幕間二 花影
月を見ると、今でもあの美しい黒髪の少女を思い出す。
薄雲の向こうに覗く朧月。夢見るように舞う桜。鮮やかな
――りぃん。
柔らかく響く鈴の音が聞こえた気がして、
辰彦は庭の木々の中でも一際大きな
初めての祖父との対面。それから、辰彦のためにと開かれた簡単な宴会を済ませ、人払いをした館の庭園にひとり佇んでいたのである。
庭池の、さざ波ひとつ立てない静かな水面。鏡面を照らす光のように、鋭く冴えた光を放つ細い三日月。
あの時と季節は真逆だけれど、月の光はいつも同じ記憶を呼び起こす。
夜をそのまま映したような
「
思わず零れ出た呟きが妙に哀切に満ちていて、咄嗟に辰彦は手で口を押さえた。それから恐る恐る辺りを見回し、誰もいないのに安堵してもう一度月を見る。
辰彦が初めてはっきりと詠姫の姿を見たのは四年前、彼が十七の時であった。春の祭典にて、詠姫が舞を納める儀式があったのだ。
詠姫の儀式は、基本的に夜に行われる。朧に霞む月の光と吊り下げられた提灯の下、多くの人が幼い巫女姫の舞を見よう集まっていた。
そして辰彦は、静かに舞台に上がる詠姫を見た。
――りぃん。
響く鈴の音は、密やかに歩く彼女の足音のよう。遠目にでもはっきりと分かる豊かな黒髪。中央に立った時の凛とした姿。辰彦は思わず目を奪われていた。
楽師の
その時、辰彦は確かに詠姫と目があった。
ほんの一瞬、彼女が神楽歌の始めの一節を歌い始める前のほんのひと時の間だったが、確かにその艶やかな黑瞳が辰彦の
それは紅の炎が揺らぐ、強く真っ直ぐな余りにも美しい瞳。
『……!』
今度こそ辰彦は息を呑んだ。心臓は早鐘を打っていた。あのような美しい瞳はこれまで見たことが無かった。
あれから四年、辰彦は未だあの瞳を忘れることができないでいた。
二十一になった辰彦は、ひとり月を見ながら詠姫の姿を思い浮かべる。同時に思い出すのは、昨日母が言った言葉。
『詠姫様が、神苑からいなくなったそうです』
正直なことを言うと、辰彦はそれを聞いて少し憤慨した。次期天子として、詠姫に課せられている事柄は多少知っている。だがそれを差し引いても、彼女だって詠姫であることの責任を承知しているはずだ。それを投げ出すなんて、と多少幻滅した。詠姫が逃げなければ、この王位争いは起きなかったかもしれないというのに。
しかし、詠姫は逃げ出した。母も西の御方も彼女を探すのに必死だ。……自分の息子を天子にするために。
『立派な天子になるのですよ、辰彦』
何度も繰り返された母の言葉。今朝座敷で対面した祖父も、同じ言葉を辰彦に告げた。
『お前が天子になって、天羽の頂点に立つ日を楽しみにしておるぞ』
天子になれ。それが一族全ての者の願いであり、辰彦に寄せる期待。もちろん、辰彦も期待に応えたいと思っている。そのために、詠姫を見つけなければならない。西の御方の息子である
寅彦を思って、辰彦は懐の
視界の向こうから、幼い弟が駆けてくる気がした。
『たつ兄上!』
笛を吹くとどこからともなく現れる寅彦。霧雨の幽かな音が響く中、碁や将棋を教えた日々。辰彦は寅彦が大好きだった。けれど。
「ごめんね、とら。けれど、天子になるのは私だ」
幼い頃のように寅彦の名前を呼びながら、それでも、呟きには確かな決意が秘められていた。
弟と争うことが辰彦の運命だというのなら、この気持ちも押し隠してしまおう。
天子になることで慕ってくれた弟がいなくなってしまっても構わない。それが辰彦の宿命ならば。
(せめて、詠姫がすぐに見つかれば……)
これ以上激化する前に、王位争いを終わらせることができる。
再び詠姫の姿が脳裏に映ったが、意識して消してしまう。淡い想いを自覚してしまう前に、冷淡になってでも彼女を見つけて捕らえなければならない。
辰彦は表情を消し、三日月に背を向けるように庭を後にした。
夜風は水鏡を揺らし、湿った重たい空気を運んだ。どんよりとした灰色の雲が月を覆い隠す。
――やがて、
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