第八話 探求
高く澄んだ秋晴れの空の下、
「話には聞いてたけど、やっぱり大きな山ね」
「この山は小さい方らしいぞ。
依月山は
燈は、天高く
それでも、燈はとうとう歩き始めた。未知なる場所へ。そして、その先へ。依月山にどんな秘密が隠されているのかは分からない。けれど、知ることで前に進むと決めたから。
山中へ入る前に、燈は一度後ろを振り返った。
「行きましょう、疾風」
期待の裏側で未だ
その笑顔に元気と勇気をもらって、燈は飛鴛山脈に入っていった。
木々が歓迎するように、色づいた木の葉をゆらゆらと揺らした。
*
飛鴛山脈は、大小十数個ほどの山で構成されている。山というより小高い丘に木が生えたといった方が正しいような小さいものから、既に山頂に真っ白な雪を纏うものまで大きさは様々だ。ひたすら山を登ったり降りたりしなければならないので、
「瑞希からは、儀式の度に天子様と
疾風の言葉に、燈も石で造られた階段を登りながら頷く。
「そうね。それに、依月山は神域としてほとんど人の手が入っていないけど、他の山々は瑞希からの登山道を中心に開発が進んでいるらしいわ。参拝する人だけでなく、狩猟や採取をする人もいるから自然を破壊しない程度にだけど」
「長元坊」で見た猪のように山で狩りをする人、山菜を摘む人。日々の薪を集めたり、建材に伐採したり、炭を作る人もいる。一部の山では鉄や銅、
飛鴛山脈の近くの村の人々は、特に山の恵みを受けて生活しているのだと天子様が話していた。それ故に山を守り、また畏れているのだと。
『天羽は東西南北四方に広がっているから、地域によって環境が大きく異なる。どの場所でも全く違う自然が見られ、そこで暮らす民はその自然をまるごと愛して生きている。それは山でも海でも変わらない』
燈は天子様の言葉を思い出していた。自然は恩恵を与えてくれるが、決して優しいだけのものではない。それでもそこで暮らす民はその全てを愛し、だからこそその生き様は力強い。
愛しげな表情で燈にその話をした後、天子様はいつも同じ言葉で締めた。
『天羽は理想郷ではない。天災、人災に限らず、時に容赦なく人々の生活が奪われることがある。それでも強く生きてきた民の姿を、詠姫も見てみるといい。そして悲嘆に暮れる者がいたなら、どうかその手を差しのべてやっておくれ。誰もが再び前を向けるように』
一字一句、
「そういえば、どこからか水が流れる音が聞こえるな」
言われて耳をすますと、確かにざあざあと水が流れる音が聞こえた。少し離れているようだが、どうやら川が流れているらしい。せせらぎというよりは深く力強く、地の底から沸き立つような激しい唸り。何もかもを押し流していく雄大な音を聞いて、燈はもうひとつ飛鴛山脈について思い出した。
「疾風は『水の
「『水の故郷』?」
疾風は首を傾げた。これは神苑にいた頃、本で読んだ話だったから疾風も知らなかったらしい。
「飛鴛山脈の別名よ。天羽の全ての川は飛鴛を水源にしているんだって」
天羽は主に三つの川が流れている。ひとつは
二つ目は首都瑞希を流れる川。赤木を流れる川の支流であり、少し細いが夏場の避暑や憩いの場として親しまれている。
三つ目は
これら三つ全ての川の源泉が飛鴛山脈にあり、地下水も含め全ての水は、飛鴛の山々が長い時間をかけて貯めた水を源にしているのだそうだ。
燈のそのような説明を一通り聞いた後、疾風が笑った。
「なんだ。飛鴛山脈の恩恵を受けているのは、山の近くに住んでいる人だけじゃないってことか」
「そうね、山も海もきっと他のものも、知らず知らず天羽の自然全ての恩恵を私たちは受けているのでしょう。だからこそ普遍的な畏れを抱かせるのだわ」
天羽の大地を産んだとされる女神が眠る真幌月に祈りを捧げるのも、依月山の社に多くの人が訪れるのも、自然への畏敬の念から生まれたものなのだろう。人々は自然を愛し、感謝し、だからこそ畏れるのだ。それらがずっと鎮まっているとは限らないから。
登山道の途中で、数人、依月山に参拝した帰りであろう人とすれ違った。不安げな顔をしている人もいた。人の口に戸は立てられない。天子様が亡くなったことは、あの日の騒動で最早世間に広まっている。それにも関わらず、二人の皇子様が未だどちらも天子にならないことで、既に詠姫が神苑にいないことも知れ渡っているのだろう。
あまり時間はかけられない。人々の不安がこれ以上増える前に、調べるべきことを全て調べなければ。燈は
*
「だからってそんなに急ぐことないだろ」
疾風がぽかっと燈の頭を軽く小突く。燈は目を丸くした。珍しい。随分久々に疾風が怒っている。
飛鴛山脈の登山道には、依月山を訪れる人のためにところどころ山小屋が設置されている。そのひとつに辿り着いた時のことだ。まだ歩こうとする燈に対して、疾風が猛反対したのだ。
「でも、早く情報を見つけないと……」
「でももだってもない。今日はもうここで休め」
燈が言い
「燈は山道に慣れてないんだ。倒れたりしたら元も子もないだろ。ちょっとは休め」
確かに足はかなりだるくなっていた。太陽は既に赤い夕陽に変わり、もうじき辺りも暗くなってくる。燈は仕方なくここで休むことにした。
古い小屋の木戸を、ぎいっと音を立てて開ける。燈は最後に一言ぼやいた。
「今日の疾風は何だか意地っ張りだわ」
疾風は燈の後ろでケタケタ笑う。
「それが詠姫の『付き人』の仕事だからな」
続く言葉は先程とはうって変わって優しい。
「大丈夫だよ。依月山まであとちょっとだ。焦らなくても明日には着くはずだ」
小屋に入る前に、燈は陽が落ちた空を見上げた。もう月が昇っている。また少し膨らんだ。明日には上弦の月。
明日、依月山に着く。きっと何かが分かる。それが何かは、明日の月だけが知っている。
*
翌日の昼過ぎ、燈と疾風は依月山の前の社にたどり着いた。
丹塗りの鳥居をくぐった先にあったのはお手水、鈴緒が垂れた本坪鈴と賽銭箱、背面の板戸が開け放たれた本殿。そしてさらに奥に聳えるのは、見上げても山頂が見えないほど巨大な霊峰だった。
「うわあ、大きい……!」
燈は思わず声をあげた。想像よりもずっと大きい。朧に霞む山肌。無数の木々の葉を纏った姿は天に吠える優美な獣のように、壮麗で神秘的な雰囲気を纏っている。
「これはすげえな……」
疾風も驚いているらしい。瞬きもせずにじっと見つめている。
二人が動けないでいたら、ひとりの男性が現れた。
「おや、お嬢さんは初めての参拝かな」
「はい、そうです。お爺さんはよく来られるのですか?」
「いや、ここに来たのは久々だよ。天子様が亡くなられたと聞いてね」
また詠姫がいないことを不安に思う人かと思ったが、お爺さんの表情は不安というよりどこか悲しそうだ。
「噂で聞いて、葬儀はまだ行われていないけれど、この高い山であれば追悼の意が届くと思ったんだ」
確かに、依月山は故人の魂が行くという天界に届きそうなほど空高い。お爺さんの話によると、同じような理由で参拝に来てる人も多いという。
「一番に民のことを考えてくださる、慈悲深く立派な天子様だった。本当に嘆かわしいことだよ」
お爺さんはそう言って、目頭を手巾で押さえる。周りでも小さなすすり泣きと、天子様の功績を称える声がした。
お爺さんは手巾を収めると、燈ににっこり微笑んだ。
「お嬢さんも参拝していくといい。その思いが、届けたいところに届くことを祈っているよ」
そう言って、ゆっくりと出口の方へ立ち去っていった。
その様子を見ながら、疾風がぼそりと呟いた。
「天子様、凄い人だったんだな」
燈は未だ辺りに響く嘆きを聞きながら答えた。
「そうね、とても多くの人に慕われていたのだわ」
それから、本殿のほうに向き直った。
「依月山を登る前に、お参りしていきましょう」
鈴をならして、
『その思いが、届けたいところに届くことを祈っているよ』
もし、この思いが自分の届けたいところに届くのなら。
(天子様、お願いです。私に全ての真実を教えてください)
湿った森の香りがする風が、燈を誘うようにざあっと依月山の方へ吹いていった。
*
依月山を登って少しのところに、その場所はあった。
燃えるような夕焼けが木々を眩しく照らす中、山道に突如現れた広場。木材を繊細に組んで建てられた古い様式の祭祀舞台。
「これが、詠姫が『終演の儀』を行う舞台……」
燈はそっと呟いた。舞台は優美な形をしていたが、夕陽に照らされているせいか少し寂しげに見えた。
「周りには何も無さそうだな……祭祀舞台だけか」
疾風がきょろきょろ辺りを見回す。確かに、見た限りでは社のようなものは見当たらない。
「もしかして下の本殿のどこかに資料があるのか? とりあえず暗くなりそうだし、今日は一旦下りて……」
「待って!」
燈は呟く疾風の言葉を止めた。疾風が驚いて燈を見る。
「舞台の後ろ、岩で作られているけど扉になっているわ。洞窟になってるのかも」
燈が指さしたのは、ぱっと見ただけではただの岩場に見える部分だった。けれど、ひとつの岩だけが妙に大きい。
そっと押し開けてみると思ったより軽い。薄い石版で扉にしていただけらしい。
「明るい……?」
内側に明かりが見えて、燈は思わず中に入った。警戒していた疾風が止める間もなく、きょろきょろと辺りを見回す。
そして、ある一点を見つめて燈は固まった。
それは、小さいが綺麗な泉だった。
洞窟の岩肌と対照的な、鏡面のように滑らかな水面。周囲を仄明かりが揺らぐ灯篭と色とりどりの花で飾られた、ありきたりな泉。普通の人ならばそう思うだけだろう。
だが、燈は違った。
「嫌ああああああああああああああああっっっっ!!」
「燈! どうしたっ!?」
激しい頭痛に絶叫する。疾風が心配そうに燈を呼ぶが全く聞こえない。
聞こえるのは周囲にいる大人達の低い囁き声。感じるのは砂袋の重たさ、水の冷たさ、水底に沈んでいくほど増す息苦しさ。そして見えたのは紅い、あまりにも紅い彼岸花の
それは、知らないはずの、けれども確かに覚えている古い記憶。
――怖いぐらい鮮明に思い出された、燈が贄として死んだ時の記憶。
(これは、いつの記憶なの……?)
頭が割れそうな頭痛の中、かろうじてそこまで考えたところで、燈の意識はふっつりと途切れた。
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