88 蛇口
私の目の前には、とても奇妙な光景が広がってた。
北極圏のオーロラのような、あるいは水たまりに張った油膜のような、そんな極彩色の幻影が浮かんだりにじんだり消えたりしながら移ろってる。
前後左右といった感覚も通じない。
ただ私はそこにあるし、近くに夢法師がいることもわかる。
だから、近い、遠いという感覚は存在するが、ではそれは物理的な距離なのかというとぜんぜんちがう。
(どっちかというと、友だちとの距離が遠いとか近いとか、そういう感覚かな)
私は、友だちが少なかったなりに、遠い・近いには敏感だ。
私と二人で話してた「友だち」が、べつの子が来るなり、ほっとしたような顔でそっちに行く、なんてことはよくあった。
明るくふるまってみても、落ち着いてふるまってみても、私と話すのは多くの人にとって気づまりらしかった。
生まれ持った気質や家庭環境のちがいのせいなんだと気づくまでに、そこそこ時間がかかったな。
――ミナトよ……おまえの精神は、うっすらと悲しみに覆われておるな……
夢法師がそんなことを言ってきた。
近くにあることはわかるが、夢法師の「姿」は見えない。
しいていえば、光の玉のようななにかがあるように「感じる」。
「あはは……まぁ、たいしたことは経験してないよ。私より不幸な人なんていくらでもいるからね」
――そのような比較をせずにはいられぬこと自体が悲しいのだよ……
「ずいぶんからむね」
――気障りだったか? ウンディーネのみを友とする孤独な老人の言うことだ、あまり気にするな……
「『向こう』に着くまでまだかかるみたいだから聞くけど、夢法師さんはなんでダンジョンマスターに?」
――わしは遠い昔、国を追われ、荒野に放逐された一族の幼な子だった……現在霧の森のある場所は、かつては乾いた荒野だったのだ……
「ええと、ダンジョンになる前だよね?」
――さよう……一族には秘伝の夢見の力があったが、それがために人々からは忌み嫌われておった……結果、政争に巻きこまれ、一族は草木すらまばらな土地に追放された……
「よくあることだね」
――そうだな、よくあることだ……一族は捲土重来を期して、飛び抜けた才能を持っておったわしを厳しく育て上げた……つらい、つらい修行だったよ……幼かったわしは大人たちを恨んだが、大人たちの気持ちもわかっておった……わしを苦しめる大人たちを憎みながら、同時に大人たちの傷を思って涙も流した……
「優しい子どもだったんだね」
――さて、どうかな……結局、捲土重来はならなかった……不毛の地で一族の者は次々と倒れ、子孫を残すことすら叶わなくなった……その絶望から逃れるように、大人たちはわしの教育にいっそう入れあげていった……だが、それも長くは続かなかった……わしが秘伝の夢見の術を自在に操れるようになった頃には、わし以外の一族はすでに死に絶えておった……わしも、厳しい修行がたたって心身を壊し、半死半生の状態よ……とても、国に戻って旗を上げるなり、報復するなりできるだけの力は残っておらなんだ……
「だから、絶望したあなたはダンジョンマスターになった?」
――そうだ……この地に眠っていたダンジョンコアが死にかけたわしを拾ったのだ……死にかけたわしが望んだのは、復讐ではなく、ただの水だ……ただ、満ち足りるまで水を飲んでみたかった……荒野での暮らしは、つねに乾きと戦いだったからな……その念が、この地に巨大な水のダンジョンを生み出し、それに吸い寄せられるようにウンディーネたちがやってきた……
「それから、おじいさんになるまでずっとダンジョンマスターだった?」
――そうだ……わしにとってウンディーネたちは、救い主であり、友であり、優しき母でもある存在よ……
しみじみと語る夢法師に、私がコメントに困ってると、いよいよ目標とするものが近づいてきた。
「あれがイムソダだね?」
――さよう……
それは、
幽世に大きさという概念はないけど、私の存在と比すれば、ただの人と何十メートルもある氷山くらいのちがいがある。
しかも、その氷山は存在の大部分を「水面下」に隠してる。
「えっと……これをどうにかできるって、本気で言ってたのかな?」
――呑まれるな、ミナトよ……存在の大きさは必ずしも強さと同じではない……肥大化した自我の持ち主とひきしまった精神の持ち主と……ぶつかれば砕けるのはどちらか、という話だ……
「いやぁ、私メンタルの弱さには自信あるし……相撲取りと土俵で戦って勝てる自信はないかな」
――何を言ってるのかわからぬが、イムソダという存在の本質は、肥え太った精神の豚よ……他の精神をむさぼり、脂肪として自らのうちに蓄え、さらに多くの精神を求めてさまよい続ける……その
夢法師が言うのは、私がイムソダの誘惑に、「自分の手の届く範囲で十分だから」と言って乗らなかったことだろう。
「あ、ひょっとして、イムソダが覚醒させて、暴れまわった挙句討ち取られた人たちの精神って……」
――その通りだ……やつに食われ、あれの一部になっておる……
(あはは、本当に乗らなくてよかった……)
氷山であり、肉塊であり、牢獄であるような、あんな「モノ」に取りこまれてはたまらない。
「それで、夢法師さん。イムソダの様子に変わったところはない?」
――ふむ……わからぬな……おまえこそ、何かに気づかないか?
「うーん……なんていうか、想像とはちょっとちがったんだよね」
――ほう?
「おもったより生々しかったっていうか。もっと強力な自我のある悪魔みたいな存在だと思ってたんだけど、節操なく多角化したあげく効率が悪くなって利益が出なくなった末期的な大企業みたいな感じだよね」
父親がよく愚痴ってた。うちの会社はなりは大きいが不採算部門ばかりなうえに、社内政治が複雑で改革も進まないって。
あの人、いちおうエリートコースに乗ってたらしいからね。いろんな板挟みがあったらしい。娘をゴルフクラブで殴っていい理由にはならないけども。
「あと……あそこ。なんか変じゃない?」
私はそう言って、イムソダの一部を指さした。
言葉で言うのは難しいけど、氷山の隠れてる部分にあたる。
――変、とは?
「幽世に収まってないように見えるんだよね。
ほら、ダンジョンにほころびってあるじゃない。冒険者が聖域化して拠点にする」
――うむ……では、イムソダの存在が『ほころんで』おると?
「ちょっとちがうかな……えっと、あそこに向かってイムソダの精神がゆっくり流れてる感じがしない? 流れてるっていうか、漏れてる感じかな」
――漏れて……? ううむ、これは……そうか、あれは現世への出口なのだな!
「みたいだね。蛇口みたいになってて、そこから精神が漏れ出してる。漏れるっていうか、引っ越そうとしてるのかも。イムソダ本体も、空気の抜けてく風船みたいに、ゆっくりと縮んでる。
夢法師さん、前にイムソダを見たのはいつ? そのときより小さくなってない?」
――う、む……言われてみれば縮んでおるのやもしれぬ……いや、確実に縮んでおるな……以前はその巨大さに圧倒されて頭が回らなかったが、その頃にくらべて小さくなっておる……だからこそ、それを観測するわしにも余裕が生まれ、こうしてただ見ていることができるのだからな……
あ、前はビビってすぐに逃げ出したんだ。
「さっきからこっちに気づく様子がないのも変だよね。きっと、イムソダの意識はもう現世のほうに行ってるんじゃないかな」
――そうだな……幽世においては、見ることは見られることを必然的に伴うはずだ……
出た、「闇をのぞきこむものは闇からのぞき返されてることを忘れるな」理論。
「これではっきりしたね。イムソダは現世への接点をもう見つけて、移住を始めてるってことが」
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