万能メイド奮闘記
七条ミル
日常
第1話「メイドの基本」
「メアリー! 背中を流しなさい!」
屋敷にそんな声が響いた。メアリーと呼ばれた少女は
「はーい」
と大体コレくらい言えば届くだろうくらいの声で返事をし、小走りに浴場へ向かう。
館でメイドとして働くメアリーを呼びつけたのはその主人の娘であるクララ。グラッツェル家の長女である。尤も、長女と言っても兄弟は居ない。
もともとメアリーは一般家庭に生まれたごく普通の女の子だった。しかし四歳の頃、実家は大火事で焼けこげ、メアリーの両親はその事故で亡くなった。行くあてもなく、実家の前でただ泣いていたメアリーを可愛そうに思ったメアリーの主人、エルマー=グラッツェルは最初はメアリーを養子として招きいれようと思った。しかし、歳を同じくするクララはそのときメアリーが姉妹となることを断固として拒否した。どうしたら保護できるだろうか、と考えた結果がメイドとして雇うことだったのだ。
メアリーは脱衣所で所謂メイド服と呼ばれるものを脱ぎ、そして最後に手袋をゆっくりと外した。メアリーの手には火傷のあとがくっきりと残っていた。メアリーの素性を知らぬ者がこの痕を目にすれば、驚くだろうと思う。客扱いも引き受けるメアリーは、こうしてお風呂に入るとき、手を洗うとき以外はずっと白い手袋を着用していた。
「お待たせしました」
メアリーはゆっくりと浴室に入っていった。
「うーん、相変わらずメアリーは私よりも胸がでかいわね、ちょっと触らせなさいよちょっと」
横にメアリーが立つなりクララはメアリーの胸めがけて手を伸ばす。
「ふわっ」
「ちょっと、変な声出さないでよ」
「誰のせいだと……!」
自分のせいでしょ、とクララが言う。
「私は触ってくださいとは一度も……」
「でも触られたそうな顔してたわよ」
単純に、クララが触りたいだけなのだと、メアリーは思う。自分のことだから客観視できてるかどうかは謎なのだけれども、有り体に言ってクララよりもメアリーの方が、大きい。
本人に言ったら、絶対に殺されるけれど。
日課のようなものだ。だいたい、最終的には素直にメアリーが触られる、というところに帰結する。別に、触られたところで何かしらあるわけじゃない。ないことはないけれど、そこまで欲に弱いわけじゃないのだ。
――背中流しに来たのだけれどなあ。
いつも思うけれど、そんなのクララには関係がない、らしい。
それからメアリーはクララを押さえて背中を強引に洗い流し、そして自分も身体を洗った。
「ねえメアリー、私よりも使用人のあなたのほうが胸がでかいのってどうなのよ。メイドってのはね、須く謙虚で主人に礼を尽くしてそしてわたしよりも胸が小さくあるべきなのよ」
「無理言わないでください……」
「もぐわよ」
「痛いですちょっと!」
この会話も、何度目になることか。現在二人は十八歳。こんな会話が始まったのが、それこそちょうど胸が膨らみ始めるような時期。ここまでの間、一度たりともクララがメアリーを追い越せたことはなかったし、おそらく今後もない。
虚しくないのだろうか、と思う。
幼い頃から仕えているからこそ、失礼とは承知でも、思ってしまう。そんなに使用人の胸に噛み付いたところで——いや、実際にはしがみついているのだけれど——現実は変わらないのだし。
「はあ、もうなんか嫌になるわね」
「いや、あの、ですから……」
「揉ませなさいよ、それ」
「あの」
「いい加減私も気付いてるわよ、私は一生そうなれないわ。うん、だからね」
何故そう女同士だと言うのにいやらしい手つきが出来るのかと、本当によくわからない。
これが、主人なのか。
「何やその目は」
「……なんでもありません」
通常、メイドと主人が同じ湯船に入るなんてありえない状況だと思う。でも、小さな頃からずっと一緒に居る同年齢の二人、幼馴染のようなものなのだ。二人が一緒に入浴するのは、主人であるクララの意思なのだ。
「うーん、やわらかいなあ」
もう、どうにでもなれ。
誰かに見られているわけでもないのだ。主人には逆らえない。
そろそろ出ましょうと言うと、クララは少し嫌そうな顔をした。
「あまり長風呂をするとのぼせますよ」
「わかってるわよ」
クララの腕を掴んで持ち上げ、腰のあたりに手を回す。多分既にのぼせていて、体調はよくない。
メアリーは真っ白に洗濯されたタオルでクララの身体を丁寧に拭き、そして服を着せた。
クララを無事に部屋まで送り届けたメアリーは厨房へと急いだ。
少し時間を買ってしまったけれど、まだ十分に間に合う。
メアリーは料理をエルマーの細君であるローザに教わった。まだ幼かったメアリーがここまで多才なメイドに仕上がったのは、ひとえにローザのおかげであるといっても過言ではない。
グラッツェル家に於ける食事はそこそこ豪勢である。あくまでそこそこであるが、無駄に料理が上手くなってしまったメアリーと、料理好きなローザの二人で料理をするのが普段のパターンで、時々ローザが食事会などに出かけたりすると、メアリーが一人で食事を作ることになる。
「そうだ、今日は東洋のとある国で毎日どこかの家庭が食べると噂の『カレーライス』にしましょう」
ローザは厨房の真ん中に立ってそんなことを呟いた。東洋の国とは勿論日の出る国、つまり日本のことであるが、それはまた別の話である。
「カレーライスといいますと、確かスパイスを沢山使ってスープのようなものを作るんでしたね」
メアリーは調味料の棚からスパイスの類を一式取り出し並べた。ローザはそれをすべて勘で鍋に入れたりなんなりして、そしてなんと、カレーのルーは無事に出来上がってしまったのだった。しかも、日本の食堂などで出てくるようなものである。
「あ、おいしいわね」
「そうですね、それでは、もう暫くしましたらお持ちしますので、食堂でお待ちください」
ローザはありがとう、と一言言って厨房を去っていった。
メアリーはもう一口だけ味見をして頷き、それから白米とルーを同じ皿に盛った。
食堂には既にグラッツェル家の三人と、他執事メイド数名が集まっていた。メアリーはそれぞれの前にカレーライスを置き、それから自分の分を持って自席に腰掛けた。
「それでは頂こうか」
エルマーは食前の挨拶をし、そして全員が一斉にカレーに口をつける。皆口々においしいといい、すぐに鍋に入っていたルーも、白米も、食べきってしまった。
食後、メアリーはクララに腕を引っ張られクララの部屋に連れて行かれた。そしてチェスを二戦ほどしてから、漸くメアリーは自由時間となる。自由時間と言っても、誰かがメアリーのことを呼べばすぐに仕事を始めることとなる。
とりあえず自分に宛がわれた部屋に帰るべく、館の廊下をとぼとぼと歩く。
するととあるメイドの寝泊りする部屋から、なにやら激しい音が聞こえてくる。できるだけ気配を消して近寄り、少しだけ空いているドアの隙間から部屋を覗いてみる。
中には寝転がっている女性と、その上に乗って動いている男性。
ああ、なんというか、これはダメな奴だと思った。するならせめて、ドアくらいちゃんと閉めてからやってほしい。
メアリーが顔を紅潮させてどうしたものかと右往左往していると、
「何してるの?」
クララがやってきてしまった。メアリーはあわてて少しだけ開いていたドアを音など構わずに閉めた。
「いえ、その、中で執事とメイドがサムギョプサルを食べていたものですから。私も混ざりたいなぁ……なんて……」
かなり苦しい言い訳だった。そもそも、食事を取ったばかりである。あまり重いものも食べれまい。
「え!? サムギョプサル!? 私も食べたい!!」
クララは兎も角として。
因みにこんなだから、クララは体重がやや重たい。身長もクララのほうが高いから、まあ当たり前といえば当たり前ではあるのだが、それを差し引いても、やっぱりクララのほうが重たい。
「いや! あの! もう! たぶん! 食べ終わってしまってますよ!」
扉を開けようとするクララを必死にガードしながら、メアリーはさりげなくクララを自分の部屋のほうへと押しやる。
「うーん、そうかぁ……。」
なんとか納得してくれたクララを部屋から引き剥がし、メアリーは自分の部屋でメアリーと少し話をした。
そのあと、メアリーと例のサムギョプサル召使たちの間でちょっとした騒動があったのはまた別の話である。
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