今でも君を愛している

佐藤 一郎

第1話

 嗅ぎ慣れたオキシドルの匂いがこの部屋には充満していた。この仕事についてから二五年、この匂いは私の日常の一部であり、そして虚無感とも悲愴感とも取れる表情たちもそうであった。

 しかし今日はいつもと少し違った。

 『いつも』は遺族が患者の手を握り最後の言葉を交わし合う横で、点滴を止め、鳴らない心音を聴き、胸ポケットにしまったペンライトでその目を覗き込む。そこには感情の一つもなく鏡のように、私の機械のような顔が映されるのだ。

 しかし今日私は、患者の手を恐る恐る握るのだった。男にしては小さいその手でも、肉が落ち小枝のような白い彼女の手をすっぽり包み込むことができた。骨ばって、筋と血管が浮き出たその手は弱々しく私の手を握り返し、そんな患者の顔を、私は見ることができず、ただ左腕の時計が七時四十三分を示しているのを見つめた。

 病名は肺癌、この二五年嫌という程見続けてきた病名だった。見つかった時にはすでにステージ4、『余命3ヶ月』と私はカルテに書いた。驚くべきことに、患者は私の元妻であった。

 理由は私の不倫、相手は十は下の看護師だった。当直明けのある日、家に帰ると食卓の机の上には離婚届がおかれていて、あとはそこに私の判子を押すだけになっていた。幸いにして一人息子はすでに巣立っていて、この離婚は二人だけの問題としてあっさりと済んだ。離婚してから一年後には交際相手の看護師にも愛想をつかされた。

春のかすかに冷たい風が病室の白いカーテンを揺らし吹き込み、頬を引っ掻く。

「なあ、君は私のことを恨んでいるのだろうな。」

「憎んでいたわ。」気管が詰まり、苦しそうにゆっくりと彼女は答えた。

「結婚する時に仕事も趣味も諦めて、それからあなたにずっと尽くしていたのよ。」

「すまなかった。」

 相変わらず私の目は腕時計を見つめ続けたが、彼女の手が一瞬強張ったから、きっと怒った顔をしているのだろう。

「でも、きっと私はリョウくんのこと、愛してたわ。」

 今度は私の手が強張った。以前からある胸の詰まりが痛み、そして何も言えなくなった。

「昔みたいに、わたしもとは言ってくれないのね。」苦しそうに、しかしどこか可笑しそうに彼女はいった。

「だから、リョウくんのこと憎いわ。わたしを裏切ったんだもの。」

 だけど、そう彼女は続ける。

「同じくらい愛してるわ。」

 感動的な言葉とともに息を引き取ることは、割と良くあることだ。そして彼女も、その一言と引き換えに命を手放した。

 そこからはいつもと同じだった。死亡を確認し診断書に署名と時刻を書き込んだ。

 繋いだ手を離す時に初めて彼女の顔を見た。随分と穏やかな死に顔で、その口には小さな笑みが携えられていた。わたしの愛した女性の顔がそれであったのだ。

 診断書に書いた時刻は七時四十八分、異様に長く疲れた彼女とのやりとりは、ほんの五分のことだった。

「わたしもだ。」わたしの胸の詰まりがようやく取れた気がした。

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