその椅子に腰掛けると、彼は真正面に陣取った。


「アンタ、一体何を考えてるんだ?」


 イシバシくんは怪訝そうな顔を崩さない。本当にお詫びをしたかっただけなのだと答えると、意外な事に彼は「じゃあ頼みがある」と言い、閉まっている襖に視線を投げ、言い辛そうに口を開いた。


「俺の、絵のモデルに、なってくれないか」

「も……でる?」


 間抜けな声が出た。だけどイシバシくんは、それを笑ったりはしなかった。


「裸婦画を描きたくて、モデルを探してたんだ。アンタ、俺好みの身体してるからさ……っと、誤解すんなよ、ヌードモデルとしての話だぞ。その筋肉と脂肪、いい塩梅だ。さすが露出狂」


 この毒吐き男が、私を褒めた。一言多くたって、素直に嬉しかった。

 私の身体は、日々の研究と努力の賜物だ。女性レイヤーは闇雲に筋肉を鍛えれば良いという訳ではなく、適切な場所に適度な脂肪がないと、女性的な衣装が映えなくなってしまうのだ。

 的確な褒め言葉があんまり嬉しかったので、私は「ヌード」という単語の存在を忘れて、つい「お引き受けします」と答えてしまったのだった。

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