第十八話 信頼

 青々と繁る木の葉の下、疾風はやてはひとり、飛鴛ひえん山脈の山中を歩いていた。

 目指すは依月山いづきやまの「詠姫よみひめ供養の庭」。あかりの願いで、そこに来るという寅彦とらひこと話をしにいくのだ。


「そういえば、単独行動というのはあまりなかったな」


 繁茂する名も知らぬ雑草をかき分けながら、疾風は独りごちる。今まで、どこへ行くのも何をするのも燈と一緒で、こうして別々に行動することが少なかった。疾風が殊更に燈と離れないようにしていたというのもある。もう二度と、失うことのないように。

 だから、燈の頼みを聞いた時も不満に思ったし、多少ごねるつもりだった。しかし、今はこうして素直に依月山に向かっている。

 視線の先、切り立った崖の縁で、淡紅色の石楠花しゃくなげが陽光を浴びて黄金こがねに輝く。それを見て淡く微笑んだ疾風は、燈に頼まれた日のことを思い出していた。


                  *


 とりあえず場所を変えよう。そう言ったのは燈の方だった。

 色々聞きたくて仕方がないといった様子の疾風も、その言葉の全てを一度飲み込み、黙って燈の後をついていった。

 山の向こうに沈みゆく夕陽。黄昏の闇のなか、二人分の足音だけが確かに相手がいることの証であった。

 人の疎らになった道を抜け、暫く歩いた先で、小さな提灯が仄かな光を放っている。照らす先は、こぢんまりとした茅葺きの民家。かつて燈と疾風が雪を見ながら話し、今は二人が暮らす家。村の人々はもっと大きな屋敷を建てて豪勢に暮らすように言ったが、燈はこの古びた小さな家が気に入っていた。

 木戸をくぐり、囲炉裏のある板間を通り、庭を見渡せる縁側へ。舞う花のような雪が静かに降り積もっていた庭は森に面している。明るく開けた場所には芽吹く畑の野菜とともに桜草が揺れ、暗く湿った木陰には二人静ふたりしずかが花房をふたつ、ひっそりと伸ばしていた。

 並んで座ったとき、いつになく緊張した空気が二人の間を流れた。疾風は、常にないほどせっついた様子で燈に詰め寄った。


「それで、どういうことだ? 辰彦たつひこ様がここに来ている間、俺に寅彦様と話せというのは」


 燈は言葉を選ぶようにゆっくりと話し始めた。


「あのね、辰彦様と文通をしていたことは話したでしょう?」

 

 疾風が燈のところに駆けてきた時に言った話だ。どういう方法を使ったのか、辰彦が夢桜ゆらにいる燈に、文で接触を図ってきた。初めは警戒した燈だったが、真摯な態度や「詠姫が決めるまで天子と認めることを強要しない」と先に断ってきたことに人の良さを感じ、また、早めに皇子と接触することも常々考えていたので文通に応じたのである。


「それで、暫く文通をしていたのだけど、直接会うって話になったの」

「でも、燈は辰彦様を天子に決めたってわけじゃないんだろ?」


 間を空けず返された問いに、燈も即答した。


「ええ、もちろんよ。私は未だ、どちらかの皇子様を選ぶつもりはないわ。今回辰彦様と会うのは、辰彦様の考えを聞くため。それと、私の考えていることを伝えるためだもの」

「……のことか」


 疾風が、納得したというように僅かに嘆息した。疾風には既に、燈が考えていることの大半は伝えてある。何度か相談したこともあった。


「そう、あれよ。私がこれまで考えてきたこと。目指すべき理想。けれどそれを叶えるためには、皇子様たちの気持ちを聞く必要があるの」


 文通では駄目。直接会って本音をぶつけてもらわなければ意味がないのだ。

 疾風は一度目を伏せ、再び深く強い瞳で燈を見つめて問いかけた。


「それで、どうして俺が寅彦様と会うことになるんだ?」


 そもそも疾風は、それを聞くために問い詰めていたのだった。言わずとも危険だと分かる皇子との対談のまさにその時に、単独行動をする理由を。

 燈はあらかじめ答えを用意していたというように、抑揚の少ない声で話した。


「私は、辰彦様を天子に決めるつもりはない。寅彦様もそう。けれど、辰彦様は天子になりたいと思ってこの対談に来られるのでしょうし、東の御方も西の御方もそう思っているはず。もし、噂を聞きつけた西の御方が焦って寅彦様をここに来させたら、間違いなく対談は支離滅裂な状態になる。辰彦様の本音も、はっきりと聞けないかもしれないわ」


 元々辰彦は、よく言えば公私を分けた、悪くいえば何を考えているのか分からないという印象があった。人と関わるのは上手だが、自分の目的を果たすためにはどんな顔でもする、底が見えない感じが手紙からでも伝わってくる。彼が真に考えていることを引き出すのは苦労するだろう。寅彦が乱入したなら、更に本音を聞き出すのは難しくなると考えられた。


「だから、あえて西家に噂を流して、寅彦様が依月山に来てくださるように仕向けるの。そこで足止めして、円滑に話し合いができるように。……でも、疾風に依月山に行ってもらうのはそれだけが理由じゃないわ」


 そこまで言った時、一陣の風が吹いた。夕闇の過ぎた空、青葉の香りが混じった風が煙のような薄雲を払う。朧に霞む月が一瞬、一際冴えた光を放ち、語気を強めた燈を照らした。今宵は待宵月。眩いまでのしろがねの光が、燈の紅に燃える瞳を闇夜に映し出す。

 燈はひとつ息を吸い、その目で真っ直ぐ疾風を見つめた。


「辰彦様の考えを聞いて、私の考えを伝えて、それだけで終わりじゃない。私は疾風に、寅彦様の考えを聞いてほしいと思っているの」

「俺に?」


 予想外の言葉に、疾風が首を傾げる。燈は大きく頷いた。


「疾風ならできる。疾風なら、寅彦様が何を考えていても彼と話をすることができる。だからお願い。依月山に行って、寅彦様と話して。寅彦様が考えていることを、なるべく早く教えて欲しいの」


 そう訴える燈の瞳は、ひたむきかつ真剣。それは、誰よりも疾風を信頼しているが故のものだった。

 疾風は僅かに朱を帯びた頬を掻き、暫し逡巡するように唸った。やがてゆっくりと口角を上げると、不安そうな顔の燈を見て頷いてみせた。


「分かった。依月山に行って、寅彦様の話を聞いてくるよ」


 その表情はとても優しく、どこか嬉しそうなものであった。

 疾風は縁側からひょいと飛び降りると、未だ不安げな燈の前に立ち、その頭をぽんぽんと撫でた。


「そんな顔しなくても大丈夫だって。……すぐに戻るから、お前も絶対に無茶はするなよ?」


 冗談めかした声で笑う疾風。けれどその瞳は真っ直ぐで歪みない。

 燈は、優しく気遣ってくれる疾風を嬉しく思った。いつだって疾風は燈の味方だ。誰よりも信じているし、疾風がいるからこそ、燈はどこまでもどこまでも歩いていける。


 (それは、いつだって変わらない。けれど……。)


 けれど、やはり最近彼の雰囲気が変わったように感じていた。どことは言えないが、どこか角が丸くなったような気がする。


「疾風、何だか雰囲気が変わった?」


 燈は、何度か感じていた違和感を、この機会にと素直に聞いてみた。

 疾風は驚いたように目を丸くした後、ふわりと淡く微笑んだ。


 ――月光を帯びた風が、目元まで覆う彼の前髪を揺らす。


 冴えた輝きを背で受け止めるように立ったまま、疾風はそっと囁いた。


「俺も、見たいものができたんだ。それを見るために、俺も燈と一緒に頑張ろうって思ったんだ。……前に進むために」


 その笑顔は、何か憑き物が落ちたような、とても爽やかなものだった。

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