幕間 後宮

 時は少し遡り、あかりと天子が神苑しんえんで話していた頃のこと。

 後宮の透廊すきろうをひとりの女性が歩いていた。

 彼女は時の天子の二の妃。周囲からは西の御方と呼ばれている。黒檀こくたんの髪はしなやかで、きりっとした面立ちが良く映える。衣は表に濃紅、裏地に濃黄の朽葉くちば。秋の風情に寄り添いながらも華やかで優雅な装いであった。

 西の御方が足を止めたのは中庭の一角である。そこでは彼女の息子、寅彦とらひこが日々剣術の稽古に励んでいた。


「寅彦」


 西の御方がその名を呼ぶと、寅彦は僅かに詰めていた息を吐いて顔を上げた。


「母上」


 寅彦は今年で十八になる。父の頑健な体つきと母の華やかさを受け継いだ、大柄な体格の青年だ。髪は僅かに赤みを帯び、瞳も黒より僅かに明るい鳶色とびいろ。大胆に着崩された衣からも分かる通りかなりいい加減で大雑把な性格だが、その鍛え抜かれた剣技は本物で、その力強さと気安さのおかげか宮城の武官たちにも気に入られている。

 今日もどこぞの武官を捕まえて稽古に付き合わせていたのだろう。我が息子ながら呆れた剣術馬鹿である。だが……。


「今日も稽古に精が出てるようじゃな、寅彦」


 西の御方は、彼の剣術に明け暮れる日々をむしろ積極的に応援していた。寅彦は母に褒められたことで嬉しそうに笑ったが、ふと少し目を曇らせた。


「母上、父上は今日も詠姫様のところでしょうか」


 寅彦の父であり西の御方の夫である天子は、このところ暇さえあれば詠姫の所に通っていた。一日中執務室に引きこもっていることも多々あるものの、それ以外の時間でもどの妃のもとにも訪れていないことは確かであった。


「そう聞いておる。国の主ともあろう御方が、次の天子の母たる妃を置いて巫女姫と戯れるなど嘆かわしいことじゃ」


「何を勝手なことを言っておられるのです」


 西の御方が短く嘆息した時、背後から咎めるような声があった。振り返ると、西の御方よりは幾分小柄な女性が、それでも堂々とした姿で歩み寄ってきていた。

 彼女は東の御方と呼ばれている女性である。一本一本が細い黒髪はいつも濡れたように艶やかで、それでいて優美な曲線を描いてほっそりとした肩を伝い流れ落ちる。衣は高貴さを思わせるはぎ重ね。玉虫色で鮮やかに描かれた菊花紋きっかもんが美しい。

 東の御方は、西の御方を睨みつけるようにして言った。


「次の天子となるのは第一皇子である私の息子、辰彦たつひこに決まっているでしょう」


 その辰彦は彼女のすぐ後ろを歩いていた。歳は寅彦より三つ上の二十一。灰混じりの光に透けるような淡い黒髪と錫色すずいろの瞳を持つ。寅彦とは対照的に柔和で真面目そうな面立ちが特徴の青年だ。


「辰彦は詩歌の作に富み、大陸の進んだ教養もよく学び、龍笛りゅうてきも上手く吹きます。天子としてこれほどの器は他にないでしょう」


 自慢げな東の御方に、西の御方はふんと笑ってみせた。


「全く時代錯誤も甚だしい。確かに辰彦様は第一皇子。ですが所詮は賢しいだけの時代遅れの貴族の子。今、西の大陸がどれほど危うい状況であるか貴女様がお忘れになった訳ではあるまい」


 天羽あまはの西にある大陸は睹河原とがはらと呼ばれている。幾つかの小国がひしめき合っていたが、最近、その中でも比較的大きな国で内乱が起き、結果、周囲の小国を巻き込んだ動乱に発展しているという。


「睹河原は今や戦乱の世。このままでは天羽も危ういのは周知の事実。だからこそ武芸に富む我が息子寅彦が次の天子になるべきということが分からぬのか」


 西の御方が寅彦に稽古を勧めていたのもそこに理由があった。今や貴族が政治を台頭する時代は終わり、自分の生家のような天羽の軍事力として極めて貢献した武家こそが優遇されるべきであると思ったのだ。そんな時代の天子には自分の息子のような力強く統率力のある者が相応しい。そういった魂胆である。

 東の御方は続けて何か反論しようとしたが、やがて深く嘆息した。


「何はともあれ、次代の天子を決めるのは当代の天子様と詠姫様。その時までせいぜいそのよく回る口で喚いていたらよろしいでしょう」


 そう言って、東の御方は辰彦を伴い立ち去っていった。西の御方も自分の部屋に戻ろうと寅彦を呼んだ。歩きながら、先程の会話に思考を巡らす。

 東の御方の口から「詠姫」の名が出てきたのは、詠姫が認めた者が正式な天子であるという掟があるからだ。天子は新たな詠姫を迎えるか、その詠姫が十六になるまでに新たな天子を決めて位を譲る。これは、詠姫が真幌月まほろづきを鎮め天羽を支える者として天子の次に権力があることの証であった。

 そこまで考えてから、東の御方ははたと足を止めた。


(もしや、最近天子様が詠姫様のもとへよく訪れるのは次代の天子を決めるためではなかろうか)


 確か、今の詠姫の歳は十五。任期は後僅かである。天子が次期天子の選定に入ってもおかしくない。そう考えた西の御方は今までになく早足で透廊を歩き始めた。


「母上!」


 後ろで寅彦が驚いたように声をかけてきたが振り返る暇はない。


「こうしてはおれぬ! 今日の内に一度、天子様にお会いしなくては」


 会って、是非とも自分の息子を次期天子にするように天子に言うのだ。西の御方はそのような思いでいっぱいだった。


 ――だから、いつになく憂いた顔で、寅彦が東の御方と辰彦が去っていった方角を見ていたことに気付かなかったのである。


                 *

 

 結局、その日西の御方が天子に会うことは叶わなかった。

 そしてその翌日、驚くべき知らせが後宮にもたらされた。


「天子様が亡くなったというのはまことか!?」


 衛士の話によると、まだ日も明けきらぬころ、天子様が寝所で賊に殺されているのが見つかったのだという。剣技誉れ高い天子であるにも関わらず、全く抵抗した跡は見られず一息で殺されていたらしい。

 不思議に思うものの、そのことを深く追求する時間はなかった。


「天子様の遺体をけがさぬように安置せよ。それからすぐに詠姫様を探すのじゃ!」


 天子が亡くなった以上、遺言でもない限り次期天子を決める決定打は詠姫の承認しか有り得ない。何としてでも、東の御方よりも先に詠姫を確保する必要があった。

 遠くからも怒号に近い叫び声が途切れ途切れ聞こえてくる。恐らく東の御方も詠姫を探しているのだろう。間に合えばいいが。西の御方は浅く唇を噛んだ。


 この日、朝夕は涼しくなったもののまだ日が昇るとじっとりと暑い初秋の頃、次期天子候補となる二人の皇子の母による、詠姫争奪戦が始まったのである。

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