66 夢法師

 逃亡した派遣騎士クレティアス・アビージ・ジルテメアは、街道を行く旅人を襲って服を奪うと、ロフトから南北に伸びる街道を北へと向かった。

 ロフトからいちばん近い国境は北にある。

 逃亡者が北に向かったのは合理的だ。


 ……と、追う側は考えるだろう。


「くそっ、なんで俺がこんな裏街道を……」


 クレティアスは、北の街で手に入れたありふれた直剣を振るい、手入れのされていない裏街道の、下生えや枝を払いながら進んで行く。


「一時期盗賊が多かったせいで長いこと封鎖されてた裏街道だ。地元の者でもない限り、存在すら知らないだろう」


 そんな道をクレティアスが知っていたのは、まだ幼く分別もなかった頃に、家出をしてこの辺りをさまよったことがあったからだ。


「あの時はレイティアも一緒だったな。当時の俺は母親が違うことなど気にもしていなかった。若気の至りだ」


 いじめられ、泣いていたレイティアを連れて、腹違いの兄であるクレティアスは家出をした。


「ゴブリンに出くわした。習いたての剣で必死に戦った」


 震えるレイティアを後ろに感じながら、クレティアスは勇気を奮って戦い、ゴブリンをやっとのことで斬り伏せた。

 それからのことだ。クレティアスが剣技の修練に身を入れ始めたのは。


「あいつとうまくいかなくなったのはいつからだったか……」


 嫡男だったクレティアスには専属の家庭教師がつき、礼儀作法や貴族社会についてあらゆることを叩きこまれた。

 いつしかクレティアスは平民を見下し、妾腹の妹がいることを恥じるようになっていた。

 クレティアスが貴族として成長し、世の中のことを知るようになったことで、腹違いの妹への愛情は羞恥と憎悪へと変わったのだ。


 だが、もちろんそれを反省するような男ではない。


「ふん……最後まで使えん女だったな。男をたぶらかす手管だけは認めてやるが」


 クレティアスの父であるロフト伯も、レイティアの母に手もなくたぶらかされたのだろう。


「俺は下賎な女には触りたくもない。俺の高貴な身体が汚れる。俺にふさわしいのは絶世の美姫だけだ」


 上昇婚を当然と考える自尊心の強さと自己陶酔は、性別こそ違えど、兄妹でよく似通っていた。


「樹国を抜け、海洋諸都市にたどり着ければ……俺の剣の腕だ、仕官の道はいくらでもあるさ」


 クレティアスはいま、南へと向かって裏街道を進んでいた。

 最初北に向かったのは陽動だ。わざと目立つような真似をして、クレティアスは北に向かっていると思わせた。

 追っ手が街道を封鎖し、北へ向かうあいだに、クレティアスは裏街道を通って南へ向かう。


「くそっ、いまいましい。俺の剣が斬るのは下草などではないはずだ! 手駒が欲しい。俺のいいなりになって下賎なワザを全部やってのける卑しいが有能な手駒がな」


 裏街道は、途中からは人の手がいくぶん入っているようだった。


「ふん。こんな街道筋から外れた場所に住んでいる人間などろくなものではあるまい」


 だが、馬が問題なく通れるようになったのはありがたい。


「待っていろ、冒険者ミナト。この屈辱、必ずや倍にして返してやる」


 いためつけ、なぶり殺しにするのがいいか。

 権力で冤罪をでっち上げ、獄死させるのがいいか。

 それとも、ゴブリンどもの妊み腹としてダンジョンにでも置き去りにしてやるか。


 クレティアスは道中、復讐の方途をくりかえしくりかえし妄想しながら、人目を忍んで馬を走らせる。


「ふぅ。もうロフトより南に入っただろう。あの峠を越えたら野営しよう。馬を使い潰す余裕はないからな」


 追っ手のことを考えれば夜通し駆けてでも距離を稼いでおきたかったが、今の身の上で替え馬など用意できるはずもない。


 峠を越えた時には、もう日は沈んでいた。


 クレティアスは、苦労して火を起こし、大きな草の葉を重ね合わせて即席の天幕を作った。

 泥にまみれながら仕留めた鹿を、眉をひそめながらなんとかさばく。飯盒に水を張り、焚き火にかけて肉を煮こむ。

 できあがった茹で肉は、身が硬く、味が薄く、おそろしく食べにくかった。


「不味い。こんな不味い飯は初めてだ……。くそっ、冒険者ふぜいが! この俺をこんな境遇に追いこんで、ただで済むと思うな……」


 怒りを駆り立て、硬い肉をむりやり咀嚼する。


 クレティアスの本業は近衛騎士だ。

 騎士として野営の訓練を受けたのは、入団まもない頃の一度だけ。

 こんな下賎な知識は騎士にはいらぬ――そう言っていい加減にやり過ごしてしまったのが、いまとなっては悔やまれた。


 クレティアスは、馬上でなまった身体を動かそうと、食後に剣を抜き放ち、日々欠かさず訓練している剣技の型をくりかえす。

 いつもなら、型をくりかえすうちに心身ともに落ち着いてくるのだが、今日に限っては、いつまで経っても怒りが鎮まらない。

 気づけば、疲労で腕が持ち上がらなくなるまで剣を振り続けていた。


「くそっ。こんなんじゃ全然足りねえ。

 あの女冒険者の剣技は、しょせん鼠の剣とはいえ、俺の攻めをしのいでのけた。

 そのうえ、あの女には魔法がある。同時に五つのティーカップを叩き割り、カップの持ち主に怪我をさせない――そんな精緻なコントロールをするかと思えば、鎧を着こんだ俺をあっさり吹っ飛ばすような威力のある魔法も使ってくる」


 しかも、だ。


「あの女は、俺を殺さないように手加減してやがった……! 王都の競技会では必ず上位に食いこむこの俺相手に手加減だと……」


 クレティアスは、ぶりかえしてきた怒りに震える。


「……だが実際、手加減されなければ俺は最初の一撃で死んでいた。

 決闘なのだから、殺したとしても罪には問われなかったろう。目撃者の大半は冒険者だったから、騎士たちが文句を言っても、あの女をかばったにちがいない。

 要するに、情けをかけられたのだ。俺など、真剣に戦う価値もないというのか! くそがぁっ!」


 クレティアスは、自己陶酔の激しいナルシストだ。

 だが、それだけの男では、さして有力でもない貴族の家に生まれて、近衛騎士になることなどできなかったろう。

 彼我の力の差を徹底的に客観的に分析し、並外れた執念と血の滲むような鍛錬によってその差を埋める。

 自分が一番でなければ気が済まないというこの男の身勝手な欲求は、すくなくとも剣の世界においては、たぐいまれな向上心という形に昇華されていた。


「だが……くそっ。思いつかねえ。俺には魔術士の適正もすこしはあったが、今から修練してあのバケモノに追いつけるとは思えねえ」


 出口の見えない堂々巡りに、クレティアスは旅人から奪った酒瓶へと口をつける。


 クレティアスは自問自答を繰り返しながら酒をあおり、最後には泥のように酔って地面に倒れた。


 夢ともうつつともつかない朦朧とした意識で、クレティアスは火の消えかけた焚き火のぬくもりを感じている。


 そのぬくもりに近づこうと手を伸ばすと、その手が何か冷たくぬるりとしたものに触れた。


 ぬるりとしたものはクレティアスの全身をたちまち覆い、暗いぬばたまの闇の中へと引き摺りこむ。


 粘度の濃い闇の中で、クレティアスはぼんやりと目を開く。


 クレティアスの目の前に、白いローブ姿の男がいた。

 ローブのフードは目深に下ろされ、見えるのは若い男らしき顔の下半分だけだ。両端のわずかにつり上がった紫色の唇が言葉を紡ぐ。


「おやおや。かわいそうに。

 君も、現実に押しひしがれて泣いている。どうにもならない現実に絶望しながらも、こみ上げる激情を御しきれない。

 いいねえ、君。僕の理想にぴったりだ」


「なんだ……てめえは」


 クレティアスは、いまの自分が異常な状況にあることを認識できなかった。

 夢の中で、現実にはありえない不合理なことがいくら起きても、夢ではないかと疑うことは難しい。それと同じような作用にとらわれ、クレティアスは目の前の光景が夢か現実かを判断することができなかった。


 紫の唇が言葉を紡ぐ。


夢法師ゆめほうし。最近はそう名乗るのが気に入ってる。ま、借り物の名前なんだけどね」


「夢法師ぃ?」


「これでも、ちょっとは有名になったつもりだったんだけど、北から来た君が知らないのはしかたがない。

 でもまぁ、そんなことはどうだっていいんだ。

 僕が君のもとに引きつけられてきたのは、あることを聞くためさ」


「もったいつけてんじゃねえよ。俺はザムザリアの近衛騎士だ! てめえみたいな胡乱うろんなやつは、とっ捕まえて日の当たらねえ牢獄にぶちこんでやる!」


「あっはは! 面白い冗談だ。国を逐われた逃走者が、僕を捕まえるだって? 国になんて戻ったら、日の当たらない牢獄にぶちこまれるのは君のほうじゃないか!」


「て、てめえ……なんでそれを知って」


「知ってるさぁ。すべてね。

 君には、復讐したくてしたくてたまらない相手がいる。

 でも、そのための力がない」


「うるせえ!」


 クレティアスは剣を抜き放って斬りかかる。

 が、瞬く間の斬撃は、夢法師の白ローブをすり抜けただけだった。


「怒らないでよ。君にとっては悪い話じゃないんだから。

 僕が君に聞きたいのはこういうことさ。

 つまり――



『力が欲しいか?』




 白ローブが発したしわがれた声に、クレティアスはのけぞった。


「もう一度しか聞かないよ?

 落ちぶれた騎士クレティアス。

 君は、不条理を覆せるだけの力が、ほしいかい?」


 なぜか、クレティアスは、この質問には本音で答えるしかないと直感していた。


 誤魔化す、嘘をつく、問い返す。

 そうした選択肢は、夢法師の放つえたいのしれない何かによって封じられている。


 が、もとより、クレティアスに迷う余地などなかった。


 クレティアスは即座に答えを返す。


「ほしい。力が! 俺を馬鹿にしたすべてのやつらに地獄を見せてやれるだけの力が!」


 クレティアスの言葉に、夢法師は満足げにうなずいた。

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