第15話
四ヵ国会談最終日。会談を終えた各々の国の面々は、志輝に案内され宴の席へと案内された。
それぞれの席には膳卓がおかれ、酒と料理が次々に運ばれてくる。
勿論国の高官達も下座に並んでおり、初めての会談が終わったことに、和らいだ喜びを湧かせている者もいれば、今後のことを考えているのか神妙な面持ちをした者、いつも通り感情を読ませない者と様々だ。
その光景を玉座に座る翔珂は何気なしに眺めているが、内心で考えていることは別の事だ。考えている、というより心配で落ち着かないのだ。
会談の内容も、今後議論しなければならないことも、頭を悩ませる事も多々あるがそういった政についてではない。
傍に控える白哉を呼んで耳打ちをした。
「おい、本当に雪花は大丈夫なんだろうな」
「星煉からの連絡によれば、とりあえず雪花ちゃんは出る、とは言っていたよ」
「い、胃がキリキリする。あいつ、突然逃亡なんてしないだろうな」
「あはは、あり得そうだけど、怖いお妃様達が許すはずがないよ」
「そうだけど…。はぁ、頼むから無事に終わってくれ。そして志輝のあの機嫌をどうにかしてくれ。こっちの気がもたない」
いつもの微笑を浮かべ平静に仕事をしているようだが、人気のないところではどんよりと一人湿気っているのだ。この世の終わりとでも言いたげな空気を生み出していると言うか(仕事はいつも通りだが)
とある筋からの情報によると、どうにも雪花相手にやらかしてしまったらしい。
女の対応に誤ったことのない志輝を悩ませるなんて流石だな、と無愛想な幼馴染をある意味賞賛してやりたいが、政務で彼の横にいる自分の立場を考えてもらいたい。
こっちまで湿気って茸でも生えてきそうだ。
そもそも、この舞台は志輝と翔珂が考えついたものだ。雪花自身が素直に頷いてくれていれば、二人の間に溝なんてできず、滑らかに物事は進んだのに。
すると、羅儀が酒を啜りながら志輝を捕まえたのが見えた。
なにやら、面白そうに耳打ちしている。
(おいおい、頼むからこれ以上あいつの地雷を踏まないでくれ…)
内心ハラハラしながら眺めていると、江瑠沙女帝と玻璃王が酒を交わしながら、こちらも小さないざこざを始めていたのが視界の端に映った。
いざこざ、というより、しつこい男とそれを追い払う女といった構図だろうか。
「ソフィー、なんで嫌がるんだ。みんなで仲良くやればいいじゃないか」
「だから、一人で勝手にやってなさいって言ってんでしょう!?なんで私があんたの嫁になんなきゃいけないのよ、阿呆じゃないの!これ以上言うと冬の海に落とすわよ!」
「その時はグレンが拾い上げてくれるさ!」
「あはは嫌ですよ、兄上。そのまま鮫の餌になってください」
二人はなんでも顔見知りだと言う。会談の時は互いに張り詰めていたが、今は互いにリラックスしているように感じる。
まぁ、道化師のような玻璃王の腹の中は読めたものではないが。
「やー、初めての会談だったけど、無事に終わってみんな和んでるねえ」
「まぁな…。肚の中じゃ、何考えているのか分からないが」
「ま、今回は顔合わせみたいなものだしね。あとは―――うん、あとは雪花ちゃん次第だ」
「…だな。ここに来た時点であいつも腹を括っているだろうが、問題は林家を黙らせることができたとしても、不気味な沈黙を貫いている黎家がどう動くかだ。幸いここにはあいつの味方が集まっているが、それすらも彼女は意に介さないだろう」
無表情のまま、箸を進めている黎春燕をちらりと見て翔珂は呟いた。
「でも、伝えても何も返事は無かったんでしょ?なら可もなく不可もなく、なんじゃない?勝手にやってろ餓鬼どもが、みたいなさ」
「…それが怖いんだ」
黎春燕―――天才肌の変人達が集まる黎家をまとめる女当主。彼女が、雪花と志輝をこのまま認めるのだろうか。
正直、賛成も反対もしない沈黙が一番怖い。
ある意味、厳しい表情をしながら酒杯を傾けている林武聖の方が、まだ分かりやすくて対処の仕様がある。
(黎家か…)
古くからの国の忠臣であり、ほかの色には染まらない気高い一族。
皆は知らないが、初代王の過ちを知る王家の鏡役でもある。
天花に一人で罪を背負わせたことを、王家に忘れさせないための。
(自分は美桜を迎えることは叶わなかったが…。枠から外れた志輝と雪花は、もしかしたら彼らが待ち望んだ———いや。時を越え、巡り会えた二人なのではないだろうか)
それを人は運命と言うのか。それとも浪漫と言うのか―――。
すると翔珂の思考を途切れさせるように、銅鑼が大きく叩かれ、楽人達による演奏が始まった。
◇◆◇
「雪花、準備はいい?この次よ」
舞台袖で、雪花は一人深呼吸して心を落ち着かせていた。
楽人達の音が途切れれば、次は自分の出番だ。
さすがの雪花でも、教坊の妓女でもないのにこんな舞台に立つのは緊張する。
(あー…。吐きそう)
一方妃三人は堂々としていて、その精神力を少しは分けて欲しいものだと雪花は羨ましげに彼女達を見る。
だが、ここは自分が頑張るしかない。彼女達の手前、失敗することは許されない。
夜遅くまで練習に付き合ってくれ、助言をくれ(かなりの強行訓練だったが)、本当に身に余るばかりの心遣いだ。
冷たい指先を擦り合わせていると、桂林妃にその手を掴まれた。というより、包み込まれた。
思わず目をきょとんとさせると、桂林妃は横をそっぽ向いて呟いた。
「貴方ならできるわよ。…悔しいけど、基礎は私より上だわ。ほんの少しだけだけどっ。だから、あとは心を込めて頑張りなさいよ。私達の顔に泥を塗ったら許さないんだからっ」
「桂林様…」
これはもしかしなくとも、励ましてくれているのだろうか…。
蘭瑛妃と麗梛妃を見ると、面白そうな、意味深な微笑を口元に浮かべている。その目は生温かい。
「な、なんなのよっ、貴方達!」
「舞のお上手な桂林様が素直に褒めるなんて。ねえ、蘭瑛様」
「ええ本当に。まったく可愛くないんだから」
「はぁ!?」
「よかったですね、雪花さん。
袖の向こうでは曲が止み、拍手が起こる。
麗梛妃は優しく微笑んで、彼女も雪花の手をぎゅっと握った。
「そうよ。いっちょかまして、林家を黙らせるわよ」
蘭瑛妃は雪花の背中を強く叩いて喝を入れる。
それぞれに輝く妃達の表情。
なんて優しい人達だろう。自分なんかの為に、ここまで親身になってくれるなんて。
そして思った。
彼女達が翔珂の側に居てくれてよかったと。
もう美桜はいないけれど、彼女達なら彼を大切にしてくれるだろう。王として仕えるだけでなく、鳳翔珂というひとりの男を支えてくれる。
雪花はふっと唇を綻ばせ、そして瞼を閉じた。
自分も彼女達のようになれるだろうか。
雪花は妃達に続いて入場した。
手に、一枝桜を持って。
皆の好奇な視線が雪花に集まる。妃達が演奏に回っているのだから当たり前だ。
普通、こんな恐れ多いことはできないだろう。
なんて恐れ多い場だ。でも、だからこそもう、後には引けないのだ。
始めの音を弾いたのは、古箏を演奏する桂林妃だ。彼女は長い指に嵌めた義爪で弦を軽やかに弾き、音を躍らせる。左手が弦の上をなめらかに滑れば、鮮やかな音が一瞬で混じり合い、皆の感嘆の息を誘った。
そして余韻が残る一拍を置くと、三人の妃達と雪花は互いに目で示し合わした。
今度は三人共に、音を奏でる。
蘭瑛妃は龍笛に息を吹き込み、水が流れるような澄んだ音色で。麗梛妃は二胡を構え、弓を弦に滑らせて奥深く響く美しい音色で、共に主旋律をなぞる。それを包み込み、更に美しく引き立たせる桂林妃の対旋律。
そして雪花は、彼女たちの演奏に合わせて舞い始めた。
両腕を大きく広げ、緋寒桜が咲いた一枝を前へと差し出す。そしてくるりと背を向けて軽やかに飛び上がる。胸から足先にかけて、月の弧を描くようにしなやかに。そして着地すると同時に片足を軸にして、軸がぶれないようにくるりと回る。
(―――風花雪月…。それは自然の美しい風物)
回転が終わると同時に両腕を上げ、指先にまで意識を通わせて上半身を逸らす。
自然が美しいのは、その姿が永遠ではないからだと天羽は言った。
風は優しく頬を撫でる時もあれば、全てを薙ぎ払う嵐に化ける。花が咲き誇ることができるのは僅かな間で、いずれは枯れ果てる。雪は深々と降り注ぎ人の目を楽しませるが、すぐに姿を失くす儚いもので。月は夜空にかかって輝きを放つが、次第に欠けて暗闇に溶けてしまうもの。
完全ではないからこその美しさがあるのだと、彼女は教えてくれた。
そしてそれは、自然の中に生きる人も同じことだと。
完璧な人間などいない。だから人は、互いに補って前を向いて生きていくのだと。
人の生は永遠ではない。だから人は、輝くのだと。
(うん…天羽様。確かにそうだね)
自分に欠けているものがある。彼にも欠けているものがある。
でも、どうしてだろう。彼といれば腹が立つことも、心を搔き乱されて落ち着かないことも多々あるのに、その温もりに安堵し、心が温まるのだ。
多分それは、互いに見えない何かを補い、分かち合っているからではないのだろうか。
雪花は小さな歩幅で床を駆けると、片足で宙に半円を描いて再び上体を逸らす。
そして艶やかに、心を届けたい人に眼差しを向けた。
その姿は前方―――玉座の近くに控えている。
志輝の目と雪花の目が交差した。
(遠い、な…)
遠い―――これが今の、雪花と志輝の距離。自分がこの場に居る事だけでも奇跡だ。
美月と道興の様に、美桜と翔珂の様に、近くにいても結ばれることはなかった人達もいる。
でも、この距離を埋められるなら。この距離を、駆けていけるなら。それを許してくれるなら。
皆が助けてくれるというのなら、彼らを信じて最後まで心を込めて舞ってみよう。
それが自分にできる精一杯のことだ。
雪花はその目を流し見すると、ふわりと笑んだ。
◇◆◇
出てきたのは確かに雪花なのに、まるで別人のように志輝の目に映った。
少年のようなあどけない雰囲気を残しながらも、彼女は一人の女として美しかった。
目元に紅を引き、額には花鈿をあしらい、唇には桜色の紅を乗せて、彼女は堂々と舞っていく。
翔珂と白哉も呆気にとられ、雪花を知っているグレンと羅儀も驚いて目をまん丸くさせている。
藍白と純白の衣は、まるで粉雪が降り注ぐようにひらりと宙を舞い人々の視線を誘う。
しなやかで柔らかい身体は、美しい曲線を描き出して人々の心を奪う。
片足を後ろに高く上げて、上体をそらしてその爪先を掴んでくるりと回転すれば、皆息を飲んで彼女に魅入った。
流れる水の如く、止まることなく彼女はただ踊る。
ぶれることのない美しい軸。
小さな身体が飛び跳ねては、トン、トン、と軽やかに着地する。
翔珂の実母———天羽妃は、元は各地を旅する舞姫であり、幼い頃から芸を極めた女性だったと聞く。彼女は旅の途中で宮廷に招かれ、今の雪花のように先王の前で美しい舞を披露し、そして見初められた。
その時の曲が、この風花雪月だ。
彼女は先王の心を溶かせさせた唯一の女性であり、当時の歪んだ後宮において彼の唯一の妃になった。
朧げな記憶の中で、先王は唯一の息子である翔珂にこう言ったそうだ。
『天羽がいれば、私は心が温かくなる。彼女はまるで、厳しい冬を終わらせ春をもたらす精霊だ。彼女が側にいるだけで、私は生きていてよかったのだと思えるよ』
その言葉に込められた意味を、自分達が知る由は無い。
だが彼も、苦悩の日々を生きてきて彼女に救われたのだと、それだけは感じ取れる言葉だと思った。そう、自分と同じだ。
志輝も雪花に救われたのだ。
『貴方自身が、貴方を認めてやってもいいんじゃないですか?』
何気ない一言、小さなきっかけに過ぎない。
でもその一言で心を救われたのだ。
そして、思い出したのだ。とうに忘れてしまっていた昔の記憶を。
父が、自分達姉弟を抱き上げ遊んでくれた時の事を。愛してる、と慈しんでくれていた事を。
母が躊躇いがちに自分達の頭を撫でて、頬を綻ばしてくれた時の事を。
そうだ。何も残酷な思い出ばかりではなかった。自分が忘れていただけで、些細な幸せな時は、少なからずあったのだと。
(彼女が欲しい。共に歩みたい)
多分、人生において自分には雪花しかいない。大袈裟だろうが、そうしか思えないのだ。
今までの、何気なく生きてきただけの頃の自分であったらこんな気持ちにはならなかっただろう。
一族が言う通り、あの美しい娘———汕子を娶っていたかもしれない。
昨日の夜、志輝は汕子から告白を受けた。
『―――志輝。私は貴方が好き。子供の頃から、ずっと好きだった』
真面目で、真っすぐな努力家の汕子。彼女が自分に向ける気持ちにも気づいていた。
でも、見つけてしまったから。汕子の気持ちは十分に伝わったが、彼女ではだめなのだ。
『ありがとう、汕子…。でも私は、同じ気持ちを返すことはできません。…本当に、すみません』
想ってくれる気持ちは嬉しい。でも、それを志輝は彼女に返せない。
心を注ぐ相手は、今、目の前で舞う彼女しかいないのだ。
『…彼女を選ぶのね』
彼女は分かっていたように、ため息をついた。
『はい』
『…馬鹿ね。こんなにいい女を振るなんて』
汕子は目元に、少しの茶目っ気をのせて笑った。
『本当に馬鹿だと思います』
『…本当に彼女しか、考えられないのね』
『ええ。選択肢がないんです、それ以外に』
『重症ね。…でもね、志輝。貴方は見る目があるわ』
『え?』
『あの子、私もそんなに嫌いじゃないから』
そして汕子は、今朝方屋敷を去って行った。
彼女しか考えられない―――。本当にその通りだ。
世の中に女など星の数ほどいる。
でも、先王にとっての唯一が天羽妃であったように。
志輝にとっての唯一は、雪花なのだ。
理由なんて分からない。ただ惹かれる。ただそれだけだ。
雪花が、扇の代わりに持つ緋寒桜の一枝は、かつて天羽妃が手にして踊ったもの。寒い冬の中で咲く緋寒桜。
天羽妃が春を告げる精霊というなら、雪花は自分にとって、雪解けを誘うその桜だ。
春先に咲く淡い色の桜ではない。それはそれで儚く美しいが、彼女はどちらかと言えば———緋紅色の、艶やかな色を人々の目に焼き付ける花だ。
血と涙を流しても、自身の信念を貫くその強さ。冬の中でも咲き誇る、その桜の様ではないか。
曲が佳境を迎える。三人の妃達による美しい演奏に雪花自身も負けていない。
よくあれだけ息も乱さずに舞えるものだ。
翔珂が、風花雪月でも彼女なら問題ないだろう、と確信めいた物言いをしていた。幼い頃に天羽妃から直々に指導を受け、その後妓楼でも訓練を積んでいたのだから、このくらい彼女にとっては朝飯前なのか。
幼い頃からあいつは猿のようだったぞと、翔珂は昔を懐かしむように笑っていた。
今ではそんな面影はないが、確かに幼い頃の彼女であれば、お転婆でそのようだったのかもしれない。
ああ、曲が終わってしまう———。
すると雪花は、その一枝桜を天井高く投げた。
観客が皆、唖然とその光景に目を見開く。
志輝も、思わず目を見張った。翔珂だけが「おいおい、」と小声で苦笑した。
彼女は投げるや否や前に駆け出し、両手を床に着くと片足ずつ天井に掲げ、前にくるりと回転したのだ。そして、落ちてきた一枝桜をその手で掴むと、曲が止むのと同時に床に両膝をつき、目の高さで供手した。
場内に落ちる沈黙。誰も動かない。
雪花の荒い呼吸だけが、静かに響いていた。
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