第二章 15

 二二三五年、五月。


 電磁浮遊運搬台によって運ばれてきた、各種研究機材、自動手術台、血液生成機、臓器生成機、万能細胞を使用する外傷治療機、そして胎児保育器が、二体の手によって然るべき場所に設置され、ベロボーグ計画の要を担う第五階層の研究・医療施設が、ついに完成した。夫婦は胎児保育室で機材の設置作業を追え、やっと完成した部屋を見渡した。

 胎児保育室は、直径四十メートルの円形部屋で、他の部屋とは離れた場所に位置している。新生ロシア人を大量生産する必要が生じた場合に、速やかに拡張できるように余地を残しておくためだ。壁際には五十基の家畜用胎児保育器が並び、部屋の中心には、水族館にあるような柱型の展示用水槽によく似た人間用胎児保育器が二十基ほど密集して立ち並んでおり、その横には、透明な箱が載せられた給仕台のような新生児保育器が設置されている。部屋には胎児保育器以外のものは一切設置されておらず、人間用胎児保育器を増設するためにけてある余地の広さと相まって、閑散を通り越して空虚な空間をかもしている。家畜用の胎児保育器は、長さ一メートル八十センチ、直径一メートル二十センチの透明で頑丈なポリカーボネートでコーティングされた強化ガラス筒と、その左側に一体化している生命維持装置から構成され、床の上に横倒しする形で設置されている。人間用の胎児保育器は、同じく透明で頑丈なポリカーボネートでコーティングされた直径七十センチの強化ガラス筒と、その上部に一体化している生命維持装置で構成されていて、まるで透明な柱のように、胎児保育室の中心に立ち並んでいる。

 最後の家畜用胎児保育器の配線を確認し終えた妻が、隣に立つ夫に工程を説明する。

「二ヶ月ほど前に説明したとおり、新生ロシア人を生産する前に、家畜と作物の生産を開始します。まずは食糧供給体制を整えておかなければなりませんからね」

「では、家畜用の胎児保育器を起動する。マニュアルは読み込んであるので問題ない」

 夫はそう言うと、背後の壁際に設置されている家畜用胎児保育器の前に移動して、ホログラム表示された操作画面に触れて起動させると、浴槽ほどの大きさの強化ガラス筒に、わずかに黄色がかった培養液が注入され始めた。夫が全ての胎児保育器を起動し終えると、妻が遠隔操作をして、生産する家畜の設定を入力した。胎児保育器はシェルターのメインコンピュータに接続して、それぞれ設定された各種家畜の遺伝情報を読み込み、自然な交配を再現するためのクローン子宮の作成を開始した。細胞分裂を加速されたクローン子宮は、一週間後には成熟し、安定乾燥保存されていた卵子と精子によって作り出された受精卵が子宮に納められ、無事に着床を完了する予定だ。出産までは生命維持装置が監視し、不測の事態に備える。

 夫婦は人工授精された家畜が誕生するのを待つ間、第三階層の栽培場であらゆる作物を作付さくつけし、その後、いち早く誕生した鶏の卵を孵化ふか器に移した。以降、新たに誕生した有精卵を孵化器に移す作業に従事しながら、各家畜の成育状態を確認する日々を過ごす。

 家畜用胎児保育器の起動から、二十一日後。夫婦は隣り合って孵化器を覗き込み、子供たちとの会話の予行演習と称して雑談をしながら、雛が殻を破って出てくる瞬間を待った。

 一時間ほど経った時のことだった。夫婦の聴覚センサーが、小さな音を捉えた。それは、頑丈な何かが、軟質だが耐久性のある膜のようなものしに、薄いが硬質なものを小突くような、高音質ながらこもった音だった。夫婦は示し合わせることなく同時に、音のする有精卵を注視した。殻は割れていない。夫婦はまたも同時に赤外線センサーを起動させ、殻の中の様子を伺った。殻の内部では、充分に育った雛が懸命に身を強張こわばらせ、二度目の挑戦を実行しようとしていた。か弱いくちばしから放たれる一撃は、またも殻を割るまでには至らず、小さな音しか立てられなかったのだが、二体の好奇心を激しく煽った。

 最初の一撃を加えてから、約一時間後のことだった。小さな衝撃は着々と積み重ねられ、殻と卵殻膜に生じた微細なヒビと綻びは亀裂へと発展し、やがて小さな穴となった。

「妻よ、鳴き声がよく聞こえるようになった」

「ええ、呼吸がしやすくなったからか、鳴き声が大きくなったように感じます」

 雛は鳴きながら、小さな穴の拡張を試みる。突いては休み、鬱憤を晴らすかのように鳴き、そしてまた全身全霊を込めて突く。他の有精卵も同じように、少しずつ内部から割られ始めた。雛が疲労しきって休憩する度、夫婦は雛の心音を確かめて、無事を確認するという作業を何度も繰り返す。その作業は、十時間以上も続いた。小さな穴が拡大していくたびに、聞こえてくる雛の鳴き声が大きくなっていく。疲労しているにもかかわらず、その声は孵化器の中で力強く響いた。

 雛が、自らを育み守ってきたものに一撃目を加えてから、十五時間後。一ルーブル硬貨ほどの大きさの穴から真横に延びたヒビが大きく裂け、ついに雛が、卵殻膜を引き裂きながら誕生した。夫が、興奮に似た不具合をきたしながら言う。

「雛が誕生した」

 対照的に、妻は冷静に答えた。

「ええ、生まれましたね」

「機械である我々には理解できないが、これから生まれ来る新生ロシア人の子供たちは、この雛を可愛い存在として認識するのだろうな」

「そのはずです。羽毛が乾くと、さらに可愛いと感じられる姿に変貌します。子供たちは、さぞ可愛がることでしょう。この雛が成長して親となり、卵を産みます。それが数回繰り返されて生まれた鶏たちと、新生ロシア人の子供たちが、いつか出会うでしょう」

 夫が、雛から少しも目を逸らさずに言う。

「誕生というものは、とても素晴らしい出来事のようだ。小さな細胞から生じたものが自発的に行動するという不思議な光景の最高潮を目の当たりにできたことを、嬉しく思う」

「生物は不安定ですが、それを補って余りある力強さを持っていますからね。我々とは違い、生命の誕生はたいへん刺激的です。我々も小さな物質から生じますが、生物とは違い、行動を起こすためには人間の介入が不可欠ですからね。我々のような機械は、人間と似ているようで大きく異なります。人間にあって、我々のような機械にないもの。それは成長と、生まれ持つ自由意思です。人間は脆弱ですが、自由意志によって世界を開拓できます。これは非常に稀な能力と言えましょう。新生ロシア人の生産は、鶏とは比較にならないほど擬似好奇心回路が刺激されることでしょう」

 そう言われた夫は、早くも擬似好奇心を震わせながら期待を述べる。

「戦場しか知らない私にとって、生物の誕生は刺激が過ぎる」

「不具合を起こしそうな時は、きちんと知らせてください。さて、生まれた雛たちを第二階層に輸送し、コンピュータに命じて備蓄庫から飼料を取り寄せ、その後、第三階層で作物の様子を確認してから、また各階層の内装の細部を整える作業に就くとしましょう」

 妻は次々に生まれた雛たちの疲労が取れたのを確認してから、雛を両手ですくい上げるようにして孵化器から簡素な箱に移し、それを大げさに抱えながら、夫を引き連れて全方位移動型エレベーターに乗り込んだ。

 第二階層に向けて動く大きなエレベーターの中で、妻は手のひらに掬い乗せた雛を、あらゆる角度から観察しながら呟く。

「鶏が先か、卵が先か、という哲学的論争があるのですが、このシェルターにおいては、クローン子宮が先ですね」

 独り言のようにそう言った妻に、戦争以外のことを何も知らない夫が問いかける。

「その哲学的論争についての詳細を把握したい」

 問われた妻は、雛から目を離さずに講釈を始めた。

「これは、人間が持つ思考の豊かさを表す言葉です。先に生じたのは鶏か、それとも卵かを問うもので、人間は答えを出せずにいました。おもに、友人たちと酒場で話し合ったり、単独でシャワーを浴びながら思案したり、眠る前に考察されていたそうです。ちなみに、正解は卵です。変異を齎す遺伝子は、受精した段階ですでに備わっていますので、先に生じたのは卵ということになります。長年に渡って人々を楽しませ、時に苛立たせてきた因果性のジレンマに対して、科学が答えを出してしまったのです。科学が人間の邪魔をした、稀有な例と言えるでしょう」

「解説に感謝する。科学が齎すのは、幸福ばかりではないということか」

 ロボット兵は、妻の手のひらに座り込んで目を瞑る雛を見つめながら、静かに思考した。

 その最たるものが、大量破壊兵器を用いた戦争か。

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