最終話

「黎春燕…!」


 その名で呼ばれた女は、一人静かに立ち上がった。それだけなのに何故か皆、ごくりと息を飲んで僅かに後ずさる。

 背丈は雪花と同じくらいなのに、なんという威圧感を放つのか。


(どこにいても、誰に対してもあの姿勢なのか。…恐ろしすぎる)


 それも、風牙とよく似た容貌なのであまりに差異ギャップがありすぎる。

 雪花と志輝も、思わず背筋を伸ばした。


「まだ納得しないか。なんという頭の固さ、視野の狭さよ」

「なんなんだ!おまえまでその娘の味方をすると!?」


 一瞬たじろいだものの、武聖もすぐに態勢を立て直す。周りは顔を真っ青にさせ、ハラハラしながら見守っている。…というより、火の粉が自分たちに振りかからないように必死と言うべきか。

 一方の春燕は両腕を組んで、阿呆が、と容赦なく切り捨てた。


「何故私が味方などせねばならん。ただ、腹が立っただけだ」

「なんだと?」

「おまえは先ほど抜かしたな。舞しかできぬ、得体の知れない娘だと」

「そ、それがどうした!しかも、花街で男衆に混じっているような野蛮な女ではないか!」

「はっ、ますます話にならん。おまえは何をもってそう判断した。気に喰わぬな」

「何がだ!」


 いや、お互いいつも気に喰わないでしょ、皆内心でつっこみを入れる。

 落ち着きそうだった空気がどんどん冷めていく。それどころかチリ、チリ、と見えない火花が発生して今にも爆発しそうだ。

 とっとと避難したいがその場から動くことも許されず、翔珂ですら、口を挟めずこっそり頭を抱えている。

 春燕は野太い声を浴びせられても眉一つ動かず、冷ややかな眼差しを武聖に向けた。


「なら教えてやろう、ちょうどいい機会だ。その娘は私の亡き弟―――黎洪潤の娘で、元の名を凛という」

「!?」


 周りはあまりの衝撃に呼吸すら忘れ、弾かれたように雪花に視線を注ぐ。


「先ほど陛下がこの娘に向けた言葉通りだ。大方、皆予想はついているのではないか?…そうだ、この娘は先日まで無実の罪を着せられていた、陛下の乳母の娘だ。雪花以外の家族は皆、に殺され死んでしまったがな」


 春燕は、上座に控える三公―――今は一人欠けて二人になった彼等を、睨むようにして言葉を続ける。


「そして同時期に、私の末子が消えた事を覚えているか?」

「まさか…黎飛燕!?」

「そのまさかだ。奴はその娘を守るために、家も名も全てを捨て国を出た。そして守り育てた―――今の今までな。貴様らに神童と呼ばれた飛燕が育てた娘だぞ。それが舞うしか能がないだと?はっ、本当に笑わせてくれる」


 春燕は眉を顰めて嘲笑った。そして次に、雪花を見る。


「本当にそれだけしか能がないなら、彼女の周りに人は集まらんだろうよ。―――雪花、」

「は、はい」


 春燕の気に押され、少しだけ声が裏返る。


「“徳は孤ならず必ず隣あり”。その言葉の意味は何だ」


 四書のうちの一つ、確か論語の中の一節だ。

 風牙は旅路の途中、書物も持たずに雪花に色んな事を教えてくれた。彼の頭の中には、彼が身につけた幅広い知識があったからだ。

 雪花は、今この場で側にいてくれる人達を見渡しながら、その問いに答えた。


「―――徳を持った人は一人ではない。必ず、よき理解者が傍に現れる。…その徳というのは“仁”だと、そう風牙は教えてくれました」

「では、その仁とは如何なるものか」

「仁とは、人を思う己の心。内なる己に打ち克ち生まれる心」


 雪花の答えに、春燕は鷹揚に頷いた。


「四書を読んだか」

「直接読んではいません。旅の道中、風牙から口頭で教わりました」

「なら十分だ」


 そう言うと彼女は再び武聖に向き直った。


「“その人を知らざれば、友を見よ”。その言葉を覚えているなら、今一度、その目で確かめてみろ。彼らが、彼女の側に立つ意味を」

「っ」

「私は味方するわけでも、雪花の後ろ盾になるつもりも全くない。既に十分すぎる繋がりが彼女にはあるのだからな。これでもおまえはまだ、雪花を舞しかできぬ娘と、得体が知れぬとほざくか。今の言葉の意味、おまえには分からぬか」

「…っ」


 春燕の鋭い指摘を受けて武聖は奥歯を噛みしめたが、改めて雪花達を見て、ついに観念したように瞼を閉じた。


「伯父上…」


 志輝が複雑な表情をして、躊躇いがちに声をかける。


「…良い、志輝。悔しいが、彼女の言う通り、少しばかり視野が狭くなっていたようだ」

「少しではない。かなりだ」

「少しだ!」

「ついでに曇っている」

「この…!」


 春燕が間髪入れずに訂正をいれれば、武聖はカッと目を見開いた。

 お願いだからもう、両者共黙っていてくれと誰しもが願った。このままでは終着点が見つかりそうにない。


「で、どうするんだ。おまえは認めるのか」

「今更聞くな!」

「では認めると?」

「そうだと言っているだろう!」

「言っていないから尋ねているのだろうが、阿呆め」

「っなんだと!?」


 ああ、やっぱり始まったと官吏達は頭を抱えた。


「自身に非があると思うなら、その娘を侮辱したことをさっさと謝ってはどうだ」

「言われなくてもするからおまえは黙ってろ!」

「言われないと気づかなかった人間がよく言うな」

「なんだと!?」


 さすがにやばいと思ったのだろう、紅優が面倒くさそうに、武聖を羽交い絞めにして抑え込む。


「陛下の、それも国賓の前なのだからお主もそろそろ静かにせい」

「っ」

「春燕殿も、この辺りで許してもらえないか」

「ふん、」


 春燕は両腕を組んで鼻を鳴らすと、大人しく席に座りなおした。

 一触即発…いや、すでに即発してしまったが、ようやく皆は安堵の息をついて肩の力を抜いた。

 雪花と志輝を囲んでいた羅儀とグレン、妃達も元の位置に戻る。

 そして翔珂は今一度、コホン、と咳ばらいをした。


「あー…では、あとは雪花。おまえ次第だ」

「?」

「志輝はお前を望んでいるが、おまえの意見を聞いていないからな」

「!」


 雪花は目をまん丸くさせると、なるほど、と苦笑した。


(…手を伸ばせ、か)


 雪花はきゅっと拳を握ると、まっすぐに翔珂の顔を見上げる。揺るぎのない琥珀の眼で。


 ―――手を伸ばそう。


 求めても良いと、許されるのなら。

 信じる彼らが、背中を押してくれるなら。


 ———この両足で前に進もう。


 彼が、私を望んでくれるなら。

 彼が、手を伸ばしてくれるなら。


 ———彼の隣に、立ってみよう。


 雪花は唇を引き結んだ。


「―――陛下。志輝様は貴方の大切なご友人です。…そして武聖様。貴方様にとっても、志輝様は大切にされている息子同然の存在ですね」


 雪花はその視線を、不機嫌顔の武聖にも向ける。

 そして雪花は裾を払ってその場に膝をつくと、一枝桜を握りしめたまま床に手を付き、深く頭を下げた。


「必ず、大切にしますから。必ず、彼を守りますから。必ず、最後まで共に歩みますから。―――どうかその縁談、受けさせてください」


 雪花の誓いの言葉に、翔珂は満面の笑顔で頷いた。すると拍手が自然と沸き起こり、いつしか割れんばかりの盛大なものとなり場内に響き渡る。


「———雪花、」


 そんな中、志輝が雪花の名前を呼んで、彼女の頬に手を添えて上を向かせる。

 するとそこには少年の様に目を輝かせて、零れんばかりの笑みを浮かべた志輝の顔があって。

 思わず心が高鳴ったのも一瞬。


「っちょ、何するんですか!」


 彼は雪花を強く抱きしめると、そのまま高く抱え上げた。


「本当に、貴方には敵わない…!」


 抑えきれない喜びを口調に滲ませる志輝を下に見て、顔を赤面させた雪花が暴れたのは言うまでもない。


「は、恥ずかしいからさっさと降ろせ!」


 雪花が手にしたままの寒緋桜が揺れて、さわさわ、と笑うように鳴いた気がした。




 ◇◆◇





「あはは!結局、志輝様はお預け食らう訳ねっ」


 妓楼に戻った雪花は、夕食をとりながら萌萌と秀燕と話していた。萌萌は雪花から話を聞いて、けらけらとお腹を抱えて大爆笑だ。


「嫁に行くのは一年後、ね。まあ色々準備もあるだろうしね」

「いや…。準備というか、修行というか…」


 雪花は言葉を濁して、疲れた様に呟いた。

 実は、あれでめでたしめでたし、ではなかったのだ。

 宴が終わった後、春燕から雪花と志輝に条件が付きつけられたのだ。

 このまま嫁にいったとしても、鬱陶しい貴族のしきたりや作法で、周りからやいやい言われるだろうから、一年で身につけてから嫁にいけと。その後はやることやるなり勝手にしろと、なんともあけすけな物言いであった。

 さすが風牙の母親である。


「春燕様が見てくれるなら大丈夫よ。まあ、ちょっとは地獄を見そうだけど」

「…ちょっとで済むかな、あれ。絶対済まない。地獄を見るんじゃなくて、地獄に落とされますから」

「ま、頑張れよ」

「うんうん。頑張ってね」


 他人事だと思っているだろうと、雪花は胡乱な目を向けて大根の漬物を食んだ。


「それで志輝様は?」

「…しぶしぶ納得した、と思うけど」

「へぇー、忍耐力なさそうなのに」

「ねぇー」


 この二人にかかれば、志輝だろうが遠慮はなしだ。


(…いや。全然納得はしてなかったけど、まあ私もいきなり嫁入りってのはちょっと心の準備が…。とりあえず、で引き下がってくれてよかった)


 あれ、というのは、あの嬉しそうな顔から一転、不機嫌丸出しの志輝を宥めるために雪花が取った行動だ。

 思い出したら恥ずかしいが、まあそれで一旦は大人しくなったのだから良しとしよう。

 ほんのりと赤くなる頬を手で仰ぎながら、ふう、と息をついた。


「あら、何か怪しいわね」

「怪しいな」

「べ、別に怪しくないですよ。それより、風牙達はいつから出仕するの?」


 無理やり話題を変えて、雪花は二人に尋ねた。

 実は風牙、帰蝶、楊任に、再度官吏としての打診があったようで、この度三人とも受諾したようだ。

 ちなみに彼等の帰還の知らせに、朝廷内ではすでに一波乱起こっているようだ。


「さあねえ。花見が終わるまでは行かないって、風牙がダダをこねてたけど」

「花見?」

「寒い季節に働きたくないんだってさ」

「…」


 ああそう、としか言いようがない。


「えーと。じゃあ、次の楼主は?」

「それなんだけどねぇ…」


 萌萌はちらりと秀燕を見た。


「秀燕が継ぐんですか?」

「いや…まあ、半分正解か」

「?」


 首を傾げた雪花に、萌萌と秀燕が顔を見合わせた。


「実は、二人体制でやることに決めたの。私と秀燕、二人でやっと一人前だから」

「二人!?え、でも二人はもう年季が明けるのに…」

「でもねぇ。結局、ここが私達の家なのよ。帰蝶姐さんが作り上げたものを、私達が守ろうって決めたから」

「帰蝶姐さんが、そのための術は教えてくれたから。ま、色々悩んだけどやってみようってな」


 頷き合う二人に、それが二人が考え抜いた決断ならと、雪花は神妙に頷いた。

 すると、外から駆け込んでくる騒がしい足音がする。


「あーっ寒い!」


 外套を着こんだ風牙である。彼に続いて楊任、帰蝶も入ってくる。

 彼らは、黎家に寄って春燕と話を詰めていたようだ。


「あー、久しぶりに帰ってきた」

「一週間も経ってないだろう、楊任」

「あのね帰蝶、通訳だって結構疲れるんだよ。大体泊まり込みなんてありえないよ。ソフィーはあれやこれやと煩いし」

「皆、おかえり。さっき美雨が柚子大根持ってきてくれたんだよ」

「はぁ?もっと良いもの寄越せっての、あの女」


 帰蝶が外套を脱いで、ぶつくさ呟く。


「それより雪花、聞いたわよ!嫁入りは一年後になったそうじゃないっ。もう少し一緒にいれるわね、嬉しい!あのバ…母さんもたまにはいいことするじゃないっ」


 風牙が、実に率直な気持ちを述べて雪花に抱き着く。


(今、ババアって言いかけたな)


 ポリポリと大根を食べながら、雪花は離れろと彼の顔を肘で押し退けるが、彼はくっつき虫のように離れようとしないので諦める。


「まぁあれは、春燕様から志輝様への完全なる嫌がらせだね」


 帰蝶も大根をつまみながら、席に着く。


「あの小僧、ざまあみろっての。ふん、大人しく“待て”をしておくことね」

「それができない奴が何言ってんだい」

「なんですってぇ!?私だって、やろうと思えばできるわよ!」

「それができてたら、今こんなに借金まみれじゃないだろうよ」

「はぁ!?」

「…煩い」


 いつもの光景にほっと心を和ませるが、この光景を見れるのもあと少しか、と思えば淋しいものがある。


「…でも、三人がいなくなったら淋しくなるね」


 そう呟けば、三人がきょとんと目を向けた。


「あら。確かに戻るには戻るけど、俺はあの家には帰らない。…あんな家にいたら三日ともたない。命がもたない。というか、皆の拠点は一応ここだしな」

「え、そうなの?」

「今更引っ越してもねえ。とりあえず、出仕さえすれば文句はないだろうし」

「そうそう。ここなら、鬱陶しい文句を運んでくる輩もそういないし、色々と情報収集にもなるしね」


 …花街から出仕する官吏なんて、聞いたことがないけど。まあ確かに外宮はすぐそこだしな、と深くは考えないようにする。


「だからね、雪花。紅家に嫁いでも、嫌になったら志輝様の顔面叩いて家出したらいい。おまえはもう居候じゃないんだ、ここの家族なんだから」


 帰蝶らしい心遣いに、皆、それぞれ噴出した。雪花も笑いを堪えながら、ありがとうと礼を告げて食事を再開する。



 そして時は過ぎて一年後―――。



 一人の麗しい男が紫水楼を訪れる。琥珀色の目を持つ女を、妻として迎えるために。

 その女は白い衣を身に纏い、髪には桜の簪を挿して男の訪れを待っていた。


 男は女に向かって手を伸ばした。

 女は、その手に己の手を重ねる。


 二人は見つめ合うと、擽ったそうに、照れた様に笑った。



 突き抜けるような青空に、風に揺られた桜の花びらが舞う日の事であった。




【完】

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