悪魔に抱かれて。

るいと

1,華奢な腕

 ぱっと目が覚める。それはもう、はっきりとした目覚めだった。休日だったら、こんな風に起きることはまずないだろう。

 ベッドの上でゆっくりすることもなく、私は起き上がる。近くに置いてあった携帯の画面を確認して、今が朝の五時ということを知る。一般の人だったら、もう少し寝ていても差し支えないのかもしれない。だが、この町では五時に起きる人はそう少なくない。特に、高齢者が多いこんな田舎に住んでいると、早起きしたおじいちゃん、おばあちゃんが白んだ空の下をてくてく散歩している光景をよく目にする。

 しかし別に五時起きだからと言って、今から仕事に行くわけじゃない。私は。

 隣で未だにすやすやと眠っている眠り姫は私の手を握っている。その寝顔はあまりに美しいものだった。長いまつ毛、瞼に覆われた大きな目、鼻筋が通り、小さく柔らかそうな唇、それらが彼女の顔を形作っている。

 毎度のようだが、私は彼女の寝顔に見惚れてしまう。どうしてこうも綺麗なまま眠れるのだろう。別に化粧をしているわけでもないのに。いや、化粧をせずにこの顔なのだから、本当の美人としか言いようがない。

 と、そんなことを考えている私はふいに我に返って、彼女を起こした。

「彩音、起きて」

 寝起きだからだろうか、そう声を張ることはできない。しかし、この静寂のなかで私の声はよく聞こえた。

 ゆえに彼女がすぐに起きたのも当然と言えた。

 彼女はゆっくりと上体を起こし、眠そうに目をこする。

「……おはよう、春果」

「うん、おはよう。朝だよ」

「……うん」

 彼女は私の手を握ったままだった。

 困ったものだ。これから支度をしなければならないのに、これでは身動きができない。

 仕方なく、握られた手を離そうとすると、彼女がそれを逃すまいとより強く握った。そして、なんで離れるの、と言った。

「だって、支度しなくちゃ、でしょ。これじゃ朝ごはん作れない」

「朝ごはんなんて食べなくていい」

「だめだよ。これから仕事行くんだし、朝抜いたら体に悪いんだよ?」

「……じゃあ、はい」

 そう言うと、彼女は両手を大きく広げた。

「……してくれたら、文句言わないから」

 それだけで支度をしてくれるのなら躊躇う必要はない。私は迷うことなく彼女を抱きしめた。そして、ベッドから下りると台所に直行する。

 傍から見ればあまり熱のない行動かもしれない。恋人を抱きしめ、さっさと朝ごはんを作りに行くなんて。でも、私の恋人はちょっと甘やかすとずっとくっついたままでいようとする。休日だったら別に構わないけれど、さすがに仕事の日もそんな様子じゃ困るので、あえて少し熱のない態度を取っている。

 台所に着くと、冷蔵庫から必要な具材などを取り出し、朝食を作る。

 この間、彩音は出かけるための支度を整える。持ち物をチェックしたり、髪の毛を整えたり、着ていく服を選んだりする。

 そうこうしていると二十分ほどで朝食を作り終える。

 彩音、と彼女を呼びながら、出来上がった朝食を机に並べた。

 リビングにやってきた彩音はすっかり支度が終わったようで、綺麗な髪の毛を可愛く仕上げていた。化粧も少ししている。

 ちょっと化粧をするだけでより容姿に磨きがかかるのだ。もはや凄さを通り越して呆れた溜息が出そうになる。

 私たちは席につき、朝食を食べ始めた。

「今日も夜遅くなりそう?」

 彩音は近頃、新しい絵を描いている。そのためにわざわざひとつ隣の県へ行き、そこにある光景を細かく絵に刻んでいる。

 彩音は笑った。

「うん。でも、日付が変わるまえには帰ってくるわ」

「そう言って集中すると時間を忘れるのは誰でしょうね」

 彩音は画家だ。それも数々のコンテストで賞を掻っ攫うほど有名な。

 そんなすごい画家だからなのか、ただのさがなのか、彼女は作業に集中し過ぎて食事をとることも、眠ることも忘れて、ひたすらに描き続けることがある。そのせいか、絵が完成するころには体重が何キロも落ちていることがよくある。

 体には悪いのだから、そういう生活はやめてほしいものだが。

「まだこういう陽気な時期だからいいけど、夏になると本当に心配するんだから。作業中に倒れたりしたらどうするの」

「ごめんね。ついつい没頭しちゃうのよね。あ、でも、今日はちゃんと帰ってくるから」

「帰ってくるときは連絡してね。一応、夕飯は作っておくから」

「ええ、分かったわ」

 それから私たちは朝食を食べ終わった。

 後片付けはすべて私がやるとして、彩音は早く作業を始めたいので、早々にここを出ていく。

 玄関で靴を履いた彼女は、じゃあいってくるね、と言って私にキスすると、颯爽と家を出ていった。

「いってらっしゃい」

 誰もいない玄関に向かってそう言った。

 

 これが私たちの朝。美しく、凡庸で、けれどもどこか温かさを感じる朝。

 何も知らない人がこの生活を見たら、そんなことを思うかもしれない。幸せに溢れているのだろう、って。でも、そんなことない。

 彼女は、彩音は、変わる。その変化したときの姿は恐ろしいもので、はっきり言ってとても手がつけられない。

 もし、それを芸術に秀でた人間の性質だと言うのなら、私は神を憎む。

 愛に怯え、愛に支配され、自らの思うままに行動してしまう愚かしさに塗れた彩音を創造した神を、この上なく憎悪するだろう。


私は知っている。

悪魔のような彼女を。

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悪魔に抱かれて。 るいと @kei0614

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