Laboratory -in the order of time scales-

水沢妃

1-1

 そいつに出会ったのは三年前の大雨の時だった。大学の研修で病院にいた俺は、長雨による川の決壊という緊急事態のために避難してきた住人の誘導にかり出されていた。ごった返す人々をけが人とそうでない人に分ける。淡々と仕事をこなしていた俺は、目の前の男がこちらを見ていることに気がついて顔を上げた。

 ぎょっとした顔の俺がいた。

 いや、俺そっくりの男だった。俺はびびって硬直していた。相手も動こうとせず、しばらくしてサイレンが鳴り響いたところではっと我に返った。

 夜になって安全が確認された後も、念のため避難してきた人たちは二階以上の階で一夜を過ごすことになった。静かになったロビーで俺は、例の男を見つけた。

「……こんばんは。」

 男はふっと顔を上げて、小さな声で「ああ。」と言った。一言断って隣に座る。名前を聞くと普通にフルネームが返ってきた。

 もちろんそいつは俺ではなかった。かといって別人というには似すぎている。俺は最初困惑したけれど、男は俺のファミリーネームを訊いて納得したようだった。

「俺、お前の双子の兄弟なんだ。」

 男はいたって朗らかに、驚くべき事実を伝えてきた。


 かつて男は、俺の両親によって養子に出された。その事実を知らないままに成長した彼は、成人と共に両親からそのことを教えてもらった。

 当時彼は仕事が忙しく、それを聞いても行動に移すような余裕はなかった。ところが最近になって仕事場が閉鎖されてしまい、突然暇な時間に放り出された男はふと思い出す。

 両親から、本当の親の住所を教えてもらっていたことに。

 男は旅に出た。住所までは楽にたどり着けたが、すでに両親はそこに住んではいなかった。そこからは近所の人に話を聞いたり、時には役所まで出向いて情報を集めた。そしてたどり着いたのが、郊外にある教会だった。

 俺の両親は確かに、すでに他界していた。仲良く並んだ二つの墓の前で途方に暮れていた彼は、その墓を管理している初老の男性に声をかけられる。やあ久しぶりだな、こんな時期にどうしたんだい。

 男はすぐに、管理人が自分をだれかと勘違いしていることに気がついた。事情を説明した男に、管理人はすまなかったねと謝りながらこう言った。

 あの夫婦には息子が一人いたんだよ。きっとお前さんの兄弟だろう。

 それは養い親すら知らない、兄弟の存在だった。

 管理人から俺の情報を仕入れた男はさっそく俺の住所を訪ねた。ところが俺は実習の関係で家におらず、そうこうしているうちに大雨で川が決壊した。

 踏んだり蹴ったりの男はいらいらしながら他の人達の流れに乗って避難場所の病院までやってきて、自分と同じ顔の男と出くわした。俺だ。


「まさかこんなところで会えるとは思わなくて。」

「……俺も、まさか自分に兄弟がいただなんて聞いてなくて。」

 俺の双子と名乗った男と俺は、双子によくあるように仕草が似ていたり、直感的に同じことを思ったり、というようなことはなさそうだった。それにまだ俺は、「なんらかの理由があって俺になりすまそうとしている赤の他人」という考えを捨てきれないでいた。

 両親から、養子に出した兄弟がいると聞いたことはなかった。一人息子の俺に隠したまま、二人そろって事故に遭ってしまったということも考えられなくはない。ただ、何の確証もなく目の前の男を信じる気にはなれないのだ。

 男にそのことをはっきり伝えると、「そりゃそうだ。」と案外あっさりと返事が返ってきた。

「まっ、こっちも会えたからってなにかあるかと言われれば、なんにもないからな。」

「そうなのか?」

 男は困ったように肩をすくめる。

「会いに来るのが目的だったから、その後のことは考えてなかったんだ。」

 ああ、母さんの「お前はいつも、どこか抜けてるわね。」って口癖がどこからか聞こえてきそう。

 本当にこいつは、俺の兄弟なのかもしれない。


 怪しい男はどこに滞在しているとも告げずに俺の前から去った。けれどボランティアで浸水した街の復旧を手伝っているらしく、たまにそれを見た友人から「お前瞬間移動してね?」と声をかけられることはあったが、そのたびに他人の空似だろ、と突っぱねた。

 あんな突拍子もない話をする気にはなれなかった。

 ところが一週間後、また大雨が降って街はてんやわんやになった。俺はまた病院で例の男に会った。

「おお、ひさしぶり。」

「ああ、どうもどうも。」

「最近ボランティアしてるんだって? 知り合いから俺がテレポーテーションしてると思われてるんだが。」

 男は疲れたような顔をしていたが、それを聞いて少しはにかんだ。

「……それは申しわけない。俺もあんまり詮索されたくなくて他人の空似ってことにしてるからなあ。」

 なるほど。考えていることはいっしょということか。

「そう言えば、あんたどこに寝泊まりしてるんだ? あてなんかないだろう。」

 一応ホテルはある事にはあるが、小さいから長期で泊まるとなると難しいだろうな、と思って俺は聞いたのだが、男は平然とこう言った。

「橋の下ので野宿してるけど。」

「……水害あった後にそれはやめとけよ!」

 俺は渋る男を無理やり自分の家に連れて行った。


 男はまじめな男のようだった。俺の家に居候するようになってからも何かと世話を焼いてくれる。

 復旧作業があらかた片付いた後も男は日雇いの仕事に行ってみたり、そのへんをぶらついてみたり、じっとしていることはあまりない。

 俺は実習で家を空けることが多く、家のことをやってくれるような彼女もいなかったから、男の存在は少し、ほんの少しありがたかった。

 とはいえまだ男のことを信じられない俺は、どうにか男の目論見を暴こうと思っていた。そんなものは最初からないのかもしれないということは考えなかった。

 そんなある日、たまたまおばさんから電話がかかってきた。母さんの妹にあたるその人は、両親を亡くして一人になった俺に一番近い肉親で、たまにこうやって電話をかけてくる。

 たわいのない世間話の後、おばさんの愚痴をひとしきり聞く。同じ話が二回繰り返されるようになると、俺はふと男のことをおばさんに聞いてみようという気になった。

 おしゃべりなおばさんは、珍しく言葉少なになった。

「おばさん?」

「……ああ、ごめんね。」

 おばさんは俺が生まれた当時、うちの両親とあまり連絡を取っていなかったらしい。

「あんたが生まれるときに立ち会ったわけじゃないから、はっきりあんたたちが双子かって証明はしてあげられないけど。ただ、あの時姉さんたち、お金には困っていたみたいよ。」

 おばさんの話は逆に俺の心をかき乱した。


 実習が終わった次の日。久しぶりの休日を返上して、俺は役所へと赴いた。これが一番確実であるということは最初のうちから気がついていたが、なかなか気持ちがのらなかったのだ。それを許すように時間もなかった。

 さんざん待たされた挙句、夕方になって家に帰る。

 男は家におらず、ひやりとした感覚が背中を駆けぬける。かといってどうすることもできないので適当に見る気のないテレビをつけて、もらった書類に目を通していると、ふいに玄関が開いた。日雇いの労働に出ていたのだろうか。作業着姿の男が軽くこちらに手を上げた。

「なあ。話があるんだけど。」

 目の前にやって来た男に、俺は告げる。

「……。」

 俺の手元にある書類にちらりと目をやって、無言のまま、男はベッドに腰かけた。一人暮らしの部屋は狭くて、座るところはベッドか一人がけのソファしかない。いつもは俺がベッドに座っていた。

 俺は男の前に、役所でもらってきた書類を差し出した。俺の戸籍の写し。男はそれを黙って見ていた。

「今日、役所で調べてきた。俺に双子の兄弟なんていなかった。どころか、役所の記録だと、お前はこの世にいない人間だった。」

 男の戸籍は存在していない。養子に出されたならその記録が残っているはずだが、それすらもないということは、こいつは何か目的があって俺によく似た外見になったのだと、そうとしか考えられなかった。

 俺は無言で、さあどういうことだと問いかける。

 男も黙っていた。そしてていねいに書類を返してきて、代わりに自分の鞄に手をかけた。拳銃でも出てくるんじゃないかと焦った俺をあざけるように、折りたたんだ紙が出てくる。

「俺も、いつかは話さないと、って思ってたんだ。」

 紙は開かれることなく、俺に差し出された。

 まるでそこに答えがあるとでも言いたげに。そしておそらく俺の予想は当たっている。その紙きれは俺の書類と同じくらいの効力を持っているのだと直感でわかった。

 一体、こいつは何なのだろう。

 こんななんのとりえもない男の真似をして、何をしようと思っていたのだろう。

 俺は震える手で、その答えが書いてあるであろう紙を受け取り、開いた。

 上から下へ、そこに書かれた文章と、いくつかの署名を読む。

 いや、見ることしかできなかった。

 意味が解らないままに、自分の両親が書いたサインを見る。男は俺の様子に、双子なんだと告げたときと同じ声音で言った。

「俺は生物学上あんたと同じ遺伝子情報を持っている人間、つまりクローンなんだ。」

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